<慙愧に堪えない>は政治家や著名人や大会社の社長などがあやまちを認め公的に謝るときに好んで使われるようだ。一般社会では少し大げさすぎる。<慚愧>はもちろんやまとことばではない。どういうわけか昔の中国ではほとんど異なった二つの意味があったようだ。いま<水滸伝-1(手へんの漢字について)>というブログを書いているが、出だしで次のような文章に出くわした。
xxx 母親說道:『天可憐見 !慚愧了我母子兩個脫了這天羅地網之厄!此去延安府不遠了,高太尉便要差拿我也拿不著了!』母子二人歡喜 xxx
<我ら母子二人はxxxxx厄から脱した>ので<慙愧する>では何のことだかわからない。調べた結果は次の通り。
<慚愧>は曲者で日本語の<慙愧に堪(た)えない>の慙愧とはずれがある。本家の慙愧はかなり複雑。
<慚愧>
反義詞: 驕傲
近義詞: 內疚,汗下,羞慚,羞赧,羞愧
基本釋義:
1. [be shamed]∶ 因有缺點或錯誤而感到不安;不安
2. [lucky]∶ 幸運,僥幸
という簡単な解説があるが、1.と 2.はほとんど関係がない。上記の引用の場合、発話内容から <2. [lucky]∶幸運,僥幸>だ。
<1. be shamed]∶ 因有缺點或錯誤而感到不安;羞愧>
<不安>と<羞愧>は関係が薄いが一行の解説で並んでいる。近義詞の<內疚>は<はじ>、<はずかしい>とは違って個人的な、内的な<良心の呵責>に近い(と思っていた)。<汗下> は出くわしたことがないが<(はずかしくて)汗を垂らす>だろう。<赧颜汗下>という四字成語があり、<赧>の字は見たことがないがこれも想像がつく。続く<羞慚,羞赧,羞愧>は個人的、社会的(世間体)の程度に違いがあろうが<恥>と言える。これらが、これまた<內疚>を含めて一行の内に並んでいるのだ。ちなみに手元の日本語辞書では<慙愧:悔いかつ恥じること>とあるので、<內疚>かつ<汗下,羞慚,羞赧,羞愧>ということか?これは意外と重要なポイントだ。
ここで問題は<慚愧>の反義詞が<驕傲(おごり)>となっていることだ。まあ、<はずかしげもなくxxする>のが<驕傲(おごり)>とはいえるが、<恥>と<おごり>は結びつきにくい。だがこれが中国人の発想ともいえるので軽視できない。日本人の発想からは<おごり>の反対は<遠慮>、<謙虚>、<つつしみ>だろう。恥に関係なく<遠慮、謙虚さ、つつしみのない言動>が<驕傲(おごり)>と考える。大体西洋人にとっては<遠慮>、<謙虚>、<つつしみ>は必ずしも徳、ほめられたことではない。この辺は中国人は日本人よりも西洋人に近いようだ。したがって<慚愧>の反義詞が<驕傲(おごり)>と見るのだろう。もっとも反義詞というよりは<慚愧のない言動>が<驕傲(おごり)>ということなのだろう。<遠慮>、<謙虚>、<つつしみ>はあまり関与しない。これは日本人にとってわかりにくいが重要なポイントだ。
さらに調べてみると、慙愧はもともと仏教用語のようだ。下記の解説参照。
http://ddmtv.ddm.org.tw/Upload/UserFilesPath/file/201401/20140105.pdf
”
知慚愧才能更上進 -聖嚴法師
「慚愧」是佛教的專有名詞,在佛教傳入中國之前,並沒有「慚」、「愧」二字連稱的詞彙,而這兩個字都是一種修行的方法與觀念。其中「慚」指的是對不起自己,也就是「自慚形穢」;「愧」指的是對不起他人,所以說「愧對於人」。其實一個對不起他人的人,往往也會對不起自己,譬如做錯事傷害到別人時,至少對自己的品德就已經造成損害,所以也是對不起自己。
而當我們對不起自己的時候,往往也就減少了對人能夠更好一些的機會,所以對不起自己通常也就對不起他人。譬如父母都希望兒女能為家族爭光,兒女如果沒有做到,那是對不起自己,也對不起父母,讓他們失望了。
雖然並沒有做壞事,但是因為不夠用心努力,浪費了時間、生命,辜負了家人、家族的期待。因此,慚、愧二字連起來用,就有對不起自己又對不起他人的意思了。
所以,我們對於老師、朋友,乃至於全體眾生,都應該經常懷著慚愧心,這也是印光大師自號為「常慚愧僧」的原因。一位人人都認為缺點很少,足以為模範的高僧,仍然覺得自己經常犯錯而感到慚愧,這不僅是謙虛的一種品德,而且是比謙虛更進一步的修行。
謙虛是自知有所不能、有所欠缺,所以對人很謙虛。可是慚愧是非常積極的,自己知道錯了應該改過、自己知道不行應該努力,自己知道做得已經不錯,但是還不夠好,應該更努力改進,這就是常常有慚愧心、菩提心的人。我們學佛就是要學習有智慧、有慈悲,自利利人的菩提心、菩薩心,並且要一直到成佛才算圓滿;在尚未成佛以前,都應該隨時提起慚、愧這兩字。
如果能夠常把「慚愧」兩個字放在心頭,則會有三大好處:第一是不敢懈怠,會非常精進、努力。第二則是非常謙虛,不但見到任何人都會尊敬,並且會無條件地幫助人。第三是能夠忍辱負重,因為懂得慚愧,所以難行能行、難忍能忍、難捨能捨,這就是菩薩精神。
因此我們不要誤會,認為有慚愧心就表示是有缺點,承認有缺點就表示做人很差勁,事實上是恰好相反的。因為知慚愧,所以才能缺點很少,常常改進;因為知慚愧,所以保持努力,精進不懈。
本文摘錄自法鼓文化出版《放下的幸福》
”
冒頭の<「慚」指的是對不起自己,也就是「自慚形穢」;「愧」指的是對不起他人,所以說「愧對於人」。>は「慚」は自分に対する<對不起>、「愧」は他人に対する<對不起>と明確だ。
<慚>は<內疚>に近い。<愧>は <汗下、羞慚、羞赧、羞愧>に近い。<慙愧:悔いかつ恥じること>に相応する。だが他人に対する<對不起>はかならずしも<恥>ではない。<恥>はいろいろ論議があるが<他人の目>、世間、社会がからみ、これらと自分との関係を考えた相当複雑な<對不起>だ。
上記の仏教的解説はなぜ2. [lucky]∶幸運,僥幸の意味が発生、派生してきたかも説明しているようだ。つまり、かなり高度の宗教的解脱みたいなもの、あるいは根拠のないこじつけになるが、<慙愧>を継続的、習慣的にすることにより、あるいは<慙愧に堪えれば>幸運、僥幸というか幸福が得られる、ということか?
さて日本語で<くいる>という言葉がある。 漢字で書くと<悔いる>
<慙愧>の発音は<can kui>(四声無視)で<愧>は< kui>。<悔>の発音は<hui>(四声無視)。<hui>は昔、どこかの地域では<くkui>であった可能性がある。<kui>+動詞語尾<る>で<くいる>になる。一方<慙>は発音(can、つぁん)対応する日本語が見つからない。<悔いる>は社会性が薄く、自分に対する<對不起>、<內疚>に近い。したがって<慙愧>の<慙>が<悔いる>だ。一方<愧>は他人に対する<對不起>、<汗下,羞慚,羞赧,羞愧>で<はじ>、<はず(古語)>、<はじる>。つまりは、すこし時間を費やしたが、<慙愧>のやまとことばは日本語辞書の<慙愧:悔いかつ恥じること>に落ち着くことになる。あとの<堪えない>を加えると<悔いかつ恥じることに堪えない>となるが、語呂が悪いし意味も通じにくい。名詞(体言)形にして<悔いと恥じに堪えない>も語呂はよくないが、この方がよさそう。だが、問題はまだ残っている。問題は<悔いと恥じ>が同時になされることで、<悔い>も<恥じ>も深度、真摯さが薄れるような感じがする。この辺が、言い古されていること、<慙愧>がやまとことばでないことに加え、政治家や著名人や大会社の社長の<慙愧に堪えない>という発話がほとんど聞く人の心を打たない理由ではないか。
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