Monday, October 20, 2014

カンニング、<のぞく>、<うかがう>について


カンニングはもとの言葉(語源)は英語の cunning で、やまとことばとはいえないが、もとの意味からのかけ離れ具合からは<やまとことばもどき>と言える。

調べたわけではないがカンニングの意味は<学校での筆記テスト中にまわりの生徒の答案(用紙)の答えを盗み見をして自分の答案にコピーする>ことだろう。だろうと、思っていたが、辞書の解説はかなり一般化してもとの意味 cunning にかなり近くなっている。

三省堂新明解辞典の解説は次の通り。


cunning(ずるい)の日本語的用法。学生が試験の際に教えあったり、本やノートなどを見たりする不正行為。



私の理解では cunning =<盗み見>で、動詞で言えば<盗み見る>なのだが、<盗み見る>というのは実際あまり聞いたことがない。<盗み見る>が使われないのは<人聞きが悪い>ためだろう。<のぞく>という動詞がある。名詞(体言)形は<のぞき>きだが、これは<盗み見>以上に<人聞きが悪い>ようだがよく使われているようだ。<のぞく>に似た動詞に<うかがう>がある。<のぞく>と<うかがう>はおもしろい大和言葉なので検討してみる。

1.のぞく

<のぞく>は自動詞、他動詞の両刀使いだ。

これまた<人聞きが悪い>表現だが<スカートのすそから xx がのぞく>の<のぞく>は自動詞。<xx>が主語だ。一方<戸のすき間から xx をのぞく>の<のぞく>は他動詞で<xx>は直接目的語だ。


花子の顔に不安な様子がのぞく(のぞいている)。

<のぞく>は自動詞。主語<不安な様子>だ。

花子はその顔に不安な様子をのぞかせている。

この場合は花子は主語のようだが、そうとは言いきれない。なぜなら、花子が意識的に<不安な様子をのぞかせている>わけではないからだ。なにかが<花子不安な様子をのぞかせている>いるのだ。これは<のぞかす>は<のぞく>の未然形+<す>で使役形、あるいは他動詞形であることに由来する。見えない主語があるともいえる。日本語らしくなくなるが

<何かが花子その顔に不安な様子をのぞかせている>という意味なのだ。詳しく調べ、確認はしていないが、ドイツ語ではこのような言い方が普通のようだ。<何か>は非人称(不特定)代名詞の es になる。

例をもう一つ。

富士山は頂上が雲の上に見える。
富士山は頂上を雲の上に見せている。

一番目はもちろん、二番目の<富士山は頂上を雲の上に見せている>も富士山は主語ではない。なぜなら<富士山、意識的に、頂上を見せている>わけではないからだ。それではこの富士山はなにか。主題あるいは話題ともいえるが、上記のドイツ語の非人称(不特定)代名詞の es にならえば

なにかが(主語)富士山頂上を雲の上に見せている。

となる。

話が少しずれてしまうが、この問題を考えているうちに発見したことを、忘れないうちに、書いておく。末尾参照


2.うかがう

花子の顔に不安な様子がのぞく(のぞいている)、の<のぞく>を<うかがう>で入れ替えてみる。

花子の顔に不安な様子がうかがえる(うかがわれる)。
花子はその顔に不安な様子をうかがわせせている。

<うかがわす>は<xx を>と<を>をとり、また<未然形+す>で、他動詞だが、意味としては<xx が見える>で自動詞。 主語は<様子>だが、少し変だ。<何かが様子を見えるようにしている>感じがするのだ。これも、日本語らしくなくなるが

 なにかが(主語)花子その顔に不安な様子をうかがわせせている。

となる。<に>が重なるので語呂は悪いが、理屈にあう。

<うかがう>は他動詞で自動詞表現は<うかがわれる>で受身形になる。 <うかがう>は多義語だ。

1)となりの様子をうかがう    

うかがう=気づかれないように見る、で<のぞく>に近い意味だが、<人聞きの悪さ>はなく、むしろ<心配して>などの修飾が合うようだ。

 2)xx する機会をうかがう

この<うかがう>は<ねらう>の意だ。

敬語表現で発達しており、

3)これから<うかがって>もよろしいですか?

名詞形では

これから<おうかがい>してもよろしいでしょうか?

とかなり長くなる。意味は訪(たず)ねる、訪問する、だ。

 4) 少し<うかがい>たい、<(お)うかがい>したいことがあるのですが?

これは、<たずねる>でも<尋ねる>のほうで、質問する、の意だ。

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末尾

このドイツ語の非人称(不特定)代名詞の es について少し考ええみる。英語でも非人称(不特定)代名詞の it がある。ドイツ語の es ほどは活躍しないが、

It rains. It is raining.

という言い方があり、これは雨がふれば必ず使う、it の代表的なの使われ方だ。なぜ it  が使われるかというと、雨はふるものだが、何か、誰かが<雨をふらしている>と考えるのは決してとっぴな考え方ではない。何か、誰かは不特定だが存在しているのだ。to rain という動詞はこれで<雨がふる>の意がある。Rain でいいのだが、これでは複数の何か、誰かが主語になる。単数であれば、Rains となる。だが英語では叙述文は主語が必要なのだ。なぜ必要かというと、動詞は人称変化するのだ。<雨がふる>という意味だけをつたえるなら it はなくてもいいのだが必要なのだ。

以上は<忘れないうちに、書いておく>の前置き。 新たな発見は以下に書く。


英文法で受身形と言うのを必ず学ばされる。

1)This window was broken by Taro yesterday.

この窓はきのう太郎に(よって)こわされた。

2)This window was broken by the typhoon yesterday.

この窓はきのう台風でこわされた。

以上の二例はほぼ同じ構造。ただし

<この窓はきのう台風によってこわされた>とはいえるが<この窓はきのう太郎こわされた> とはいえないので、少し違う。

例1)の主語は<この窓>で、< 太郎に(よって)>の<太郎>は主語ではなく、(窓をこわした)動作主といわれる。
例2)も主語は<この窓>で、これも<台風で>の<台風>は主語ではなく、(窓をこわした)動作主といえそうだが、少しちがう。どこが違うかというと、太郎の場合は意識的(意図的)にしろ無意識的(意図なし)にしろ、人の意識は意図がからんでくるのに対して、台風の場合は基本的に意識は意図がからんでこない。ここに<台風こわされた>と軽く言える理由がありそうだ。

それでは次の他動詞<こわす>の受身形を自動詞<こわれる>で置き換え場合はどうか?

1)この窓はきのう太郎に(よって)こわされた。 --> この窓はきのう太郎に(よって)こわれた

2) この窓はきのう台風でこわされた。 --> この窓はきのう台風でこわれた

1)はまったくダメだが、2)は<こわされた>よりもむしろ自然な言い方だろう。
<この窓はきのう台風でこわれた>の解釈だが、自動詞<こわれる>が使われているが<自然に>こわれたのではなく、因果関係が示されている。因果関係の示し方はほかにもいろいろある。

この窓はきのう台風によってこわれた。
この窓はきのう台風があってこわれた。
この窓はきのう台風のため(に)こわれた。

などが普通に考えられるが、英語流に

The typhoon broke his window yesterday.

台風がきのうこの窓をこわした。

といえないこともない。しかし普通の日本人であれば実際にはまずこうは言わない。<この窓はきのう台風でこわれた>が一番普通だろう。英語の to break は自動詞形もあり、

The window broke by (due to, because of) the wind yesterday.

と言えるが、まずこうは言わないだろう。

話がまたそれてきそうなので結論(今回の新たな発見)に戻る。

<この窓はきのう台風でこわれた。>を細かく詮索してみる。

<りんごが木から落ちる> の<落ちる>は自動詞で、ニュートン並みの観察力、洞察力(見抜き力)がない凡人は<なぜ、りんごが木から落ちる>とは問わないし、<なにが / だれが、りんご木から落とす>と発想の転換もしない。凡人から少し飛翔して次のように考えてみよう。

この窓はきのう台風でこわれた

<この窓>は<こわれる>と言う自動詞の主語だが動作(能動)主ではない。<台風でこわれた>は<台風でこわされた>のでいわばど受動(作)主だ。この文は、自動詞文なので、動作(能動)主がないのだ。これはニュートンのまね、発想の転換をして、あるいは見方を変えて、次のように言い換えられる。

何(なに)かが / 誰(だれ)かが、きのうこの窓を台風でこわした

この文は動作(能動)主が不明(不定)だがある(いる)ことになる。実際このような発想は、ニュートンではなくとも、古代人はしていただろう。一神教、多神教にかかわらず、神または神のようなもの、悪いことの場合は悪魔とか物の怪(もののけ)が<なにか / だれか>に相当する。

 これが今回の新発見。さらに説明を加えれば、あるいは大げさにいえば<自動詞-他動詞位相変換公式>なのだ。

1)受身形の場合は動作(能動)主がない。
2)自動詞文のばい、主語はあるが、 動作(能動)主は示されない。
3) 同じ文を自動詞文から他動詞文にするには、隠れた(不明、不定だ) 動作(能動)主を<何か / 誰(だれ)か>を主語にする。自動詞文でに主語は直接目的語になり<を>をとる。



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