sptt Notes Grammar の方で<気は心>というタイトルのポストをだいぶ前(2012年)に書いている。文法事項がほとんどないので<やまとことばじてん>の方がいいのだが、読み返してみて、たいして面白くないので、そのままのして<気は心か?>のタイトルで書き直すことにした。さらにチェックしてみたら、2021年に<やまとことばじてん>の方でも ”<気は心>か ” のタイトルでポストを書いている。こちらの方が出来はいい。今回のポストは上の二つを参考にしてはいるが、コピー、ペイストの箇所はほとんどなく、独立したポストだ。
sptt Notes Grammar の方の<気は心>の冒頭は
<気は心>というが、ここでは、大和言葉化した<気>について書く。
で、いろいろ書いているが、肝心の<気は心>の意味の説明がない。<やまとことばじてん>の方の ”<気は心>か ” の方も読みかえしてみたが、<気は心>の意味の説明はいまいち。今回は三度目の挑戦で、また調べてみた。<気は心>の意味は確定したものではないが、大体は贈り物を渡すときに使うようで
つまらないものですが、<気は心>と言いますのでどうかお納 (おさ) めください。
といったひと昔前の言い方だ。あたまの<つまらないものですが>は、笑い話的に<これはどう英語に訳せばいいのか>で何度かお目にかかったことがある。ネットで調べてみると
精選版 日本国語大辞典 「気は心」の意味・読み・例文・類語
ー 1)わずかでも気のすむようにすれば心も落ち着くこと。2)量は少なくとも誠意の一端を示すこと。贈物などをする時に用いる。
1)はほとんど聞いたことがないし、使ったことはない。2)はときどき聞くし、使ったこともある。<誠意>という漢語を使った解説だが、<まごころ>でもいい。だがこれだと<こころ>を使ったことになる。
GOO 辞書
気(き)は心(こころ) の解説
ー 額や量は少ないが、真心をこめているということ。贈り物をするときなどにいう言葉。「気は心ですから、少しだけ値引きします」
贈り物だけでなく、金銭でもいい。
手元の三省堂辞典では
ー 取るに足らない行為や分量であっても、気持ちが込めらていると思えば満足できること。
<満足できること>とあるが、これは行為者や贈り手ではなく受け手の感情だ。したがって受け手は
<気は心>と言うからありがたく受けましょう。
と返答するかもしれない。だが、この返答は微妙だ。
1)本当に<取るに足らない行為や分量であっても、気持ちが込めらていると思って満足している、あるいは場合によっては心を動かされいる。
2)満足も心を動かされてもいないが、さらには<これしきのもの>と思っているが礼儀上、形式的にこう返答しておく。
例えば贈り物の場合、<気は心>は贈り手でも受け手でも使えるが、意味合いが違う。
贈り手の場合は、いわゆる謙譲表現。だがいろいろなケースがある。
贈り手の場合、貧しい人が言えばいいが、大金持ちが
つまらないものですが、<気は心>と言いますのでどうかお納 (おさ) めください。
と言ってもまごころは伝わりにくい。ケチな大金持ち (これは多い) と思われかねない。
テーブルの下で高価な物品とか大金を渡す時も
つまらないものですが、<気は心>と言いますのでどうかお納 (おさ) めください。
と言うかもしれない。
さて、<気は心>の意味や使い方は上記のようでもいいが、<気は心>がなぜこのよう意味や使われ方になったかは別の問題だ。
sptt Notes Grammar のポスト<気は心>では<気>はは大和言葉のように使われていいるが、元はれっきとした漢語であると書いている。これは間違いないだろう。だが相当大和言葉化されており、無意識では<気>は<き>の大和言葉だ。漢語が生き延びているのは大体二字語で
気概、気象、意気、意気込み
<気分>、<元気>は漢語読みだがほぼ大和言葉だ。和製漢語か。
さて漢語由来の<気>と純大和言葉の<こころ>の慣用表現をチェックして、<気>と<こころ>の違いを探ってみた。<気>の方が慣用表現が多そうなので、便宜上これを先に取り上げて<こころ>と比較してみる。
重箱読み
気合い
<きおい)は<気負い>と書くが、これは辞書によると<きほふ>という古語由来<気>は関係ない。
気後(おく)れ
気兼(が)ね
気構え ー 心構え
気軽(がる)
<きざし>,<きざす>は、兆し、兆す 、と書くが<気差す、刺す>可能性もある。
気立て
気違(ちが)い
気取り
気長(なが)
気晴(ば)らし
気まぐれ
気前(まえ)
気短(みじか)
気持ち
気休(やす)め、気安め
湯桶読み
内(うち)気
勝(かち)気
おじ気(け)
寒(さむ)気(け)
むらけ
<気(け)>は<気(き)>と同じ。多分1)日本に入ってきた時が違う、2)中国語の方言、3)日本に入ってきてから変化した。現代北京語では気(qi)だが広東語では<hei>と発音する。<hei>は<kei>に近い。あるいは昔の(あるいは今でも)中国のある地域では<ke>に近い発音ではなかったか(ないか)。
気+形容詞
気軽な
気ぜわしい
気まずい
気難(むずか)しい
気易(やす)い、気安(やす)い
気+が+動詞
気が合う
気が焦(あせ)る
気がある
気が重い
気が勝つ
気が軽い
気が沈む
気が進まない
気がする
気が急(せ)く
気が済む、気が済まない
気が立つ
気がつく
気が咎(とが)める ー 心がとがめる
(気がはずむ) ー 心がはずむ
(気がはやる) ー 心がはやる
気が張る
気が晴れる ー 心が晴れる
気が引ける
気が滅(め)入る
気が持たない
気が向く
気が休まる、気が休まらない
気+が+形容詞
気が多い
気が大きい ー 心大きい
気が重い
気が小さい、おくびょう(臆病)ー 心が小さい
気が遠くなる
気がない(<ない>は 形容詞活用)
気が長い
気が早い
気が短い
気+の
気のおけない、おける
気の毒
気の長い(話)
気の短い(人)
気+に
気に入(い)る
気に掛ける
気に障(さわ)る
気に留(と)める - 心に留める
気になる
気に病(や)む
気+を
気を入れる、気合を入れる
気を失う
(気を込める) ー 心を込める
気をつける
気を留(と)める
気を取り戻す
気を晴らす
気を回(まわ)す
気を向ける
気を揉(も)む
気を休める ー 心を休める
気を許(ゆる)す 、油断する
予想外に<気>を<心>で入れ替えできるものは少ない。
今度は<こころ>先に取り上げて<気>と比較してみる。
心意気 心-意気なので三文字の湯桶読みになる
心掛(が)け
こころざし コンピュータ変換では<志>とい漢字が出て来るが<心差し、指し>だろう。心積(づ)もり
心残り
心待ち
心持ち <心の持ち方、持ち様>ではなく、<心持ち、多め>などと副詞で使う。<気持ち、多め>ともいう。
心やり(遣る)、思いやり
心+形容詞
心苦しい
心無い
心無し
心細い
こころよい コンピュータ変換では<快い>とい漢字が出て来るが<心良い>だろう。
心易(やす)い ー 気易(やす)い、気易く
心+動詞、心+が+動詞
心あたたまる、心があたたまる
心痛む、心が痛む
心うきうき、心がうきうきする
心ときめく、心がときめく
心騒(さわ)ぐ、心が騒ぐ
心する、注意する、覚えておく ー 気にする、気に掛ける
心はずむ、心がはずむ
こころ安(やす)まる 、こころが安まる
昔は主格助詞の<が>はいらなかった。また<こころ>の場合は三音節と長く、今でも <が>がなくても文法違反ではないだろう。
心+が+動詞
心が咎(とが)める ー 気が咎める心+を+動詞
心を打つ
心を痛める心+に+動詞
心に浮かぶ
心に浮かべる
心に沈む、心の中に沈む、心の奥に沈む
心に残る、心に残す
心に響(ひび)く
心にひそむ、心の中にひそむ、心の奥にひそむ
心にもない
心にわだかまる、心の中にわだかまる、心の奥にわだかまる
これまた予想外に<心>を<気>で入れ替えできるものは少ない。<気>と<心>は別物なのだ。違いを大雑把に比べてみると
1)<気>は短期的、刹那的。<心>は長期的、永続的。
<楽しい、うれしい>は <気>の現われ。<しあわせ>は<心>の現われ。
中国語では happy を<開心>と訳し、<幸福>は使われないと言っていい。<開心>には<心>の字が使われているが、総じて短期的、刹那的な<楽しい、うれしい>気分のことだ。
2)<気>は概して浅薄、薄っぺらだ。一方<心>は深刻、奥が深い。
3)<気>は英語の mind 相当。<心>は heart 相当。
以上から、<気は心>の一つの解釈として
気は表面的な意図で、心は隠れた深い思い。気 (意図) がないと始まらないが、大事なのは心だ。心の深さは表面的な意図とは関係ない。したがって受け手にとっては取るに足らないもの、金額であっても贈り手の心の深さとは関係ない。
こう解釈すると、贈り手が
つまらないものですが、<気は心>と言いますのでどうかお納 (おさ) めください。
は謙譲表現とは言え、あまり中身のない形式的セットフレイズだ。
――――
追記)
このポストは、今 sptt Notes Grammar の方で形式名詞について書いているところだが、<気>や<心>や<気分>が純形式名詞ではないが形式名詞的な使い方があり、調べているうちに<気は心>を思い出したからだ。形式名詞と言うのは、これまた定義がややこしく、完全ものはないが、おおよそ
”
A こと、もの、ところ、わけ、はず、つもり / よう、の
B (略)
これらは、独立した名詞としての用法のほかに、実質的な意味が薄まって(抽象化し)、常に他の言葉によって修飾される用法でも使われるようになったものです。
上のAのグループは、述語を受ける用法が重要なもので、特に「-だ」をつけて文末の「ムード」となる用法があるものです。その場合、本来の名詞としての意味は希薄になり、用法も広く、いかにも機能的な語になります。それらの中で微妙な使い分けがあり、学習者には習得しにくく、日本語教師にとっても難しいものです。
”
<こと、もの、ところ>が代表。<気>と<心>と<気分>では<心>は抽象化が進んでいないが
する気がある
その気になる
どんな気がする?
する気分じゃない
そんな気分にはなれない
どんな気分ですか?
と言え、形式名詞の資格がある。一方<心>は
する心がある
その心になる
どんな心がする?
はほとんど使われないので形式名詞とは言えない。<心>は<心>にとどまっている。方<気>の方は<気>の元の意味が拡大、派生して抽象化した意味の用法がある。この説明はわかりにくいかもしれないが、<気は心>の解釈に役立つところがある。
形式名詞は単独では主語になれない、という原則になっている。
<気は心>では<気>は主語になっている。この場合<気>は元の意味でないといけないのだが、実際には<気>の意味は拡大、派生していろいろな意味になっており、どれが、何が<気>の本来の意味だか分からなくなっている。
例えば
気が気でない
の<気>は何か? 少なくとも一番目の<気>と二番目の<気>は違うだろう。
精選版 日本国語大辞典 「気が気でない」の意味・読み・例文・類語
き【気】が 気(き)でない
ひどく気がかりである。気にかかって心が落ち着かない。気が心でない。
と言う説明さえある。これだと
一番目の<気><気>で二番目の<気>は<心>になる。少なくとも<気>は<心>より意味が広いのだ。
sptt