Friday, March 17, 2017
綺麗な花、美しい花 -2
かなり前に<綺麗な花、美しい花>というタイトルでやまとことば<美しい>が漢語由来の<綺麗な>に追いやられている状況を述べた。今回漢語由来の<美(び)>に相当するやまとことばをさがしてみたので、状況を述べることにした。これはどこか別にところで書いたような気がするが、解決していないのだ。
<美しさ>と<美>は違う。<美>は高度に抽象化されている。これに対し<美しさ>は<美しい>という形容(詞)の意味をかなり強く引きずっており、抽象度合が低い。
1⁻ a)花の美(び)ははかない。
2 ⁻ a)花の美しさははかない。
美(び)は漢語だが1⁻ a)のほうが自然だ。
少し具体化させて
1⁻ b)この花の美(び)ははかない。
2⁻ b)この花の美しさははかない。
とすると、2⁻ b)のほうが自然だ。
形容詞の古語の連体形<美しき>を名詞(体言)化したらどうか。
花の美しきははかない 。
これは、個人的な意見だが
1⁻ a)花の美(び)ははかない。
にすこし近くなる。少なくとも
2 ⁻ a)花の美しさははかない。
ほどの不自然さはない。これは、おそらく、<美しさ>が<美しさ>の状況、度合、程度を表してしまうのに対して <美しき>には、古語のためか、この作用が薄いためだろう。
ーーーーー
<小さきもの、美しきもの>
小さな秋を見つける者心ゆたかに生きる。
小さきに美しきを見る者心満ち足りて生きる。
美しきものそこここにあり。
見る目、探す心あれば。
sptt
Friday, March 3, 2017
<難過>と<つらい思いをする>
かなり前に<濡れ衣を着せられる>というタイトルのポストを書き始めたが、未だに書き終わっていない。これを書き始めた目的は東洋人の被害者意識を分析するためで、同じ東洋人でも、日本人、韓国人、中国人では違いがある。フィリピン人、マレーシア人、インドネシア人などの東南アジア人はこれまた違う。未だに書き終わっていないのは、東洋人の被害者意識がたいそう複雑なためだろう。
中国語に<難過>という言葉があり、北京発のテレビ、ラジオドラマではよく出てくる。私は中国語(北京語)のラジオドラマのファンでかなりのストック(録音)がある。ラジオドラマの質はかなり高いと思う。<難過>は、文字通りでは<(時、状況を)を過ごし難い>だが、日本語では<つらい思いをする>が相当しそう。だが当然同じではない。中国語の大きな特徴だが<難過>は動詞、形容詞、名詞で使えると思うが<他難過>の<難過>はたぶん動詞ではなく形容詞(扱い)だろう。
これまた中国語の特徴、というか、むしろに日本語の特徴なのだが、他人が<難過>しているのを見て<xx(だれだれ)難過>と直接的に言うのだ。日本語では実際の発話として<花子が(は)つらい思いをする>はおかしく、<花子が(は)つらい思いをしているようだ>とか<花子が(は)つらがっている>となる。この表現の切り替えには少し時間がかかる。
使われ方を見ると<難過>も多分に被害者意識がからんでいる。多分<つらい思いをする>原因が自分にあっても、他人が<自分につらい思いをさせている>と考えれば<難過>なのだろうが、これは主観的な見方で、他人の同情は得られないだろう。
同じ中国でも、私が住む中国南部の香港では<難過>はテレビ、ラジオドラマでも日常生活でもまず聞かない。香港は広東語だが<難過>が純北京語とはいえないだろう。というのは広東語には<難食>という言葉があり(北京語では<难(難)吃>)、これはよく聞く。<难吃>も北京発のテレビ、ラジオドラマでは出てくる。<難食>の意味は<食べ難(にく)い>だが、実際の使われ方は<(食べものが)まずい>の意だ。それでは香港(広東語)で<難過>をどう言うのかというと、それは<(好)辛苦(san fu)6声だか7声無視>だろう。これはきわめてよく聞く高使用頻度日常語だ。北京語では<辛苦(xinku)4声無視>で、これは、私の観測では<難過>と同じ程度に使われているようだが、おそらく使い分けがあるのだろう。香港(広東語)の<辛苦(san fu)>には被害者意識がほとんどなく<つらい思いをする>というよりは、程度の差はあるが、あまりシリアスでない<つらい>に相当するだろう。これまた私の観測では広東語圏の人たちは大体被害者意識がうすく、だれが見ても相当の<他人のせい>のような場合を除き<他人のせい>で自分が<辛苦(san fu)>になっているとはあまり考えないようだ。たとえこのような場合でも主観的な被害者意識はそれほど強くなく、原因⁻結果を客観的、ロジカルに見ているようだ。あるいは日本人の<いさぎよくあきらめる>対応を日本人以上にしているようだ。
<いさぎよくあきらめる>は北方の北京語圏でもこれに相当する<没(有)办法>(いたし方ない、しょうがない)というこれまたよく聞く高使用頻度日常語がある。香港の広東語も発音は違うが同じ表現でやはり高使用頻度日常語だ。だが使われすぎているためか、<いさぎよくあきらめる>ほどのシリアスさはない。一方<難過>はそこそこのシリアスさがある。
sptt
Wednesday, March 1, 2017
おごる、おごり
前回のポスト ”<慙愧に堪えない>のやまとことば” で
”
日本人の発想からは<おごり>の反対は<遠慮>、<謙虚>、<つつしみ>だろう。恥に関係なく<遠慮、謙虚さ、つつしみのない言動>が<驕傲(おごり)>と考える。大体西洋人にとっては<遠慮>、<謙虚>、<つつしみ>は必ずしも徳、ほめられたことではない。この辺は中国人は日本人よりも西洋人に近いようだ。したがって<慚愧>の反義詞が<驕傲(おごり)>と見るのだろう。もっとも反義詞というよりは<慚愧のない言動>が<驕傲(おごり)>ということなのだろう。<遠慮>、<謙虚>、<つつしみ>はあまり関与しない。これは日本人にとってわかりにくいが重要なポイントだ。
”
と書いた。<おごり>の動詞は<おごる>だが、<おごったxx>の連体形では使うが連用形<おごって>、終止形<おごる>は体言(名詞形)の<おごり>ほどは聞かない。 動詞<おごる>は<メシをおごる>でよく使うが、<おごり>の<おごる>と関係があるのか?
動詞<おごる>は日本語サイト http://thesaurus.weblio.jp/content/%E3%81%8A%E3%81%94%E3%82%8B では
定義として<自分を過大評価すること>とし、同義語が列挙されているが、やまとことばでかつ意味ががあまり特定されていない一般的な動詞は
つけあがる
思いあがる
うぬぼれる
だ。 <自分を過大評価すること>が分析的であるのに対して、これらはいかにもやまとことばで、逆に<つけあがる>、<思いあがる>、<うぬぼれる>は<自分を過大評価する>にはならなだろう。隅をつつくようだが、<おごる>は<自分を過大評価する>という目に見えない頭の中の動きを表わす場合と<自分を過大評価した言動をとる>とう目に見えることを表わす場合があるだろう。
<うぬぼれる>は面白い言葉でもとは<おのれにほれる>(<おのれをほれる>ではない)だ。英語ではself-esteem(ed)、self-confidence(-t) はあるが self-love(ed) はあまり聞かない。西洋の神話で鏡(水面か)に映ったおのれの姿にほれる、というのがあった。
さて<おごり>の<おごる>と関係があるのか?だが、手元の三省堂国語辞典では
<おごり>として<贅沢(ぜいたく)>が第一義。二番目に<メシをおごる>の<おごり>がきている。動詞の<おごる>の方も<贅沢をする>が第一義。<贅沢><贅沢をする>は容易に<メシをおごる>に結びつくだろう。金持ちでない限り<メシを(他人に)おごる>のは贅沢な行為だ。第一義とはなっているが、私は<贅沢>の意で<おごり>を使ったことはないし、他人が使うのも聞いた記憶がない。すでに<過去のやまとことば>か?だが、贅沢は<おごり>につながる。意味のシフトだ。
ところで、<おごり><おごる>と<ほこり(誇)><ほこる>と関係ないだろうか?
sptt
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