Thursday, October 24, 2019

傷だらけの人生


<傷だらけの人生>は俳優兼歌手の鶴田浩二が1970年にヒットさせた歌(演歌か)の題名。私は当時歌謡曲に興味がなかったせいか記憶にない。今ビデオで見る限り、鶴田浩二が歌わないと<サマ>にならないようだ(*)。タイトルは<傷だらけの人生>だが歌詞内容は表面的には<傷だらけの人生>を歌っているわけではない。ただ背景に<傷だらけの人生>を匂わせているのだろう。この歌では<傷だらけの人生>は<失敗続きの人生>、<間違いだらけの人生>ではない。セリフと歌詞は次の通り。


作詞:藤田まさと
作曲:吉田正

セリフ 「古い奴だとお思いでしょうが、古い奴こそ
新しいものを欲しがるもんでございます。
どこに新しいものがございましょう。
生まれた土地は荒れ放題、今の世の中、
右も左も真っ暗闇じゃござんせんか。」

何から何まで 真っ暗闇よ
すじの通らぬ ことばかり
右を向いても 左を見ても
ばかと阿呆の からみあい
どこに男の 夢がある

セリフ 「好いた惚れたとけだものごっこが
まかり通る世の中でございます。
好いた惚れたは、もともと心が決めるもの…
こんなことを申し上げる私も
やっぱり古い人間でござんしょうかね。」

ひとつの心に 重なる心
それが恋なら それもよし
しょせんこの世は 男と女
意地に裂かれる 恋もあり
夢に消される 意地もある

セリフ 「なんだかんだとお説教じみたことを申して参りましたが
そういう私も日陰育ちのひねくれ者、
お天道様に背中を向けて歩く…馬鹿な人間でございます。」

真っ平ご免と 大手を振って
歩きたいけど 歩けない
嫌だ嫌です お天道様よ
日陰育ちの 泣きどころ
明るすぎます 俺らには



1番

セリフの中で続く歌の歌詞、さらにはこの歌全体に関連のあるのは最後の<今の世の中、右も左も真っ暗闇じゃござんせんか>だけ。このセリフのイントロ<古い奴だとお思いでしょうが . . . . .>以下はいわば枕コトバだ。歌詞の部分を見てみる。

何から何まで 真っ暗闇よ
すじの通らぬ ことばかり
右を向いても 左を見ても
ばかと阿呆の からみあい
どこに男の 夢がある

<何から何まで 真っ暗闇よ>が冒頭にあり、その前のセリフの最後<今の世の中、右も左も真っ暗闇じゃござんせんか>に呼応してすぐに出てくるのでかなりなインパクトで歌全体にぺシミスチックな印象を与えている。あとから出てくるそのわけを先に出せばそうでもない。

(とかくこの世は)すじの通らぬ ことばかり
右を向いても 左を見ても
ばかと阿呆の からみあい
何から何まで 真っ暗闇よ
(どこに男の 夢がある)

<すじの通らぬ ことばかり>の<すじ>は、別のところでかいたが、やまとことばの中では効果的な言葉で、英語で言えば justice (正義)ではなく righteousness(本源的な正しさ)。

<ばかと阿呆の からみあい>は<ばかと阿呆の だましあい、ばかしあい>のほうが具体的に世の中を反映していると思うが、<ばかも阿呆>もとくに悪意のあるひとたちではない。<キツネとタヌキのばかしあい>という言い方があるような気がするが、使いふるされているので歌詞としてはよくない。もちろん語呂(音節数)が歌に合わない。<ばかと阿呆の せめぎあい>でもよさそう。ところで<せめぎあい>とは言うが動詞の<せめぐ>はほとんど聞かない。<いがみあい>の<いがむ>もそうだ。

<右を向いても 左を見ても>が歌の歌詞らしいところで、<右を向いても 左を向いても>でも<右を見ても 左を見ても>ではない。これは中国語の修辞法のひとつで<右を向いて見ても、左を向いて見ても>の意で一種の掛詞(かけことば)だ。

<どこにの 夢がある>はやや唐突だ。この歌は特に表立って男をうたったものではない。<どこに人(ひと)の 夢がある>だと字足らずになる。個人を出して<どこにわたしの 夢がある>、複数にして<どこにわれらの 夢がある>だと男でも女でもいいことになるが、どうもダメだ。<どこにおいらの 夢がある>ならいいが、これだとこれまた男に限定されてしまう。ただし3番の最後、つまりはこの歌の最後に<. . . .  おいらには>と男がでてくる。

<夢も希望もない>というのがはっやたことがある。希望はもじって<夢もチボウもない>というのもあった。この歌の当時かもしれない。一方1957年にヒットしたコロンビア ローズの<東京のバスガール>は対照的で<若い希望も夢もある>というのが冒頭に出てくる。時代背景が大きく変わっているのだ。

<ばかと阿呆>が純やまとことばではないようだが、大和言葉の歌(演歌)として違和感はない。

2番

ひとつの心に 重なる心
それが恋なら それもよし
しょせんこの世は 男と女
意地に裂かれる 恋もあり
夢に消される 意地もある

2番の歌詞が一番いい。
セリフの「好いた惚れたは、もともと心が決めるもの…」とも呼応している。2番 だけならNHKの紅白出場に問題はなかっただろう。<しょせん>が<所詮>で漢語、<意地>も漢語だが、かなりやまとことば化している。<いじ>と<すじ>は離れているが韻を踏んでいる。<所詮>と<意地>以外はすべてやまとことば。いいやまとことばだ。特に出だしの<ひとつの心に 重なる心>がいい。<ひとつの心>の<ひとつ>は三音節だが、やまとこばの不定冠詞といえる。<だれの心>でもいいのだ。

最後の<夢に消される 意地もある>でまた夢がでてくる。だがこの意味がよくわからない。<男の夢>とすると<傷だらけの人生>に合わない。字ずらからは<夢が意地を消す>となるが、どういう意味か? 文脈からは、この夢は<恋の夢>だろうが、<意地が(恋の)夢の中に消えていく>、<恋は意地より強し>ということか?だがこれでは首尾一貫しないような気がする。

3番

真っ平ご免と 大手を振って
歩きたいけど 歩けない
嫌だ嫌です お天道様よ
日陰育ちの 泣きどころ
明るすぎます 俺らには

ひとにより好き嫌いもあるが、3番の歌詞は<真っ平ご免>、<大手を振って歩く>など常套句が多い。題名<傷だらけの人生>との関連度合が一番ある。<日陰育ち>も常套句だが、一般には漱石の<坊ちゃん>に出てくる<うらなり(君)>だ。ここはこの歌詞に出てくるような意味だろう。<大手を振って(歩きたいけど) 歩けない>とすると犯罪者、前科者が想像されるが、連想されるのは<やむに已まれず>妻を殺してしまって逃亡し<大手を 歩けない>水滸伝の主人公<宋江>だ。だが宋江と<傷だらけの人生>を歌う鶴田浩二とはかけ離れている。(注:<坊ちゃん>も水滸伝も私の愛読書でこのような連想になる。)


(*)
http://kayokyokuplus.blogspot.com/2017/02/koji-tsuruta-kizu-darake-no-jinsei.html

このサイトでビデオが見られる。鶴田浩二以外に五木ひろし、藤圭子が歌っているが<ら>の発音が巻き舌気味になっていてわたしの耳には聞きづらい。これ演歌の<ら>か?一方鶴田浩二の<ら>はしっとりしていている。それぞれの歌手により全体的な雰意気が大いにちがうが、この<ら>の違いが気になる。
鶴田浩二は淡々とそして丁寧に歌っている。鶴田浩二その人の存在が中心にあって独特の雰意気を醸し出している。また上に書いたように、歌詞は(意図的にか)首尾一貫していないところがあり、この歌の内容の反社会(権威)性、虚無性、自暴自棄性の度合は聞く(見る)人によるだろう。私には鶴田浩二の存在感と歌いぶりがまず先にくる。いい歌だと思う。

文法的には<も>の多用がめだつ。

こんなことを申し上げる私やっぱり古い人間でござんしょうかね。

それが恋なら それよし
意地に裂かれる 恋あり
夢に消される 意地ある

そういう私日陰育ちのひねくれ者、

以上の<も>は<は>または<が>で置き換えできる。置き換えたほうが意味がはっきりするが、はっきりし過ぎるのであえて<も>を使ったのか?


 sptt



No comments:

Post a Comment