<勉強する>の<勉強>はもちろん中国語だが、中国語をそこそこ勉強した人なら、中国語の<勉強>に日本語の<勉強する>の意味がまったくないことを知っているはずだ。また中国語の日常会話でも<勉強>の中国語の意味で使われるのは聞いたことがないので文章語だろう。
調べてみると日本語の<勉強する>の意味は明治時代に成立したようだ。
中国語の<勉強>の意味は大体<したくないことを強いて(むりやり)やらされる>と言った意味だ。<勉>の方は
- 勤奮、努力。如:「勤勉」、「奮勉」。
- 鼓勵他人盡一己之力。如:「勉勵」、「慰勉」、「嘉勉」。
- 強使自己或他人去做能力達不到,或不願意做的事。如:「勉強」、「勉力而為」、「勉為其難」。
で<刻苦勉励>というほぼ死語がある。
この意味の変遷はおもしろい。
<勉強>するに相当する大和言葉には<学ぶ>がある。 <学習>は日本語と同じような意味で現代中国語でも使われるが、普通は小中学の生徒なら<学习>で<好好学习>といわれながら勉強する。大学生なら<読書>(=勉強する。本を読むとは限らない)が使われる。(香港では小中学生でも<読書>が使われる)これもおもしろいが、日本語にもどって、<勉強>、<勉強する>はきわめて特殊な<意味の変遷>といっていい。
中国語の<勉強>に、かなり古い昔から、良い意味はほとんどない。一方日本語の<勉強する>は基本的にいい意味で、悪い意味はほとんどない。明治時代には主に西洋語の翻訳のためたくさんの和製漢語がつくられたが、中国語の新規輸入なかっただろう。<勉強>は和製漢語でなく、明治以前の中国語文献から<借用>したものだ。この<借用>ではほぼ完全に中国語の意味は無視されている。<学習>以外に<勉強>が使われ出した理由はなにか?
すぐ上で、<この<借用>ではほぼ完全に中国語の意味は無視されている>と書いたが、どうもそうではなく、<時には強いられながらも、時には自分を励ましながら努力して学習する>場合に使われるようになったのではないか。つまりは<学ぶ>、<学習する>が客観的、第三者的、冷めた感じなのに対し、<勉強する>はかなり精神的な面の意味がふくまれていた。
というのがさしあたりの結論。
さて、このポストを書きだしたのは<敷衍 fū yǎn>という語を中国語の小説で出くわしたからだ。日本語の<敷衍(ふえん)>も<刻苦勉励>とほぼ同程度の死語だ。日本語の<敷衍>の意味は読者に任せるとして、中国語の<敷衍>はおもしろい。
敷は<敷く>衍は<伸ばす、延ばす、展ばす>
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