Friday, April 11, 2014
<甘える>と<甘んじる>-似て非なるもの
<あまえる>、<あまんじる>は漢字で書くと<甘える>、<甘んじる>で関連がありそうに見える。しかし、よく調べてみると<甘える>と<甘んじる>は似て非なるもののようだ(何か関連がありそうでもある)。
1.あまえる
<あまえる>は<甘える>でもよさそうだ。形容詞<甘い>と動詞<あまえる>は関連がある。<甘える>の意味は結構複雑だ。一昔前(Japan as No. One の頃か)<甘えの構造>とか言う日本人論があった。<甘える>は手もとの辞書(三省堂)の意味の解説は次のようになっている。
”
相手が許してくれるだろうと期待して節度を越えた行動をとる(こと)。
”
<xxx だろうと期待して>は仮定だ。文法用語的には仮定法の前半だ。ただしこれは明言されているのではなく暗黙のうちの仮定だ。
この辞書の例文
”
お言葉に甘えて
母親に甘える
”
英語に to spoil と言う動詞があるが、似たような意味がある。 to spoil には to damage (ダメにする、<ダメ>はこの damage 由来か)の意があるが、to damage が直接的な表現であるのに対して to spoil は含みがある。単純な to damage ではない。<節度を越えた行動を許すことによって>といった意味が含まれている。
2.あまんじる
<あまんじる>は難しい。これもかなり複雑な意味を含んでいる。同じ手もとの辞書の解説は次の通り。
”
あまんじる(甘んじる)、<甘(あま)んずる>とも
あたえられたもの(能力、環境)以上に多くを望まず、おとなしく受け入れる(こと)。
”
この辞書の例文
”
現状に甘んじる
批判に甘んじる
屈辱に甘んじる
”
もう一度この辞書の解説を見てみよう。
”
あたえられたもの(能力、環境)以上に多くを望まず、おとなしく受け入れる(こと)。
”
この説明で<現状に甘んじる>はいい。しかし<批判に甘んじる>、<屈辱に甘んじる>の説明としては何かおかしい。
<批判、屈辱(あたえられたもの)以上に多くを望まず、おとなしく受け入れる(こと)>はおかしい。
したがって、この辞書の<甘んじる>の解説は<現状、(能力)、環境 >に特化した説明で、一般化されていないのだ。
もう少し考えてみる。
<あまる>という動詞がある。同じ辞書の<あまる>の説明。
”
あまる(余る)
1)条件を満たすものを除いたあとに、当面は必要のないものとしてそこにある。
例) 人があまっている、一万円あまった、ありあまる
2)能力(器、枠)を越えるものとしてそこにある。
例) 力にあまる
”
<そこにある>が<どこにあるのか>よくわからないが、まあいいとして、<あまる>の意味の解説も、<あまえる>、<あまんじる>ほどではないが、結構複雑だ。
<そこにある>は<残る>、<残っている>で置き換えられるが、<余る>、<余っている>は<残る>、<残っている>ではない。 <残る>の方が一般化が進んでおり、<余る>は<条件をみたすものを除いたあとに、当面は必要のないものとして>、<能力(器、枠)を越えるものとして>といった条件が含まれており特化されているのだ。
<あま(ama)んじる>と<あま(ama)る>に何か関係はないか。
簡単な算数を考えてみる
5 割る 3 = 1 あまり 2 - 割りきれないのだ 。
5 引く 3 = 2 - 差が2、ということだ。<あまり 2>、とはあまり言わない。
以上は余と差に算数上の定義があるようだ。
<余(あまり)>にしても<差>にしてもある数字が<残る>、<残っている>ことで、共通した部分がある。<差がある>は<足りない>の意で用いられ、否定的な面がある。<差をつける>は肯定的のようだが、劣等感と優等感の関係と同じようで、100%肯定的とは言えない。一方<余る>、<余りがある>も否定的、肯定的の両面がある。
金が余っている - 基本的には肯定的だが、<金が余っているのに不幸だ>では否定的になる。<必要以上に金があること>が否定的とも言いきれない。
人が余っている - 基本的には否定的。<仕事が少なくなり、人が余っている>
さて<あまんじる>の<じる>の方に目を向けると
かろんじる、軽んじる
おもんじる、重んじる
がある。
<軽んじる>は軽く取り扱う、対処する、処理する、軽視する、の意だ。
<重んじる>は重く取り扱う、対処する、処理する、重視する、の意だ。
これを<あまんじる>に適用すると
<あまんじる>は<あまく>取り扱う、対処する、処理する、軽視する、の意になる。<あまく>は<軽く>、<重く>と同じで形容詞<甘い>由来だ。
だが<甘んじる>は<甘く>取り扱う、対処する、処理する、軽視する、の意にならない。
現状に甘んじる。- あたえられたもの(能力、環境)以上に多くを望まず、おとなしく受け入れる(こと)。
以上から<あまんじる>が<甘い>の<甘んじる>でないことがわかる。
では<余る>の<余んじる>ではどうか。<余る>の純副詞はないが<余って>で考えてみる。
<余んじる>は<余って>取り扱う、対処する、処理する、の意。
おかしい。無意味(non-sense) のようだ。では名詞句<余りで>はどうか。
<余んじる>は<余りで>取り扱う、対処する、処理する、の意。
場合によっては意味を汲み取ることが出来そうだが、まだおかしい。
では、少し長くなるが<余ったものとして>はどうか。
<余んじる>は<余ったものとして>取り扱う、対処する、処理する、の意。
これは意味があり、一般化も出来そうだ。<余ったものとして>は<何かが残ったたものとして>と言い換えられる。
<余んじる>は<何かが残ったたものとして>取り扱う、対処する、処理する、の意になる。これをはじめの方の辞書の3例に当てはめてみる。
現状に甘んじる - 現状には何かが残っているが、<残ったものとして>取り扱う、対処する、処理する
批判に甘んじる - 批判には何かが残っているが、<残ったものとして>取り扱う、対処する、処理する
屈辱に甘んじる - 屈辱には何かが残っているが、<残ったものとして>取り扱う、対処する、処理する
以上3例は<あたえられたもの(能力、環境)以上に多くを望まず、おとなしく受け入れる(こと)>よりも一般化が進んでいる。 <何か>は何かといえば、割り切れないで残っているもの(余、あまり)だ。
以上からかなり高い確率で<あまんじる>が<甘んじる>と言う(正確には書くだが、意識としては<甘い>があるようだ)のは間違いで<余んじる>が正しいといえる。<余り>を取り扱う、処理する、<余り>に 対処するのだ。
<あまんじた>、<あまんじて受けた>場合心理的にスッキリしないのは何か割りきれないもの、あまりが残っているからだ。
<甘(ama)い>と<余(ama)り>は関係がありそうだが別の機会に検討予定。
sptt
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