Saturday, May 23, 2015

来し方-いま-行く末


日本語では

過去-現在-未来、将来

というが、これは漢語で中国由来。 本場の中国では過去、現在はよく聞くが未来、将来は聞く機会が断然少ない。

一方やまとことばは

来(こ)し方-今(いま)-行く末

が思い浮かぶが、漢語で<未、将>と<来>を使うのと対照的に<行く末>と<行く>が使われている。中国人が未来を<未(いま)だ来(こ)ざる>、<まだ来ない>モノ、コト、将来を<これから来る>モノ、コトと見ているのと対象的に、日本人は<行く先の方向(末は終点というよりは<先の方向>だろう)>と見ているのだ。おそらく日本人の多く(大半)は<未来>、<将来>と言ったり、聞いたりしても未来、将来は<まだない>、<これから来る>の感覚ではなく<これから行く>の感覚だろう。

さらに方向を明確にすると、日本人は<未来>、<将来>と言ったり、聞いたりしても未来、将来は<まだ前方から来ない>、<これから前方から来る>の感覚ではなく<これから前方へ行く>の感覚だろう。これは大きな違いで、将来も変わることはないだろう。

と考えていた。

しかしながら、<行く年、来る年>という言い方を思い出した。<来る年>の方は<後ろからやって来る>とは考えにくいので99%がた<<前からやって来る>>だろう。一方<行く年>は上記の説明から<前へ行く>のが考えられるが、一般的には<後へ去って行く>だろう。去ってしまえば<去年>だ。中国語も去年は<去年(qunian)>だ。来年は<明年(mingnian)>。<行く年、来る年>はテレビ番組のタイトルが始まりと思うので、古いやまとことばではない。

sptt



Friday, May 22, 2015

<to give up> と<あきらめる>-2 nachgeben


このポストは ”<to give up> と<あきらめる>" の第二弾。ただし今回はドイツ語の<nachgeben>を参照にする。

nachgeben をインターネット独英辞典(Collins German-English Reverso)でしらべると

nachgeben
   nach+ge•ben, sep irreg  
1       vi  
a    [Boden, Untergrund]   to give way (    +dat   to)  
(=federn)  
to give     (fig)  
[Mensch]  
to give in or way (    +dat   to)  
(=aufgeben)  
to give up or in
b      (Comm)  
[Preise, Kurse]  
to drop, to fall
2       vt   (=noch mehr geben)  
darf ich Ihnen noch etwas Gemüse nachgeben?      may I give you a few more vegetables?  
er ließ sich ($) Fleisch nachgeben      dat   he had another helping of meat  


つまりは第一義として一番目に<to give away>、そして二番目に<to give up, in>がでているのだ。 to give away、それに to give in  は日本語では<ゆずる>、to give up は<あきらめる>だ。ドイツ語では、あるいはドイツ語が母国語の人たちの頭の中では<ゆずる>も<あきらめる>も大差はないのだ。これは私にとっては大きな発見だ。nachgeben の geben は英語の to give と同源で、よく使われる動詞だが基本的な意味は<与える>だ。一方前にある nach は接頭辞だが元来前置詞、副詞で<xxの後(あと)で(に、へ、から)>、<後(うし)ろで(に、へ、から)>が基本的な意味だ。話は込み入ってくるが、<後(あと)>は位地(空間)と時間の両方に関係し、<後(うし)ろ>はだいたい位地(空間)に関係する。

簡単な組み合わせだが、nachgeben は

あとで 与える
あとに 与える
あとへ 与える
あとから 与える

うしろで 与える
うちろに 与える
うしろへ 与える
うしろから 与える

以上のうちで<ゆずる>、<あきらめる>と関係があるのはどれか?どうもすぐには答えが出てきそうにない。なぜかと言うと<与える>は他動詞で<何かを与える>の<何か>がないと具体化しないのだ。<後(うし)ろ>はだいたい位地(空間)に関係し、今検討している<ゆずる>、<あきらめる>とはあまり関係なさそうなので、以下は冗長さをさけるため<後(うし)ろ>はの方は省いておく。

あとで 金を 与える
あとに 金を 与える
あとへ 金を 与える
あとから 金を 与える

ドイツ語の nachgeben は分離動詞なので、日本語の方も分離してみた。以上のうちで<ゆずる>、<あきらめる>と関係があるのはどれか?これまたどうもすぐには答えが出てきそうにない。<与える>は他動詞だがやや複雑で<誰々にで何かを与える>の<誰々>がないと具体化しない場合がある。手品のようだが<誰々>を加えてみる。

あとで 太郎に金を 与える
あとに 太郎に金を 与える
あとへ 太郎に金を 与える
あとから 太郎に金を 与える

以上のうちで<ゆずる>、<あきらめる>と関係があるのはどれか?読者をからかっているようだが、これまたどうもすぐには答えが出てきそうにない。だが<ゆずる>の場合は

あとで 太郎に金を 与える
あとから 太郎に金を 与える

が少しは関連がありそう。始めは与えなかったのだが、<後になって一歩ゆずって太郎に金を与えた>と解釈できなくもない。

ところが<金>のところを<許し>、<承諾(しょうだく)>、<OK>に換えてみる。

あとで 太郎に 許し(承諾、OK)を 与える
あとから 許し(承諾、OK)を 与える

<ゆずる>の意味合いが出てきたようだ。<あとで>、<あとから>(nach)は重要で

太郎に<許し(承諾、OK)を 与える

では<ゆずる>の意味が出てこない。では<あきらめる>の方はどうか。ここは<一歩ゆずって>、ドイツ語が母国語の人たちと同じく<ゆずる>も<あきらめる>も大差はない、と思い切ったらどうか。納得できないひとのためには、次のような連想ができないものか。

ゆずる -> 屈する(負ける) -> あきらめる

これでも納得できないひとのためには、中間の<屈する(負ける)>には説明がいる。<屈する(負ける)>は相手(太郎)に<許し(承諾、OK)を与える>のではない。

<自分自身が持っている要求、要望、さらには欲望>を<(自分自身に)後(あと)から与える(与えようとする)> -> <回しにする、nach-geben>、<棚上げにする、to give up

以上の説明で、まやかしの手品のようだが、<あとで(あとから)与える(nachgeben)>が<ゆずる>、さらには<あきらめる>になる。

さて、この nach は vor (xx の前で(に、へ))との対比だが、位置(空間)の<後(うし)ろ>に関してはは hinter (英語ではbehaind か)、zurück (英語では back とか to return)というのがある。違いは

nach - 前を見て後(あと)、後(うし)ろを言う。したがって時間関連だが<遅れ(る)>は nach になる。

hinter  - これは主に位置(空間)関連で、<前を見ながら>があまり関与しない。

zurück  - 後ろ見て(ふり返って)後(あと)、後(うし)ろを言う

詳しくは<やまとことば>とはあまり関係がない文法事項なので別のところで別途検討。


sptt





Sunday, May 17, 2015

<風情>と<おもむき>


<風情(ふぜい)>は漢語でやまとことばではない。しかしどことなくやまとことば的だ。手もとの辞書をひくと第一義として

風情 = おもむき

がある。

 この庭は風情がある。

< この庭は風情がある>はなぜか< この庭はおもむきがある>に劣らずやまとことば的だ。まず発音が<ふじょう>ではなく<ふぜい>なのがやまとことば的な理由にあげられそう。第二義は省略して第三義として<xxのような者>の意で

 <学生風情がなまいきに xxxx>が例としてあげられている。この言い方もやまとことば的だ。

風がつく漢語には<風情>以外によく聞いたり、使ったりするのに

風景、風俗、風習、風格、風貌、風采、風刺。<風>が後ろに来る語では校風、社風、気風

があるが風情ほどやまとことば的な感じはしない。風情を含めこれらは風(かぜ)とは直接関係なさそうだが、共通しているの意味内容は何か? この風(かぜ)は<こんな風に(な)>の風(ふう)と関係がありそう。つまり<このように(な)>の<よう>だ。だがこの<よう>も漢語の<様(よう)>由来だろう。北京語では yang だが広東語では yong と発音する(いづれも高低は無視)。昔の日本人は耳がよく yang と yan、yong と yon を聞き分けていた。yang は<やう>、 yan は<やん>、 yong は<よう>、yon は<よん>なのだ。また<様>は昔は<やう>と書いていた。

風貌、風采の風は<様子>、校風、社風、気風の風は目に見えない<ある特徴>のようだ。

元の中国語の<風(feng)>に<よう>の意味があるかどうか調べていないが、<風(かぜ)>は昔の人にとっては直接には目に見えないがいろいろ目に見える現象を引き起こす自然界の神秘的なモノだったに違いない。<引き起こす>に下線をつけたのはわけがある。風景、風俗、風習、風格の<風>はよくわからないが<風情>について言えば

<風情>とは<(感)情>引き起こすコトと言える。風刺の風も引き起こすに関連がありそう。

一方<おもむき>は動詞<おもむく>の連用形の体言(名詞)化用法だが、<おもむく>は自動詞で<どこかへ行く>の意だ。したがって

<おもむき>とは<(感)情>どこかへ行くコトとを表わす、と言える。


 sptt


Monday, May 4, 2015

<偽善者>のやまとことば


<偽善者>と<偽善>という言葉は翻訳モノだけでなくテレビドラマでも時々耳にするが、イマイチなじみがわかない。<偽善者>のやまとことばを探してみる。

偽善 - <善をするふりをすること>は長すぎる。善ぶり、正義ぶり

偽善者 - <(習慣的に)善をするふりをする人>も長すぎる。善人ぶる人、正義ぶる人

<偽善者>は<善人がる人>ではなく<善人ぶる人> がよさそう。

<善>、<善人>、<正義>はやまとことばではなく、相当するやまとことばは長くなる。

善 - よきこと
善人 - <よき人>はだめで、<心よき、行(おこな)いよき人>とでもなるが長すぎる。
正義 - まこと、正しきこと


以前別のポストで<がる>と、ついでに<ぶる>についてかなりしつこく調べたことがある。<がる>と<ぶる>の手もとの辞書の解説は次の通り。

<xx がる>

第一義

いかにもそのような状況にあるという印象を与えるような言動をする。

第二義

いかにもそうであるかのようにふるまう。

<xx ぶる>

第一義

自五(自動詞、五段活用)
誇るべきものを持っているという様子を人に見せつける。

第二義

造語、五型
そういう素質をもっていることを人に見せつけるようにふるまう。


<偽善者>は上記の解説からすると<善人がる人>でもよさそうだが、<善人ぶる人>の方がいい。<善人がりや>、<正義がりや>はすくなくとも<善人になりたい>というマジメな意図が感じられるので偽善者とは違う。<がる>と<ぶる>の違いがここにありそう。

一方<偽善>は<善ぶり>、<正義ぶり>が連用形の体言(名詞)化になるが、<善ぶる>、<正義ぶる>の方がよさそう。ただしこの場合<善ぶるのは(が)>とか<正義ぶるのは(が)>にしないといけない。<善がり>、<正義がり>、<善がる>、<正義がる>もほとんど聞いたことはないが、上と同じく<善人にになりたい>というマジメな意図が感じられる。

<がる>、<ぶる>は<xx のようにふるまう、みせつける>で、いわば偽(にせ)なのだ。<にせ>は<にせる>由来。<にせる>は<にる>の作為動詞(使役形とは違う)。この<にせ>を使って

偽善 - にせ善
偽善者 - にせ善人、にせもの善人 (少し長いが、長すぎることはない)
<にせ善>はイマイチだが、<にせ善人>はよさそう。にせ医者、にせ警官、にせ弁護士、は比較的よく聞く。医者、警官、弁護士は基本的に善人だ。またこれらの<にせxx>には批判的な意がある。

<にせ>に似た<えせ>というのがある。語源は<にせ>と関連がありそうだが、漢語系かもしれない。偽、擬、欺、似は今の漢字の読み方では<ギ>、<ジ>となるが<イ>が母音であり<エ>に変わった可能性がある。

偽善 - えせ善
偽善者 - えせ善人

<にせ(もの)>では<まがい(もの)>というのがある。これを使うと

善まがい
善人まがい

となるが、これは意図、積極性が薄いようだ。


結論) <偽善者>のやまとことば - 1)にせ善人、2)にせもの善人、3)えせ善人、4)善人ぶる人、善人ぶり人。善人もやまとことばにすると、4)<心よき、行いよき人>となるが長すぎて実用的でない。


sptt