Sunday, March 24, 2024

ふがいない、なさけない

<ふがいない>、<なさけない>は漢字を使うと<不甲斐ない>、<情けない>となる。文字通りでは

<甲斐あらず>ではない ー>甲斐がある

情けがない

で意味が違ってくる。

<不甲斐ない>についてはいくつかの説明があるが、ネットで検索すると


「不」は確かに打ち消しの意味を持つものの、「ない」はただの形容詞の接続語(接尾語か)にあたります。「あどけない」の「ない」と同じくひとかたまりの言葉であるため、二重否定であるという意見は誤りなのです。

という解説が妥当のようだ。だが<ひとかたまりの言葉>の意味がよくわからない。

<あどけない> は<あどなし>が語源のようだ。

だいぶ前に(2014)<だらしない、だらしがない>の語源をさぐったことがある。<だらしない>は<ひとかたまりの言葉>で、しかも最後の<ない>は形容詞の接尾語、とも言えるかもしれない。


<情けない>は<情け容赦なく>の<情け>を連想すると、意味が分からなくなる。この連想をしやすいように<情けない>は主に

1.思いやりがない。無情である。これはやまとこおばではいろいろあって、つれない、すげない。そっけない、というのもある。日本人の<思いやり>重視の反映ともいえる。だがよく使われるうちに意味のズレ、派生が発生しがちで<情けをかけることはない>に意味では

2.同情の余地なし (無情である、ともいえる)

の意味、用法がでてくる。さらには

3.みじめである、見るにしのびない。

となり、これは<なさけない>に近い。

 

sptt

 

Friday, March 15, 2024

勉強する、敷衍する

 

<勉強する>の<勉強>はもちろん中国語だが、中国語をそこそこ勉強した人なら、中国語の<勉強>に日本語の<勉強する>の意味がまったくないことを知っているはずだ。また中国語の日常会話でも<勉強>の中国語の意味で使われるのは聞いたことがないので文章語だろう。

調べてみると日本語の<勉強する>の意味は明治時代に成立したようだ。

中国語の<勉強>の意味は大体<したくないことを強いて(むりやり)やらされる>と言った意味だ。<勉>の方は

  1. 勤奮、努力。如:「勤勉」、「奮勉」。
  2. 鼓勵他人盡一己之力。如:「勉勵」、「慰勉」、「嘉勉」。
  3. 強使自己或他人去做能力達不到,或不願意做的事。如:「勉強」、「勉力而為」、「勉為其難」。 

で<刻苦勉励>というほぼ死語がある。

この意味の変遷はおもしろい。

<勉強>するに相当する大和言葉には<学ぶ>がある。 <学習>は日本語と同じような意味で現代中国語でも使われるが、普通は小中学の生徒なら<学习>で<好好学习>といわれながら勉強する。大学生なら<読書>(=勉強する。本を読むとは限らない)が使われる。(香港では小中学生でも<読書>が使われる)これもおもしろいが、日本語にもどって、<勉強>、<勉強する>はきわめて特殊な<意味の変遷>といっていい。 

中国語の<勉強>に、かなり古い昔から、良い意味はほとんどない。一方日本語の<勉強する>は基本的にいい意味で、悪い意味はほとんどない。明治時代には主に西洋語の翻訳のためたくさんの和製漢語がつくられたが、中国語の新規輸入なかっただろう。<勉強>は和製漢語でなく、明治以前の中国語文献から<借用>したものだ。この<借用>ではほぼ完全に中国語の意味は無視されている。<学習>以外に<勉強>が使われ出した理由はなにか?

すぐ上で、<この<借用>ではほぼ完全に中国語の意味は無視されている>と書いたが、どうもそうではなく、<時には強いられながらも、時には自分を励ましながら努力して学習する>場合に使われるようになったのではないか。つまりは<学ぶ>、<学習する>が客観的、第三者的、冷めた感じなのに対し、<勉強する>はかなり精神的な面の意味がふくまれていた。

というのがさしあたりの結論。

さて、このポストを書きだしたのは<敷衍 fū yǎn>という語を中国語の小説で出くわしたからだ。日本語の<敷衍(ふえん)>も<刻苦勉励>とほぼ同程度の死語だ。日本語の<敷衍>の意味は読者に任せるとして、中国語の<敷衍>はおもしろい。

敷は<敷く>
衍は<伸ばす、延ばす、展ばす>

が元来の意なのだが<敷衍>は baike/baidu によると

fū yǎn,意思是:馬虎,不認真,表面上應付塞責:搪塞責任。指工作不認真負責,表面應付了事,有欺騙成分。

で日本語に訳せば

いいかげん、ふまじめ、うわべだけの対応、責任逃れ、誠意をもって仕事をしない、時にごまかしを含む

と散々だ。勉強と敷衍は関係があって、中国語では<勉強でやることは往々にして敷衍>なのだ。

 

sptt

Friday, March 8, 2024

お世辞ことば

 <お世辞ことば>は<本根と建前>というほどのことはなくかなり形式化されたものが多い。<お世辞ことば>が多い人と、少ない、あるいはほとんどない人がいる。<お世辞ことば>が多い人が社交家で、友人の数だけは多そう。<お世辞ことば>が少ない、あるいはほとんどない人は世間嫌い、人間嫌いで友人が少なそう。

お世辞ことばの例

ご苦労様です。
よくできました。
今日は楽しかった。また会いましょう。
今日はまた一段とお美しい。

中国語では<客套話>といい

表示客氣所説的話,如 “勞駕、借光(*)、慢走、留步(**)”等;常見的話:“今天你又更帥了!”、“你又長高了!”、“你又瘦了!”、“你這件衣服和你好配!”等

<客氣>は他人行儀の意味があり、<不客氣>は<ご遠慮なく、遠慮はいらない>でよく耳にする。

勞駕:ご苦労様です。
慢走: 文字通りでは<ゆっくり行ってください>、<気をつけて行ってください>に近い。別れるとき。
借光(*):[excuse me] 現用作向人詢問或請人給予方便的套語
留步(**):.主人送客,客人辭讓之語。 客套話。客人離去時請主人不要再送

他人になのかをしてもらいたい時に<お世辞ことば>が先にくる人は少なくない。相手の気持ちをよくしておくのだ。これが習慣になっている人は少なくないようだ。

日本語や中国語にくらべると、英語はあまり <お世辞ことば>は発達していないようにみえる。すぐにわかるようウソ (lie) とみなすからだろうか。だが、少しひねくれるが

Don't be afraid.
Just do it !
Never mind a result.

と言った鼓舞表現は<口先だけ>の場合が少なくないのではないか?

<お世辞ことば>は決して真に受けてはいけない。なぜなら <お世辞ことば>を発する人も相手が<真に受ける>とは思っていないからだ。とすると、何か無駄なむなしい<ことば>のような気がする。

 

sptt