Thursday, September 26, 2024

なまける


<なまける>の基本的な意味は簡単なネット辞典では


なすべきことをしない。働かない。ずるける。「仕事を—・ける」
おこたる、さぼる

とある。

<なまける>は<なま>由来だろう。 <なま>と<ける>に分けて考えてみる。<なま>関連と思われるやまとことばいろいろある。

なまたまご(調理していないたまご)
なま野菜 (調理してい野菜)

なまなましい

以下は否定的な意味が内包されている。ここがポイント。

なまかじり  <なま(モノ)をかじる>ではなく、不十分に、いいかげんにかじる。
なまはんか(生半可)  <半可>で<半分可>だがさらに<なま>がついて否定度が高まる。

なまやさしい(易しい) そうなまやさしくはない(そう簡単ではない) 

なまぬるい  <ぬるい>は<十分熱い>の否定で<十分に熱い>、<不徹底>の意だが、さらに<なま>がついて意味が否定的になる。

なまいき(意気)  意気が不十分、意気が足りない。意味は否定的。

なまくら(にぶい、 dull)

なまじ、なまじっか

これはむずかしい。 英語では

研究社 新和英中辞典

なまじ  なまじっか
少しでもat all.
ーーーーー

”なまじとめるな夜の雨” という歌の文句があった。

中途半端にとめるな

は何とか通じる。

<なまじ>は<なまじい>、<なま+強いる>の意で<むりにxxする>に<なま>がついたもの。したがっって

不十分に<むりにxxする>

の意でやや複雑。

<なまける>の<ける>については文法がらみになり、おもしろいので別途検討するが、<なまける>関連では

あざける
いじける
おどける
ずるける
だらける
とぼける
とろける
のろける
ふざける
ほおける

などのおもしろい言い方がある。

 

sptt

Wednesday, September 18, 2024

<あそぶ、遊ぶ>とはどういうことか?

 

<あそぶ>は日常よく使われる言葉だが少しよく考えてみると、なかかな奥深い意味があるやまとことばだ。だが調べてみると混乱しているというか、とらえどころがないところがある。また否定的にも肯定的にもなる変幻自在、融通無碍 (むげ) なことばだ。

1)<あそぶ>の語源

もっともらしいのは、引用の引用になるが

http://katagipepo.blog.fc2.com/blog-entry-410.html



岩波古語辞典には「おそばふ」、「そばふ」は「調子に乗ってふざける」意味と書かれています。「そばふ」「おそばふ」は、私の全く知らなかった言葉で、語源を別の視点から考える参考になりました。


これとは別に私は<そふ(添ふ、沿ふ)>が関連しているのではないかと思っている。<あ>は接頭語で<あそふ>。

2)<遊ぶ>。当て字の<遊>

中国語の<遊>は歴史が古く (古くさかのぼれる)、説明が長くなるので省略。基本的には日本語の<あそぶ>に似て奥が深い。

 3)<あそぶ>の意味

ネットで調べてみると相当多岐にわったている。

デジタル大辞泉 「遊ぶ」の意味・読み・例文・類語

あそ・ぶ【遊ぶ】
 
スポーツ・趣味など好きなことをして楽しい時間を過ごす。「野球をして―・ぶ」「よく学び、よく―・べ」
 
一般化すると
 
好きなことをして楽しい時間を過ごす。
 
でこれが第一義だろう。<スポーツ・趣味など>の<など>をさがしてみると
 
ままごとをしてあそぶ。(ままごと= ままごと(飯事)とは、幼児の遊びの一種。おままごとともいう。分類上はごっこ遊びの一種と考えられており、身の回り人間によって営まれる家庭を模した遊びである。ー Wiki)
 
コマをまわしてあそぶ。
トランプの<ババ抜き>をしてあそぶ。
 
女の子であれば
(古いが)お手玉をしてあそぶ
人形であそぶ 
 
比較的小さいこどもの<xxごっこ>はあそびだ。<ごっこ>は
 
鬼ごっこ
お医者さんごっこ
戦争ごっこ
ケーキ屋さんごっこ

など<xx>の真似をしてあそぶが原則。
 
おとなの遊びと思われる将棋や囲碁は<あそぶ>とは言わない。将棋や囲碁は趣味にはなる。よくある趣味には<本を読む、音楽を聴く、写真をとる、映画を見る、料理をする / つくる、魚釣りをする、旅行をする>があるが、これまた<あそぶ>とはあまり言わない。いづれも<好きなことをして楽しい時間を過ごす>のに<あそぶ>とは言わない。

創造的な趣味だと
 
絵を描く、詩を作る、日曜大工をする。

がある。いづれも素人であれば<楽しい時間を過ごす >ためにするのだが、これまた
 
絵を描いてあそぶ
詩を作ってあそぶ
日曜大工をしてあそぶ

とは普通言わない。いづれも<好きなことをして楽しい時間を過ごす>のに<あそぶ>とはあまり言わない。
 
最近はテレビを見る人が減っているようだが、<テレビを見る>は趣味でも<あそび>でもない。特に<好きなことをして>いるわけではないが、好きなテレビドラマや野球中継を見るときは<楽しい時間を過ごして>いることになるか?だが<テレビを見てあそぶ>とはけっしていわない。
 
スポーツ関連では
 
山に登る、泳ぐ、ジョギングをする、ゴルフをする
 
も<あそぶ>とはあまり言わない。 例文の「野球をしてあそぶ」も子供がすると<あそび>なるが、大人がする<あそび>になりにくい。 高校野球やプロ野球は<あそび>とはいえない。

したがって
 
好きなことをして楽しい時間を過ごす 
 
は日本語<あそぶ>の定義にはならないようだ。だが比較的小さい子供であれば
 
野球をしてあそぶ
絵をかいてあそぶ 
 
で問題ない。小さい子供と一人前のおとなでは<あそぶ>に違いがある。この辺に<あそぶ>の定義が<混乱している>理由がありそうだ。

<あそぶ>とよく対比されるのは<勉強する><仕事をする>だ。
 
冒頭の「よく学び、よくあそべ」とはどういうことか? これはクセモノで
 
<よく学んで>、はじめて<よく学べ>と言う、言われるので、<よく学ぶ>が前提になっている。子供に対して<よく勉強する見返りとして、あそんでいい>というニュアンスがある。一方<よく働き、よくあそべ>というのはあまりきかない。一人前の大人に対して<よくは働く見返りとして、あそんでいい>というのは何かおとなげない。もっとも自分自身に<よく働き、よくあそぶ>というのはおかしくないようだ。
 
 
何もしないでぶらぶらして時を過ごす。決まった仕事・職がなく暇でいる。「失業して―・んでいる」
 
<何もしないでぶらぶらして時を過ごす>と<決まった仕事・職がなく暇でいる>は違う。
 
 「失業してあそんでいる」は後者の例だ。 前者の<何もしないでぶらぶらして時を過ごす>は上の<好きなことをして楽しい時間を過ごす>と内容が違う、またはある意味で反義的な意味内容だが<あそぶ>の第二定義とも言える。この違いは重要で、前々回のポスト "<勉強する>の語源 " で簡単にふれたが
 
日本語の<勉強する>、<勉強>の意味になった、というもの。つまりは元来<やりたくはないが、むりやりxxさせられる、学習させられる>の意があるという説明が持ち出される。
 
言い換えると<勉強する>は
 
いやなこと、したくないことをいやいやながらする
 
で、別の意味で<あそぶ>(好きなことをして楽しい時間を過ごす)の反義的な意味になる。したがって<あそぶ=何もしないでぶらぶらして時を過ごす>は多義語の<あそぶ>の第二定義と言える。
 
一方<決まった仕事・職がなく暇でいる>は一人前の大人にいつて言っていることで、子供が<決まった仕事・職がなく暇でいる>でも問題はない。子供が<決まった仕事・職がない>のは当然で、<暇でいる>ことになる。実際子供が<暇でいる、暇でとくに何もしない>のはまれで、食べるとき、寝ているとき以外はなにかの遊びをしている。子供にとっては<あそび>が<仕事、仕事、なすべきこと>と言える。
 
ここにも子供が<あそぶ> とおとなが<あそぶ>の大きな違いがある。 子供が<あそぶ>にはあまり制限、制約がないが、おとなが<あそぶ>にはいろいろ制限、制約がある。
 
本来<あそぶ>にはあまり制限、制約がないのだが、子供があそんでいても、メチャクチャ
に遊んでいるわけではない。特に二人以上であそぶ場合がそうだが、制限、制約がやぶられる場合もある。一人であそぶ場合も自分なりに制限、制約をもうけているようだが、制限、制約をやぶる場合もある。制限、制約がやぶられても大きな問題にならないところが<あそぶ>の特徴ではないか。

<あそぶ>の名詞形<あそび>もよく使われる。
 
あそびで、あそび半分で
 
あそび (半分) でこの仕事をしちゃ困る。 

は否定的な言い方だが
 
成功不成功にこだわらず、失敗してもてもいいから<あそび半分>でやってみたらどうだ。
勝敗にこだわらず、負けてもてもいいから<あそび半分>でやってみたらどうだ。
 
は否定的ではない。<あそび>、<あそぶ>のややこしいところだ。

遊びでxxする
 
日曜日は遊びで絵を描いている、日曜大工をしている

はあまり制限、制約がなく<xxする>ことだ。制限、制約、さらには目的があるとまじめに、真剣にとりくむことになり、趣味から離れて仕事になるか。この意味でも<仕事、しごと>は<あそび>に対峙する。<しごと>は<するべきこと>だ。
 
<あそびで>の反義語は
 
まじめに、真剣に、本式に
 
これはあそびではない。もっとまじめに (真剣に) やれ。
これまではあそび。これからが真剣勝負。
これまではあそび。これからが本式になる


飲酒・色事・ギャンブルなどに身を入れる。遊興する。「―・ぶ金欲しさに盗みをはたらく」
 
飲酒 (飲む)。 ギャンブル (打つ) 、色事 (買う) は良くないことで、これらを<好きなことをして楽しい時間を過ごす>で実際にしたら / されたらろくなことはない (いいことはない)。だが<遊ぶ=好きなことをして楽しい時間を過ごす>に変わりはない。つまりは<あそぶ>対象が問題になる。したがって
 
良い好きなことをして楽しい時間を過ごす
 
のは問題がないが
 
悪い好きなことをして楽しい時間を過ごす
 
のは問題がある。これであれば
 
の<何もしないでぶらぶらして時を過ごす>方がましだ。
 

労力・機械・土地などが有効に使われずに捨て置かれる。「手が―・んでいる」「―・んでいる資本
 
これは意味的には< 何もしないでぶらぶらして時を過ごす>の派生と見て言い。

(「…にあそぶ」の形で)見物勉学のために他の土地へ行く。旅行する。遊学する。「京都に―・ぶ」「三年間パリに―・ぶ」
 
これは特殊な言い方だ。

野球で、投手打者のねらいをさぐったり、打ち気をそらしたりするために、わざとボールになる球を投げる。「ツーストライクのあと一球―・ぶ」
 
これはかなり特殊な言い方だ。

相手をもてあそぶ。からかう。「力が違いすぎて、すっかり―・ばれてしまった」
 
元来は<もちて+あそぶ>、<手にもって、手のひらにもって><あそぶ>の意だろう。

詩歌・管弦などを楽しむ。
「をとこは、うけきらはず呼び集へて、いとかしこく―・ぶ」〈竹取〉

これは< 好きなことをして楽しい時間を過ごす。>に通じる。竹取物語からの引用なので、これが<あそぶ>の元の意味に近いだろう。
 
ーーーーー
 
<あそぶ、あそび>で奥深い意味があるやまとことばは<あそびごころ>ではないか?<あそびごころ>はおおむね肯定的だ。
 
 
sptt

Tuesday, September 17, 2024

ごめんあそばせ

 

<ごめんあそばせ> とはどういうことか? テレビドラマで聞いたことがあるが、実際聞いたことはない。実際言われてみたら、おそらく<からかわれている>気持ちになるだろう。ネットで調べてみると

ごめんあそばせ https://kufura.jp/work/business-manner/79042#google_vignette


「ごめんあそばせ」は、“お許し”を意味する”ごめん”(御免)に、尊敬語で“~しなさってください”という意の“あそばせ”がついています。ですから「お許しください」「ごめんなさい」という意味です。こうした言葉は、“あそばせことば”といって、丁寧で上品な雰囲気を出すために使われていました。「ご覧あそばせ」「お通りあそばせ」というような使い方をします。

という解説がある。<あそばす>は<あそぶ>の丁寧語で、丁寧でないのは<ごめんあそべ>。丁寧度、上品度は落ちるが意味は通じる。下品で乱暴な言い方ではない。上の解説では<あそばす>に<なさってください>の意があることになるが、これはどこから来たのか?<あそぶ、遊ぶ>にこのような意味はない。前回のポスト ”<勉強する>の語源" の最後の方で<勉強する>の反義語で<遊び心>、<遊ぶ>をとりあげているが、奥が深い言葉だ。ごく簡単には

遊ぶ:強制的にではなく、自主的に楽しいことをする

と言えそう。「ご覧あそばせ」「お通りあそばせ」はこの意味でなんとかなるが、<ごめんあそばせ>はダメだ。だが強いて意味をつければ

<お許しください>は<許して楽しい気分になってください>の意になるか?これが冒頭で書いた

実際言われてみたら、おそらく<からかわれている>気持ちになるだろう。

の理由だろう。


sptt


 

 


 

Saturday, September 14, 2024

<勉強する>の語源


<勉強する>の<勉強>は中国語由来で、もとの中国語の意味と関連はあるが、大きなズレがある。中国の Wiki相当 の baike.baidu の解説を利用すると

baike.baidu の冒頭の解説は

勉强 miǎn qiǎng:能力不够,还尽力做、不是心甘情愿的、使人做他自己不愿意做的事、将就或凑合、不充足等。出自《礼记·中庸》。

で、大体察しがつくが、なじみのない心甘、将就、凑合は、これまた baike.baidu の解説を利用すると

<心甘>は<甘い心>ではなく<心甘>または<甘心>で

心:

(1) 情愿  [willingly; readily]

他是甘心受罚的
初,武帝感 张骞之言,甘心欲通 大宛诸国,使者相望于道,一岁中多至十余辈。——《汉书·西域传》
(2) [be reconciled to; be complacent about] ∶ 满意; 满足
不达目的绝不甘心

 つまりは、甘んじる、甘んじてxxする。

将就は
将就 jiāng jiu:对事物不太满意,勉强适应,凑合。 出自《·周颂·访落》

ことは不満だが無理して合わせる。

凑合は

凑合 còu he聚合、汇集,出自《朱子语类》。
 
だが、これは簡単すぎ、追加説明では
 
(1) 聚合;汇集:[to gather]
例文:凑合在一起|凑合了大家的意见。
大家从四面八方到一起
 
(2) 拼凑 [to improvise]
例文:请事先准备好发言稿,不要临时凑合
 
(3) 将就;还过得去 [to make do; not too bad]
 
(4)勉强适应或应付 [to cope with]
例文:这日子就凑合着过吧|旧衣服凑合着穿穿。
 
無理して適応する。 

3)で
将就、4)で勉强(适应)が出てきて堂々巡りだが、これが冒頭の<将就或凑合>の意味で1)、2)は凑合のもと意味だろう。<凑>自体は
 
凑(读音:còu)本义是指水边人所会聚之处,后泛指聚集。の意だ。

 
さてbaike.baidu の冒頭解説にもどると、これは分類ができ 
 
勉强とは
 
1)能力不够,还尽力做、
 
能力は不足だがせいいっぱいやる(尽力をつくしてやる)。
 
2)不是心甘情愿的、使人做他自己不愿意做的事、
 
本人はやりたくはないが、他の人(まわりの人)が本来やりたくはないことをさせる
 
3)将就或凑合,
 
ことは不満だが無理して合わせる。
 
4)不充足、
 
(ことをするのには)不十分、不足
 
5)等。
 
その他 

<勉強する>の語源の説明はこれでも十分で、ネットの<勉強する>、<勉強>の語源の多くの解説では、中国語の<勉強>の意味として
 
2)不是心甘情愿的、使人做他自己不愿意做的事、
やりたくはないが、他の人(まわりの人)が本来やりたくはないことを(むりやり)させる
 
の意味が引用され、これが日本では巡り巡って、日本語の<勉強する>、<勉強>の意味になった、というもの。つまりは元来<やりたくはないが、むりやりxxさせられる、学習させられる>の意があるという説明が持ち出される。しかし本当のところはどうなのか。
 
baike.baidu の<勉強>追加説明を見てみる。 
 
1、尽力而为。
 
文字通りでは<尽力してなす>で、<やりたくはないがむりやりxxさせられる>の意はない。
 
①《礼记·中庸》:“或安而行之,或利而行之,或勉强而行之,及其成功一也。”
 冒頭で ”出自《礼记·中庸》” となっていいるので、中国語ではこれが原意(元の意)だろう。
 
“或安而行之,或利而行之,或勉强而行之,及其成功一也。”
 
はわかりずらいが
 
安んじて (努力しなくて) これを行なう、利があってこれを行う、尽力してこれを行う、いづれにしても成功に差はない。
 
と解釈できる。意味深長なのだ。これには前段があり、中国流のレトリック構成。前段は
 
生而知之;或学而知之;或困而知之:及其知之,一也。
 
安んじて (努力しなくて) これ知り、学びてこれを知り、困難を克服してこれを知る、いづれにしても<知る>に差はない。
 
と解釈できる。
 
Japan Wiki には


『礼記』の成立

『礼記』は雑然とした内容を集積した書物であり、篇によって成立時期は異なる。例えば、「中庸」篇は孔子の孫の子思の作。

とあり、

(その内容は、政治・学術・習俗・倫理などあらゆる分野に及ぶ、雑然とした記録の集積である。)  

という解説がある。
 
②汉 刘向《列女传.贤明传.周南之妻》:国家多难,惟勉强之。
汉 刘向 《上灾异封事》:“君子独处守正,不挠众枉,勉彊以从王事,则反见憎毒谗愬。”
⑤宋 苏轼 《拟进士对御试策》:“道可以讲习而知,德可以勉强而能,惟知人之明不可学,必出於天资。”
⑥明 归有光 《河南策问对二道》:“勉强学问,则闻见博而知益明。”
 
最後の例文には<勉强学问>とある。これも<いやいやながら、強制的に学问をする>ではない。だが、このあたりから<学ぶ>が<勉强>になっていく可能性はある。
 
 
2、能力不足而强为之。
 
これは文字通りでは<能力不足だが、強いてこれをしてみる> 。能力不足でなすことは不可能に見えるが、やってみれば道が開けることもある。これも<強制的にやらされる>の意はない。

①唐 杜甫法镜寺》诗:“身危适他州,勉强终劳苦。” (無理に)
②明冯梦龙东周列国志》第五十一回:“越椒令曰:‘擒了楚王,方许朝餐。’众人劳困之后,又忍著饥饿,勉强前进,追及后队潘侫之军。” (無理して、力を尽くして)
 略
④清 刘鹗老残游记》第八回:“於是众人搀着,勉强移步,走了约数十步,方才活动,可以自主。” (chān,其本意为扶,牵挽。to help by the arm; to support with hand)
蔡东藩清史演义》第二回:“忽报努尔哈赤兵到,顿觉仓皇失措,勉强招集部众,出城对敌。” (不可能に見えるが、力を尽くして)

以下略

 
3、心中不愿而强为之。
 
これは<やりたくはないが、不本意だが、無理にする、無理やりさせられる>の意。
 
①三国 魏 嵇康与山巨源绝交书》:“不相酬答,则犯教伤义,欲自勉强,则不能久,四不堪也。”
②明 施耐庵水浒》第四十二回《宋公明遇九天玄女还道村受三卷天书》 教四个青衣扶上锦墩坐。宋江只得勉强坐下。
③明 罗贯中三国演义》第五十七回《柴桑口卧龙吊丧 耒阳县凤雏理事》:欲以才学动之,见孔明不在,只得勉强相辞而去。
④清 刘献廷广阳杂记》卷四:“公能食此蝇,吾与公赌,输吾坐下马。 辅臣念言既出诸口,遂勉强吞之。”
⑤ 巴金《》七:“ 剑云微笑了,不过谁也看得出他的笑是很勉强的。”
 
例文の1)ー4)は明代、清代の作品からなので、意味の変遷があったのだろう。
 
 
4、使人去做他不愿做的事。
 
これは<やりたくはないが、不本意だが、無理やりさせる>の意で使役の意がある。
 
浩然 《艳阳天》第六七章:“焦克礼见 萧长春 没有留下来的意思,也不好再勉强。”
 
 
5、牵强,理由不充足。
 
牵强:qiān qiǎng。亦作牽彊。意思是①犹勉强。②犹言牵强附会
 
<勉強する>について言えば ②牵强附会は関係ない。したがって、牵强=勉强で堂々めぐり。
  
①清 李渔 《巧团圆·争购》:“你们两箇的话,都说得勉强,毕竟尽先的是。”
②叶圣陶 《线下·一个青年》:“有些资料明明是故意找出来的,但是出之以恳挚和悦的声调与姿态,就没有勉强敷衍的痕迹,使听到的人十分悦乐。”
 
最後の例文で<勉强敷衍>は日本人なら<牵强附会>の意か、と推測するが<敷衍 (敷衍)>は<勉強>と同じくクセモノで、中国語では
敷衍 fū yǎn:马虎,不认真,表面上应付塞责:搪塞责任。指工作不认真负责,表面应付了事,有欺骗成分。
 
が現代語の意味。横道にそれるのでこれまで。
 
6、将就;凑合。
 
これは上で説明した。
 
①清 李渔 《慎鸾交·目许》:“据小弟看来,不但第三名不堪附骥,连那第二个女子也还是勉强续貂。”
曹雪芹《红楼梦》第三八回:“我也勉强了一首,未必好,写出来取笑儿罢。”
③杨沫《青春是美好的》:“有几个同学同情我的遭遇,帮助我交了两三个月的饭费,勉强读完了那个学期。”
 
近义词
将就、强迫、尽力、牵强、凑合。
 
 つまりは中国語では<勉強>は多義語なのだ。というか時を経て意味の変化がある。
 
反义词
情愿、充分、乐意。

反義語はおもしろい。

情愿 qíng yuàn:志愿;愿望。心里愿意。宁愿。

したい、やりたい

充分は<不十分>の反義語で、上の例では<十分できる>の反義語<能力不足>で出てくる。

乐意 lè yì:も多義語と言える。baike.baidu の解説。

  1. 甘心愿意 even if being taken advantage of, to be still willing
  2. 愿意提供…
  3. 满意、高兴
  4. 快意;高兴
  5. 愿意。

基本的には<よろこんでxxする>の意だが、無理することなく自然に to be satisfied, to be content の意もある。。快乐がないが、 生日快乐 (Happy birthday)、新年快乐 (Happy New Year) などよく使われる。乐意= 快乐 (happy) ではない。

さて中国語の話が長くなってしまったが、 日本語の<勉強する>について再考してみる。というのは日本語のネットの<勉強する>、<勉強>の語源の多くの解説では、中国の語源を反映して<勉強する>がワルモノ扱されているのが少なくない。勉強する>ではなく<学習する>であれば中立になるが、親が子供に<遊んでばかりいないで学習しなさい>というのはまず聞いたことがない。現代中國では<好好学习>、<努力学习>とよく言う。日本語の勉強する>には<やりたくはないが、無理にする、無理やりさせられる>の意がつきまっとているようだ。調べてはいないが今の<勉強する>は明治時代以降の使用だろう。もし遣隋使、遣唐使の時代であれば<能力不够,还尽力做;能力は不足だがせいいっぱいやる>の意で使われてきたはずだ。日本で中国語の<勉強>と同じような意味の変遷があったとは思えない。 だが明治時代以降の輸入使用とすると<やりたくはないが、無理にする、無理やりさせられる>の意味での輸入使用になるが、そうではない。おそらく知識人の文献からの輸入使用だろう。つまりは

《礼记·中庸》:“或安而行之,或利而行之,或勉强而行之,及其成功一也。”

輸入使用だろう。これに<勉強>の negative の意味合いはない。むしろ positive な意味内容だ。ここでかなり神格化された現代の経営者二人に登場してもらう。京セラの創業者稲森和夫と Apple の創業者 Steve Jobs だ。

稲森和夫は

いやな仕事とでも、実際やってみるとおもしろいことがある。
やりたくない仕事とでも、やっているうちおもしろくなることがある。

というようなことを言っている。 

<問題に対処する>、<困難に立ち向かってのり越える>は今は<チャレンジする>と positive な言い方に代わっている。稲盛和夫も Steve Jobs もそれまで世の中にないものを並々ならぬ苦労をして(あるいは経営者として並々ならぬ苦労を社員にさせて)製品化し、世に出して成功した創業者だ。ネットで調べてみると

稲盛和夫「経営の神様」10の名言

の一番目に 

1 稲盛和夫の名言1:仕事をとことん好きになれ

 という意のがある。関連する名言には

「八方ふさがりの状態で、いつまでもすねて、毎日ぶつぶつ言っていても、どうなるものでもない。自分の人生をうらんでみても、天に唾するようなものだ。たった一度しかない貴重な人生を、決して無駄に過ごしてはならない。どんな環境であろうと、常に前向きに生きよう」

『人生と経営』(稲盛和夫 致知出版社) p24

どんな分野でも、成功する人というのは自分のやっていることにほれている人です。仕事をとことん好きになれ─それが仕事を通して人生を豊かなものにしていく唯一の方法といえるのです。

『生き方』(稲盛和夫 サンマーク出版)p108

「最初は多少無理をしてでもいいから、まず「自分はすばらしい仕事をしているのだ」「なんと恵まれた職業についているのだろう」と心の中でくり返し自分にいい聞かせてみる。すると、仕事に対する見方もおのずと変わってくるものです」

『生き方』(稲盛和夫 サンマーク出版)p109-110

というのがある。一方 Steve Jobs は

こどものような遊び心と好奇心が重要

というようなことをいっている。

Steve Jobs <10の名言、Steve Jobs 10 quotes>の中では

7. “Your work is going to fill a large part of your life, and the only way to be truly satisfied is to do what you believe is great work. And the only way to do great work is to love what you do.”

As programmers, we have the lucky fortune to often be extremely into our work. By following our passions, we can produce truly excellent products. Many people are locked into jobs that they didn’t want simply because they found themselves going down the path of least resistance. You can never truly succeed if you resent where you are.

というのがある。

個人的には1番目が好きだ。

1. “Simple can be harder than complex; you have to work hard to get your thinking clean to make it simple.”

Any programmer worth their salt knows the difference between something that works and something that is elegant. Steve Jobs built a fortune on creating simple designs that may have had the same functionality as other designs, but did it better. In programming, the simpler solution is always the best solution, as it carries with it fewer potential complications.

<勉強>では The 14 Best Steed Jobs Quotes (上の 10 Quotes と overlap するのが多い) の中に

13. "I'm convinced that about half of what separates successful entrepreneurs from the non-successful ones is pure perseverance."

 と言うのがある。

<Steve Jobs 10 quotes、Steve Jobs 14 quotes>の中には

この<こどものような遊び心と好奇心が重要>

がないのだが、他のところでこのようなことを言っているようだ。これは中国の<勉強>にも日本の<勉強する>にもない。<好奇心>の方は<好奇心から自主的に勉強、学習する>方が positive でいい、また効率もよく、ドンドン頭には入ってくる。

問題は<遊び心>で、   

特に<遊び心があると>自主的に勉強、学習するわけではなく、効率もよく、ドンドン頭には入ってくる、わけでもない。

<遊び心>は難しく、英国のユーモア、日本語の落語と関連があろうが、これらは主に言葉上の<遊び心>で行動は伴わない。ネットで少し調べてみると

大前研一は遊び心を「奥ゆかしい余裕、センスがいい独特のゆとり」とした上で「大切なのは新しいことを学ぶ心、人の心がわかること、人の上に立てるリーダーシップ、自分の考えをまとめて表現できる能力、多様な価値観を受け入れる力」と言う。

というのがある。 <遊び心>はすぐには<新しいことを学ぶ心>、<リーダーシップ>とは結びつかない。くわしくは大前研一の本を読む必要があろう。英語では playful というのがあるがイマイチ。

playful : 
Cambridge.org/dictionary

done as a form of play rather than intended seriously, or wanting to have a good time and not feeling serious:

むしろ例文の

They are most likely playful though, as a group, and imaginative, and resourceful, and entertaining. 

が参考になる。

 
 

sptt