Tuesday, September 12, 2017
もったいない、もったいぶる - 2
<もったいない、もったいぶる>の第2弾。前回(2015年3月)は次のように書き始めている。
”
<もったいない>は日常よく使う。<もったいぶる>、これと似た意味の<もったいをつける>もたまに使う。やや古くは<もったいらしい>という形容詞があったようで、したがって<もったいらしく>という副詞もあったのだろう。
手もとの辞書によると<もったい>は<勿体>で漢語由来だ。<勿>は<XX( し)ない>の意で、おもに否定の命令に出て来る。例: 请勿xxx。<体>は<正体>の意。したがって、<勿体ない>は二重否定で、<正体がない、がない>で、理論的には<体(正体)>の意になるが、もったいない = 体(正体)では何のことだかわからない。<勿体ない> = <正体がない、がない>とはいったいどういう意味か?
”
一応結論は出しているが、根拠は弱い。今回は二度目の挑戦。
最近(2017年9月)イタリア語の接頭辞<s->の関連で degnare - sdenare、degno - sdegno、 さらに英語の dignity、to dignify を調べているうちにある発見をした。おもしろい時間的と思われる(使われているうちの)意味のズレだ。dignity は威厳(dignity: the state or quality of being worthy of honour or respect.)といったような意味だ。一方動詞のto dignify は過去の意味は調べていないが今は to dignify: to make (something) seem worthy and impressive で<威厳をつける>から変化して<威厳があるように見せる>で<もったいぶる>に近くなっているようだ。さらに調べていくと dignity、to dignify に関連あり、またイタリア語のdegnare というよりはもとのラテン語 digno あるいは相当のフランス語由来と思われる to deign と言う動詞があるのを発見した。わたしは聞いたこともしたがって使ったこともないが、
1) to think it fit or worthy of oneself (to do something)
2) to do something that one considers to be beneath one's dignity.
3) to do something unwillingly and in a way that shows that you thing you are too important to do it.
のような意味があり、 1) がもと意味で2)、3)は派生的な意味と考えるが、1) の oneself がキーで、これが自大(自分はえらい、と思う)につながる。話がズレて行きそうなので、この話ば別の機会にすることにして<もったいない>に戻る。初めの<もったいない、もったいぶる>の第1弾の繰り返しのようになるが、
<勿体>で漢語由来。<勿>は<XX( し)ない>の意で、おもに否定の命令に出て来るが(例: 请勿xxx(注1))、昔は一般的な<否定>の意があったろう。<体>は<正体>の意。中身(中味)ともいえる。したがって、<勿体ない>は二重否定で、<中身がない、がない>で、理論的には<中身がある)>の意になるが、もったいない = 中身がある、では何のことだかわからない。二重否定は文字通り<肯定>になる場合と<否定の強調>になる場合があるが<肯定>になる場合も単純な肯定ではない。 <中身がある>は単純な肯定だ。二重否定をある種の<肯定強調>とすると<中身がある>は本来いいことであるので、これが強調され<たいへんいいこと、ほめられること(honoured)で、さらには少し飛躍してdignity (威厳)がある>になる。一方<中身がないのは>は<からっぽ>、<仮り>、<(うわべだけ)でよくないこと>、<非難されること>、さらには少し飛躍して<威厳(dignity)がないこと>になる。したがって
もったいない -> <中身がある> ->たいへんいいこと、ほめられること、価値がある(worthy)、ほめられる内容がある(honoured)、尊敬される内容がある(respected)、威厳(dignity)がある
となる。 <もったいない>の表現で日常一番よく耳にするのは
まだ使えるのに捨てるなんて<もったいない>
そんなくだらないものに大金を使うなんて<もったいない>
という言い方だ。これはモノが対象で言い換えると
まだ使えるのに捨てるなんて<価値あるものを価値なくしている、むだをしてる>
となる。
<無駄なことする>無駄にも否定の<無>の字がある、<無駄>はやまとことばではなく漢語由来だろう。話がずれていくので無駄についても別途検討。さらには逆に戻って
まだ使えるのに捨てるなんて<中身あるものを中身なくしている>。
といえる。さらに逆に戻って
まだ使えるのに捨てるなんて<もったい>をなくしている。
となるがこれではどうどうめぐりか、ことばの遊びで何が何だかわからない。ナンセンスだ。
人が対象になると
そんなに親切にされては(お礼をいわれては)<もったいない>。
それはもったいない話(申し出)です。
と言うのが考えられるが、かなりあらたまった、尊敬語、謙譲語が出てくる場面での発話だ。<勿体>漢語なので庶民ではなく漢文の知識のある武士か貴族か寺子屋の先生あたりの人々でかつ、尊敬語、謙譲語が出てくるような場面で使われ始めたのだろう。
<もったいない>内容がちがってくる。この人が対象の<もったいない>も置き換えると
そんなに親切にされては(お礼をいわれては)<中身がある、たいへんいいこと、価値がある、ほめられる内容がある、尊敬される内容がある、威厳がある>となるのだが、これではこれまた何のことだかわからない。ナンセンスだ。
はなしが相当混乱してきたので、今回の検討結果の結論を述べる。
<もったいない>は<勿体>が<ない>。 もともとの<中身がない>の意から<もったいをつける>、<もったいぶる>の<もったい>の<中身がないのにあるように見せる>の意で使われるようになった。<中身がないのにあるように見せる>に<ない>がついて意味にズレが生じ<もったい>が<ない>、<中身がないのにあるように見せる>ことが<ない>。これから、反対の<中身があるのにないように見せる>の意味を持つようになった。<中身があるのにないように見せる>は一種の謙譲の、卑下した、へりくだった言動だ。このような言動は場合によって必要のない、無駄なことだ。<中身があるのにないように見せる>ような言動に会った場合、または受けた場合、<わざわざ必要のない、無駄な言動に対して<もったいがない(中身がないのにあるように見せる、のではない、むしろ中身があるのにないように見せる)>と表現するようになった。これがさらに
そんなに親切にされては(お礼をいわれては)<もったいない>。
それはもったいない話(申し出)です。
と言うような言い方にズレていった。これがさらに一般化され(おそらくこのころにはもとの<勿体>の意はほぼ意識になくなっている)、庶民も使うようになって
まだ使えるのに捨てるなんて<もったいない>。
そんなくだらないものに大金を使うなんて<もったいない>。
と言うようになった。
(注1)(例: 请勿xxx、は広東語の香港ではよくみるが文章語で口語は<口吾好(むほう)、口吾は一語で<む>と発音>、普通語(北京語)の口語は<不要xxx>。
sptt
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