Monday, January 21, 2019
<あなどる>の語源
<あなどる>は漢字で書くと<侮る>で侮辱の侮(ぶ)だ。<侮る>の意味は侮辱ほどのことはなく<軽く見る>というのが辞書にある。<甘く見る>、<バカにする>やいかにもやまとことばらしい<見くびる>もこれに近い。なぜか否定用法が多い。
そうあなどりなさんな。
これを軽く見てはいけない。
そう甘く見ない方がいい。
バカにしないで。そうバカにしたものでもない。
否定でない例
あなどると、軽くみると、甘くみると、バカにすると、みくびると、ひどい目にあうぞ。
さて<あなどる>の語源だが、いろいろ考えてみたが、説得力のある説明がみつからない。
<穴を取る>では何のことだかわからない。頭の<あ>は接辞だろう。そうすると<などる>となるが、これまた何のことだかわからない。<などる>の古形は<なづ>だろう。語呂からだけでは<なでる>があり、これも古形は<なづ>だろう。<なでる>が標準語だろうが<なぜる>と言うのもある。<頭をなでる>は子供をかわいがったり、ほめたりするときに付随する動作だが、少し飛躍すれば<軽く対応する>(なでておく程度に扱う)の意になる。
<なでる>の<な>を接辞とすると、原形は<づる>、<ずる>だろう。 <づる>、<ずる>はさらに<擦(す)る>由来だろう。<擦(す)る>は超一般動詞の<する>とイントネーションが違う。<擦(す)る>は派生語がけっこうある。
擦る
こする
さする
なする (なすりつける)
ゆする
ずる
(いざる、いざり寄る)
けずる
めずる (虫めずる姫君)これはまちがい。<めづる>が正解。<めでたい>は関連語だろう。
ゆずる
ずれる
はずれる
ずり落ちる
ずるける
ずる休み
ずるをする
<擦(す)る 、こする、さする 、なする>は同じような動作だ。<けずる>もこの仲間といえる。
<見くびる>は<くびる>が<くびれる>で、これは<筒状のもの一部がへこんで細くなる>ようなことで、蜂の胴体はくびれている、などと言う。この<くびれる>を連想すれば<みくびる>の意は出てきそう。<見くだす>、<見さげる>は<見くびる>とは違う。
sptt
Friday, January 18, 2019
<いのり>、<のろい>、<なのり>
<いのり(祈り)>と<のろい(呪い)>は古語の<のる>関連語だ。
いのり <- いのる
のろい <- のろう
<のる>は今は使わないが
<なのる(名+のる)>で今も使われている。<なのり>は<なのる>の連用形の名詞(体言)用法。<名を名のれ>はおかしいが使われるのは<なのる>の元の意味が薄れてしまったためか、語呂がいいためからだろう。その他では
のりと (祝詞)
みことのり <み+ことのり>の<ことのり>の<のり>
<のたまわく>(<- のりたまわく) の<の(り)>
にからくも残っている。
<のる>は単なる<言う、語る>ではなく神がかった><言う、語る>と言える。
漢字の話になってしまうが、<呪う>は違うが
祈り
神
社(やしろ)
祭り
祟る(たたる)
祠(ほこら、と読む)
禰宜(ねぎ、と読む)
はいずれも<示>がつく。さらには
祝う
福
禄
禍い(わざわい)
禁じる (北京の紫禁城)
は<示>がつく。
いまは名刺交換などで簡単にすませているが、<名のり>は一種の儀式で昔はく神がかった>ものだったろう。<問われて名のるもおこがましいが>と言う決まり文句がある。日本のむかしの戦記物での<名のり>は勇ましく、自慢げなのが多い。水滸伝では<名のり>の場面が随所にでてくるが、<問われて名のるもおこがましいが>と同じくへりくだった言い方が多い。とくに主人公の宋江の場合がそうだ。水滸伝の時代背景は宋の時代だが、水滸伝が書かれたのは明の時代。中国、日本で謙譲の美徳が出てきたのはいつごろからか?
sptt
Wednesday, January 16, 2019
<かわいい>の語源と派生語
<かわいい>は<可愛>の中国語発音がなまったものと長らく思っていたが、<いじらしい>、<にくらしい>、<いやらしい>、<いやががらせ>などを調べているうちに、たまたま手もとの三省堂辞書で<かわいい>を引いてみたら、<可愛>はわたしのカン違い、先入観で、<かわいい>はれっきとした大和言葉なのだ。もともとは<かははゆし>でこれが(<かはゆし>)<かわゆい>、<かわいい>に変わっていった、とある。<かははゆし>の項目はこの現代語の三省堂辞書にはないので、Wiki-Japanにあったてみた。
Wiki-Japan<かわいい> の一部
”
語源とその変遷
「かほはゆし(顔映ゆし)」が短縮された形で「かはゆし」の語が成立し、口語では「かわゆい」となり、「かわゆい」がさらに「かわいい」に変化した。
「かほはゆし」「かはゆし」は元来、「相手がまばゆいほどに(地位などで)優れていて、顔向けしにくい」という感覚で「気恥ずかしい」の意であり、それが転じて、「かはゆし」の「正視しにくいが放置しておけない」の感覚から、先述の「いたわしい」「気の毒だ」の意に転じ、不憫な相手を気遣っていたわる感覚から、さらに「かはゆし」(「かわゆい」「かわいい」)は、現代日本語で一般的な「愛らしい」の意に転じた。
「かわいい」の漢字と送り仮名による表記の「可愛い」は、当て字との説もあるが、中国から伝来した文学等の文書に見られる、「愛らしい」の意の語「可愛(可爱)」に由来するとも思われる[要出典]。この語は現代中国語で「カアイ」という音形を持つため、かわいいの語幹と音も近似する。現代中国語でも「愛らしい」の意では一般に使用される。
形容詞に「〜そう」をつけることで、推定を表す単語にすることが可能だが、「かわいい」の場合、「かわいそう」となり「哀れみ」などの意味にもとれることになり、話者の意図に合わない。そこで、最近では、「かわいい」の語源である「かわゆい」に「〜そう」をつけた形である「かわゆそう」という表現が適切だという見解もみられる。
”
(注:現代中国語で「カアイ」という音形、は<クアイ、ke-ai、だが<e>は<エ>ではなく、いわゆる曖昧母音の<e>
<形容詞に「〜そう」をつけることで、推定を表す単語にすることが可能だが、「かわいい」の場合、「かわいそう」となり「哀れみ」などの意味にもとれることになり、話者の意図に合わない。>のところは、その前にある<先述の「いたわしい」「気の毒だ」の意に転じ、不憫な相手を気遣っていたわる感覚から>という解説からすれば意図に合わないことはない。)
前半の<かほはゆし>が<かわいい>に変わっていく過程の説明は想像を絶するものがある。いいくら想像をたくましくしても<かほはゆし>は<かわいい>にならない。木の枝分かれは、よく見ると、これに似たところがある。何らかの原因、複雑に絡み合ったもろもろの原因がなせるわざだろう。生物(動物、植物)の進化も想像を絶するものがある。この想像を絶する変化、派生は限りなくおもしろい。
これである程度了解したが、後半の解説は私の疑問と同じようなところがある。<かわいい>はほぼ完璧(かんぺき)な派生語をつくる。
かわいがる
かわいそう
かわいらしい
ところが以上は<がる>、<そう>、<らしい>の一般的な解説では説明がつかないのだ。
<がる>(<がる>シリーズのポスト参照)
第一義は
いかにも<いやだ>という状況にあるという印象を与えるような言動をする。
第二義は
いかにも<いやで>あるかのようにふるまう。
<かわいがる>はこのような定義では説明がつかない。
<そう>
これはまだ調べていないが<そう(だ)>は<よう(だ)>に似たところもあるが(<行きそうだ>)、<行くそうだ>は伝聞の助動詞。
<かわいそう>はこれだと説明がつかない。
これはWikiの解説で説明がつく。
<らしい>
推定: <来るのはどうやら花子らしい>、<行くらしい>
xx にふさわしい、につかわしい 男らしい決断、女らしいしぐさ
詳しくは ”大和言葉<xxx らしい>と漢語<xxx (の)よう(様)だ>の対決” 参照。
<かわいらしい>はこれでは説明がつかない。
いま調べている<いじらしい>も同じようなところがあり<いじ>と<いじらしい>が結びつかないのだ。もっとも<いじ>が何だかよくわからない。
<いじらしい>は上のWiki解説のなかにある<先述の「いたわしい」「気の毒だ」の意に転じ、不憫な相手を気遣っていたわる感覚>に通じるものがあるが<いじ>との関連がよくわからない。
似たようなよくわからないのに
うるさい
うるわしい
うれい
うれしい
がある。別途チェック、検討予定。
sptt
Sunday, January 6, 2019
感謝のやまとことば
<同情のやまとことば>、<謝罪のやまとことば>に続いて<感謝のやまとことば>を調べてみる。
ありがとうございます。 ありがとう。 ありがたい。
かたじけない。 (男性用語)
いたみいる。 (ほとんど聞かないので、ほぼ死語か) <いたみいる>は元来<謝罪のことば>だろう。
-----
もうしわけない。
これはふつうは<謝罪のことば>だが、何かをしてもらったった場合には使えて<感謝のことば>になる。
私が住む香港の広東語(広東省の広東語も同じ)では感謝の言葉の表現に二つの違った言い方がある。例外はあるが、基本的には
1) 何かをもらったっ場合
多謝 (発音もソフトな<トチェ>とハードな<トツェ>の二つがある。かなり前のポスト ” 灣仔(湾仔)の軟音、硬音、メチャクチャな<たちつてと>” 参照)
2)何かをしてもらった場合 (サービスを受けた場合)
唔該 (ムンコイ発音する)
北京語はこの区別がなく<謝謝(シェ-シェ)>の一つですむ。もっとも北京語でも<謝謝>と言われた場合に<应该(応該)的(インカイダ)>(<すべきことです>が直訳だが、<どういたしまして、とんでもない>相当か)というのがある。
例外1
店や食堂の店員は客に対して<多謝>という。
sptt
謝罪のやまとことば
<同情のやまとことば>につづいて<謝罪のやまとことば>に挑戦。謝罪は<あやまること>、動詞とみれば<あやまる>だ。(中国語では基本的に名詞と動詞の区別がない。)<わたしはあやまります>でよさそうだが、ほとんど聞かない。ダメではないが、場合にによりけり。これは助詞の<は>のなせるわざで、場面は違うが<わたしがあやまります>はそのままで問題ない。この違いは最後にとりあげる。<わたしは(が)あやまります>は謝罪のやまとことばそのものではない。謝罪の言葉は
すみません。 すまない。
もしわけありません。 もうしわけない。
ごめんなさい。 ごめん。
あしからず。
おわびします。 おわびもうしあげます。
いたみいる。 (ほとんど聞かないので、ほぼ死語か。手もと辞書では感謝のことばでもある。)
<おわびします>を除くと、いずれも、もってまっわた言い方で、たとえば英語に直訳した場合には何んことだかわからないだろう。
もう少しシリアスになると
(わたしが)わるうございました。
(わたしが)あやまちをおかしました。
(わたしが)まちがいました。
とんでもないことをいたしました。
いたらぬことをいたしました。
すみません。 すまない。
これは<あやまって済むものではないことはわかっていますが . . . .>
の略だ。
もしわけありません。 もうしわけない。
これは<(誤(あやま)りの)申し訳、申しひらき、(いいわけ、説明)はありません>。
の略だ。<誤(あやま)り><誤り>と謝罪(あやまること)の<謝(あやま)る>、その連用形の体言(名詞)用法の<謝(あやま)り>は関連があろう。一方中国語辞典にあたると、謝罪(say sorry)と謝礼(thank you)の両方に<謝>の字がある。
英語では Excuse me. と言う表現がある。I am sorry. ほどではないが、場合によっては軽い謝罪の言葉になる。<軽い>のはたぶん an excuse に<いいわけ>の意があるためだろう。Excuse me. は<いいわけがない>ではなく<いいわけさせてくれ>に近い。一方。I am sorry. のほうはもとの意味は<わたしはかなしい、残念だ>。人が亡くなったときにはI am sorry. と言う。もちろんあやまっているわけではなく、<わたしはかなしい、残念だ>の意だ。
ごめんなさい。 ごめん。
<ごめん>は御免で、この御免の<免>は<免(めん)じる=免ずる、免+する>で<許すこと>だ。<ごめん>だけなら<御免(をおねがいします)>、<お許(ゆる)し願います>で意味が通じる。<御免なさい>の<なさい>は<xx しなさい>とすると<御免しなさい>でおかしなことになる。江戸弁では<御免なっすて>といっていたようなので、これだと<<御免なさってください>となるようなので、これがなまったものだろう。御免はやっかいで、
それでは、これで御免。
それは御免こうむる。
という言い方がある。派生用法だろう。ここでは詮索しない。
あしからず。
これは古語の形容詞<悪(あ)し>(現代語では<悪(わる)い>)の未然形<あしから>+ ず(否定)だろう。<ず>は未然形につく。
あしからば 未然形 - もし(具合が)悪ければ
あしかれば 已然形 - (具合が)悪いので
<あしからず>は文字通りでは<わるくない>、<わるくはない>で、これではあやまりの言葉にならない。<悪く思わないでくれ>、<悪くとらないでくれ>といった意味か?
おわびします。
<わびる>は現代語では<あやまる>の意になっているが、もと(古語)は<わぶ>>この<わぶ>は<わびしい>と関連があろう。<わびしい>と<わびる>はどういう関係か?<わび、さび>というのもある。<わびしい>は<さびしい>(これまた<さび>のもとだ)にちかい。心理的には、意図はないが悪いことをしてしまったり、まちがったりして人に迷惑をかけた場合、特に相手が好意的である場合<心がさびしくなる、わびしくなる、すさぶ>。
<わびる>、<あやまる>は謝罪を示す言葉ではなく<謝罪する>そのものの意味のやまとことばだ。
<わたしはあやまります>でよさそうだが、ほとんど聞かない。報告調で誠意が伝わらない気(け)がある。これは助詞の<は>のなせるわざ。場面は違うが<わたしがあやまります>は問題ない。これも<が>のなせるわざで、第三者的、客観的な報告調の<は>と違って<が>は当事者の直接的な発話者の発話なのだ。これは<わたしはおわびします>、<わたしがおわびします>とほぼ同じだ。だが問題はそう簡単ではない。<は>と<が>の違いがここにある。<あやまる>を例にとってもう少し調べてみる。
君があやまらないが、私があやまる。 (ダメ)
君があやまらないが、私はあやまる。 (ダメ)
君はあやまらないが、私があやまる。 (ダメ)
君はあやまらないが、私はあやまる。 (OK)
君があやまらいなら、私があやまる。 (OK)
君があやまらいなら、私はあやまる。(ダメ)
君はあやまらいなら、私があやまる。 (ダメ)
君はあやまらいなら、私はあやまる。 (ダメ)
君があやまらいので(から)、私があやまる。 (OK)
君があやまらいので(から)、私はあやまる。(ダメ)
君はあやまらいので(から)、私はあやまる。 (ダメ)
君はあやまらいので(から)、私はあやまる。 (ダメ)
君があやまらなくても、私があやまる。 (ダメ)
君があやまらなくても、私はあやまる。(OK)
君はあやまらなくても、私があやまる。 (OK)
君はあやまらなくても、私はあやまる。 (OK)
君があやまらない。私があやまる。 (ダメ)君があやまらない。私はあやまる。(ダメ)
君はあやまらない。私があやまる。 (ほぼOK)
君はあやまらない。私はあやまる。 (OK)
場合によりけり、人によりけりだが、一般的にはこのようだろう。
<は>と<が>の論議はゴマンとあるが、この比較をやっているうちにある発見をしたので、別の機会に別のポストを書く予定。
いたみいる。
手もと辞書では謝罪のことば、でもあり感謝のことばでもある。 もちろん<(心が)痛む>がもとだ。この<心が痛む>は、<詫びる>に似て
心理的には、意図はないが悪いことをしてしまったり、まちがったりして人に迷惑をかけた場合、特に相手が好意的である場合<心が痛む>(苦痛)となり、この<心の痛み、苦痛>があることを言葉で伝えることによる謝罪の意だ。感謝の意はどこからくるのか?
sptt
Saturday, January 5, 2019
同情のやまとことば
同情のやまとことばを調べてみた。私から見た使用頻度順に書き出すと
かわいそう(だ)
気の毒(だ) 毒(どく)は漢語だが、この表現は日本語として無視できない。
いたましい <- (こころが)いたむ
あわれ(だ) <-あわれ、 <もののあわれ>というのが日本人の(美学)コンセプトとして古文学習ででてくる。
いじらしい
同情からは少しずれるようだが
いとおしい <- いとおしむ <- おしむ
おもいやり <-おもいやる
こころくばり
気にかける
-----
かわいそう(だ)
気の毒(だ)
いたましい
あわれ(だ)
いじらしい
以上は形容詞、形容動詞で対象が主語になり、対象の様子をあらわすが、それにとどまらず発話者の感情(気持ち、こころ)に働きかけているとかんがえられる。言い換えると
わたしは<xx を>かわいそうに思う(感じる)。
わたしは<xx を>気の毒に思う(感じる)。
わたしは<xx を>いたましく思う(感じる)。
わたしは<xx を>あわれに思う(感じる)。
わたしは<xx を> いじらしく思う(感じる)。
となる。他人の感情(気持ち、こころのうち)は実際わからないので
花子は<xx を>かわいそうに思う(感じる)。
(以下同じ)
は日本語では変な感じがある。だが英語や中国語では、この辺はいい加減で
花子は<xx を>かわいそうに思う(感じる)。
ですませているようだ。(例文はあるが、ここでは省略)
-----
最近調べているが
かわいそう(だ)
気の毒(だ)
いじらしい
はやまとことばのミステリーといえるほど分析が難しい。
<かわいい>は同情とほとんど関連がない。
<気の毒>とは何か?
<いじらしい>の<いじ>は<意地っ張り>の<意地>か?そうすると<いじらしい>がなぜ同情をあらわすのか?
あわれ(だ)
<あわれ、あわれむ>は<もののあわれ>というのが日本人の(美学)コンセプトとして古文学習ででてくる。これも意味の派生がある。だがこれはミステリーというほどではない。
いとおしい <- いとおしむ <-おしむ
<それは惜(お)しいことをした。>は同情表現だろう。 <惜しむ>は<xx を惜しむ>で他動詞。<惜しい>は形容詞だ。
わたしは<xx を>いとおしく思う(感じる)。
はいいが
わたしは<xx を>おしく思う(感じる)。
はダメだ。これは<わたしは<xx を>残念に思う> の意になる。
<おもいやり>は<思いを遣(や)る>でいい言葉だと思うが、使われすぎているためか、あるいは日本人の美点にされているためか、<しいられた思いやり>もあるようだ。<思いやりの心をもて>とか、一歩譲って<少しは思いやりの心をもったら(どうか、どうなんだ)>というのはよく聞く。
sptt
Friday, January 4, 2019
<欲>と<理>のやまとことば
<欲>も<理>も漢語だ。二語であらわせば<欲望>と<理性>。<欲望>と<理性>の対比や関係は、少し突き詰めて考えると哲学や心理学となり、分析はそれこそゴマンとある。欲と理の大和言葉は何か。日本は哲学や心理学を西洋や中国のように目に見えて発展はさせなかったが、<欲>も<理>に対する考え方は言葉、特に大和言葉に反映されているはずだ。
4,5年前のポスト<よこしまな、筋を通す>というのを書いた。 <すじ、筋>、<筋を通す>は理に近い。<欲>の方を考えてみる。<欲>はやまとことば読みでは<欲(ほっ)す(る)>、<欲し(い)>、<欲しがる>。<いかまほし>が<行きたい>となるようで<まほし>(<し>は古語の形容詞語尾)というのもある。<ほし>、<ほしい>は形容詞だが、動詞の<欲(ほっ)す(る)>より格段頻繁に使われる。<たい>(古語は<たし>)は<欲>をあらわす助動詞といえる。<よく、欲>は<欲張(よくば)り>ではと<よく>がやまとことばのように聞こえる、見えるが、これは
漢語の<欲、北京語<yu>、広東語<yuk (*)> + はる(張る)
(*)広東語は古い時代のある地域の発音を残しているといわれる。
で漢日の混成語だ。<欲張り>に似た構成で<意地(いじ)っ張り>というのがある。別のところで書いているが、この<意地>は漢語かやまとことばか決めかねるところがある。(sptt Notes on Grammar ”<いじめ>と<いじ>について - 文法解析 ”)。<き、気>が漢語かやまとことばかよくわからいのに似ている(sptt Notes on Grammar <気は心>)。
拡大解釈すると
欲張り = 意地っ張り
になる。<いじ>(以下あえてできるだけ漢字を使わないで進める)には
いじっ張り
以外に
いじが悪(わる)い、いじわる
いじがきたない
が日常よく使われる。 一方
いじは悪(わる)い。
いじはきたない。
いじがいい(よい)。
いじはきれい、清(きよ)い。
いじはいい(よい)。
いじはきれい、清(きよ)い。
とは言わない。これからすると<いじ>自体は中立ではなく、少しばかり悪い、否定的な意味を背負っているようだ。<欲>の方は、<欲>自体に基本的に倫理的に悪い、否定的な意味がある。
欲が悪(わる)い。
欲がきたない。
とはいわないが(あたりまえのことで、変な重複表現になる)
欲は悪(わる)い。
欲はきたない。
なら意味が通る。<欲>は<悪く、きたない>のだ。
欲が多い(大きい)、欲が少ない(小さい)
は意味があるが
いじが多い(大きい)、いじが少ない(小さい)
は聞かない。したがって<いじ>は計(はか)れないしろものなのか?
以上から<いじ=欲>でないことは明らかだ。似て非なるものでもないといえる。<いじ>はいったい何か? <いじを張る>はあるが<いじを通す>は<すじを通す>ほどは聞かないし<すじを通す>ほどいい意味はない。
<すじ>は<理>と言え、<すじを通す>には<無理がない>。一方<いじを張る>はもちろん<いじを通す>も無理が感じられる。これは<いじ>と<すじ>の大きな違いだ。
sptt