Sunday, January 6, 2019

謝罪のやまとことば


<同情のやまとことば>につづいて<謝罪のやまとことば>に挑戦。謝罪は<あやまること>、動詞とみれば<あやまる>だ。(中国語では基本的に名詞と動詞の区別がない。)<わたしはあやまります>でよさそうだが、ほとんど聞かない。ダメではないが、場合にによりけり。これは助詞の<は>のなせるわざで、場面は違うが<わたしがあやまります>はそのままで問題ない。この違いは最後にとりあげる。<わたしは(が)あやまります>は謝罪のやまとことばそのものではない。謝罪の言葉は

すみません。 すまない。
もしわけありません。 もうしわけない。
ごめんなさい。 ごめん。
あしからず。
おわびします。 おわびもうしあげます。
いたみいる。 (ほとんど聞かないので、ほぼ死語か。手もと辞書では感謝のことばでもある。)

<おわびします>を除くと、いずれも、もってまっわた言い方で、たとえば英語に直訳した場合には何んことだかわからないだろう。

もう少しシリアスになると

(わたしが)わるうございました。
(わたしが)あやまちをおかしました。
(わたしが)まちがいました。
とんでもないことをいたしました。
いたらぬことをいたしました。


すみません。 すまない。

これは<あやまって済むものではないことはわかっていますが . . . .>

の略だ。


もしわけありません。 もうしわけない。

これは<(誤(あやま)りの)申し訳、申しひらき、(いいわけ、説明)はありません>。

の略だ。<誤(あやま)り><誤り>と謝罪(あやまること)の<謝(あやま)る>、その連用形の体言(名詞)用法の<謝(あやま)り>は関連があろう。一方中国語辞典にあたると、謝罪(say sorry)と謝礼(thank you)の両方に<謝>の字がある。

英語では Excuse me. と言う表現がある。I am sorry. ほどではないが、場合によっては軽い謝罪の言葉になる。<軽い>のはたぶん an excuse に<いいわけ>の意があるためだろう。Excuse me. は<いいわけがない>ではなく<いいわけさせてくれ>に近い。一方。I am sorry. のほうはもとの意味は<わたしはかなしい、残念だ>。人が亡くなったときにはI am sorry. と言う。もちろんあやまっているわけではなく、<わたしはかなしい、残念だ>の意だ。


ごめんなさい。 ごめん。

<ごめん>は御免で、この御免の<免>は<免(めん)じる=免ずる、免+する>で<許すこと>だ。<ごめん>だけなら<御免(をおねがいします)>、<お許(ゆる)し願います>で意味が通じる。<御免なさい>の<なさい>は<xx しなさい>とすると<御免しなさい>でおかしなことになる。江戸弁では<御免なっすて>といっていたようなので、これだと<<御免なさってください>となるようなので、これがなまったものだろう。御免はやっかいで、

それでは、これで御免。
それは御免こうむる。

という言い方がある。派生用法だろう。ここでは詮索しない。


あしからず。

これは古語の形容詞<悪(あ)し>(現代語では<悪(わる)い>)の未然形<あしから>+ ず(否定)だろう。<ず>は未然形につく。

あしからば 未然形 - もし(具合が)悪ければ
あしかれば 已然形 - (具合が)悪いので

<あしからず>は文字通りでは<わるくない>、<わるくはない>で、これではあやまりの言葉にならない。<悪く思わないでくれ>、<悪くとらないでくれ>といった意味か?


おわびします。 

<わびる>は現代語では<あやまる>の意になっているが、もと(古語)は<わぶ>>この<わぶ>は<わびしい>と関連があろう。<わびしい>と<わびる>はどういう関係か?<わび、さび>というのもある。<わびしい>は<さびしい>(これまた<さび>のもとだ)にちかい。心理的には、意図はないが悪いことをしてしまったり、まちがったりして人に迷惑をかけた場合、特に相手が好意的である場合<心がさびしくなる、わびしくなる、すさぶ>。

<わびる>、<あやまる>は謝罪を示す言葉ではなく<謝罪する>そのものの意味のやまとことばだ。

<わたしはあやまります>でよさそうだが、ほとんど聞かない。報告調で誠意が伝わらない気(け)がある。これは助詞の<は>のなせるわざ。場面は違うが<わたしあやまります>は問題ない。これも<が>のなせるわざで、第三者的、客観的な報告調の<は>と違って<が>は当事者の直接的な発話者の発話なのだ。これは<わたしはおわびします>、<わたしおわびします>とほぼ同じだ。だが問題はそう簡単ではない。<は>と<が>の違いがここにある。<あやまる>を例にとってもう少し調べてみる。

君があやまらないが、私があやまる。 (ダメ)
君があやまらないが、私はあやまる。 (ダメ)
君はあやまらないが、私があやまる。 (ダメ)
君はあやまらないが、私はあやまる。 (OK)

君があやまらいなら、私があやまる。 (OK)
君があやまらいなら、私はあやまる。(ダメ)
君はあやまらいなら、私があやまる。 (ダメ)
君はあやまらいなら、私はあやまる。 (ダメ)

君があやまらいので(から)、私があやまる。 (OK)
君があやまらいので(から)、私はあやまる。(ダメ)
君はあやまらいので(から)、私はあやまる。 (ダメ)
君はあやまらいので(から)、私はあやまる。 (ダメ)

君があやまらなくても、私があやまる。 (ダメ)
君があやまらなくても、私はあやまる。(OK)
君はあやまらなくても、私があやまる。 (OK)
君はあやまらなくても、私はあやまる。 (OK)

君があやまらない。私があやまる。 (ダメ)君があやまらない。私はあやまる。(ダメ)
君はあやまらない。私があやまる。 (ほぼOK)
君はあやまらない。私はあやまる。 (OK)

場合によりけり、人によりけりだが、一般的にはこのようだろう。

<は>と<が>の論議はゴマンとあるが、この比較をやっているうちにある発見をしたので、別の機会に別のポストを書く予定。


いたみいる。

手もと辞書では謝罪のことば、でもあり感謝のことばでもある。  もちろん<(心が)痛む>がもとだ。この<心が痛む>は、<詫びる>に似て

心理的には、意図はないが悪いことをしてしまったり、まちがったりして人に迷惑をかけた場合、特に相手が好意的である場合<心が痛む>(苦痛)となり、この<心の痛み、苦痛>があることを言葉で伝えることによる謝罪の意だ。感謝の意はどこからくるのか?


sptt


No comments:

Post a Comment