Friday, May 28, 2021

よじのぼる

 

<よじのぼる>はあまり使わないが、<自分自身のからだをよじって、よじりながら、のぼる>という意味だ。つまりは<よじる>と<のぼる>の複合動詞。具体的には

太郎は木をよじのぼる。 

太郎は高い壁のそばにある木をよじのぼって壁を越えて中に入った。

これは、壁をのぼるが難しいかfらだ。 だが高い壁をのぼっていければ、木をよじのぼる必要はない。だが壁をのぼれるのは虫や、ヤモリ、スパイダーマンの類だ。植物ではツタが壁を<這(は)いのぼって>といく。<這(は)いのぼって>いるツタをよく見ると吸盤があり、壁の表面に吸い付いてずり落ちないない仕組みになっている。ヤモリ、スパイダーマンも吸盤を使っているようで、これだと表面がつるつしたガラスの壁ものぼれる。虫は、よく観察したことはないが、吸盤方式でないとガラスの壁はのぼれないのがいるだろう。普通壁は<よじのぼる>ではなく<這いのぼる>だろうが、あまり聞かない。これは人が壁を<這いのぼれない>からだろうか。<這いあがる>は比喩的、慣用的に使われる。それほど高くない壁で身軽であれば、人は壁を<駆(か)けのぼって、あがって>越えることができるかもしれない。<よじのぼる>はなんでもない動詞のようだが、これは<よじる>と<のぼる>を簡単に並べて複合動詞ができる日本語の大きな特徴による。

さて、なぜこのような重箱の隅をつつくような話をしているかというと、イタリア語の arrampicare の再帰形の arrampicarsi  (arrampicatosi) という語に出くわしたからだ。どこで出くわしたかというと、イタリア語の童話<ピノキオ(の冒険)>だ。イタリア語の arrampicarsi  の英訳は to climb という一般的な動詞を使っている。イタリア語と英語を並べると、

http://ercoleguidi.altervista.org/pinocchio/

第7章

Geppetto, credendo che tutti questi piagnistei fossero un'altra monelleria del burattino, pensò bene di farla finita, e arrampicatosi su per il muro, entrò in casa dalla finestra.

Geppetto, thinking that all these wailing was only another of the marionette's tricks, decided to put an end to it, and climbing up the wall he went in through the window. 


ネット辞書で調べてみると

Treccani

rampicare
v. intr. [der. di rampa] (io ràmpico, tu ràmpichi, ecc.; aus. essere). – Lo stesso che arrampicarsi (rispetto a cui è assai meno com.):

これはrampicare はあまり使われず、arrampicarsi に置き換えられている、ということ。
ramicare は自動詞で<登る>という意味がある。この rampicare に接頭辞の<a->をつけたのが
arrampicare で他動詞になって<登らせる>の意になるのだが(接頭辞の<a->の働き)、これも使われず、実際に使われるのは再帰形の rampiccarsi なのだ。再帰形なので、意味は<自分自身を登らせる>で、さらには自動詞の<登る>の意に逆戻りする。

Cambridge

arrampicarsi
 
verb (reflexive) 
  /arːampi’karsi/
(salire)
to climb (up)
Il gatto si è arrampicato sull’albero. The cat climbed up the tree.
L’edera si arrampica al muro.  The ivy climbed up the wall.

例文は実際的な使われ方だろう。使われるケースは限られるだろう。

Collins

to climb (up)
arrampicarsi sul tetto    to climb (up) onto the roof
arrampicarsi sugli specchi o sui vetri (figurative)   to clutch at straws

二番目は慣用表現。英語のto clutch at straws は日本語で<わらをもつかむ>という言い方があり、この英語表現由来か。イタリア語を参考にすると意味が少しずれているようだ。あるいは arrampicarsi sugli specchi o sui vetri<わらをもつかむ>という意味があるのか?


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Thursday, May 27, 2021

顔を出す

 

<顔を出す>は慣用表現で<(すでに知っている)人に会う、会いに行く、来る>といった意味だ。<顔>を使った慣用表現は少なくない。

すごみを効かせて、

ちょっと顔を出してもらおうじゃないか。

といわれると、行くのがためらわれる。

顔を見せる

(ウソを言っているのが)顔に出る、(不満を、怒りを)顔に出す
ウソというのが顔にかいてある。

小さな子供だと本当だと思うだろう。<真顔(まがお)になる>という言い方があるので、顔はふだんはウソをかいているのことになるのか。さらには、<ウソでかためた顔>もありそうだが、こわれやすいか?

顔を合わせる、合わせる顔がない(出す顔をがない、見せる顔がない、はあまり聞かない)、顔合わせ。顔見せ。

その他

顔から火が出る
顔に泥を塗る (顔に墨を塗る)
したり顔
顔見知り
顔を貸してもらう
顔が丸つぶれ

英語では

face to face (これはそのまま日本語になっている) 日本語は<顔をつきあわせて>か?
to lose face

というのがある。to lose face は慣用表現だ。

<顔>意外に<つら(面)>というのがある。

つらを汚(よご)す、つら汚し
つらの皮が厚い
こんなバカなまねをし奴(やつ)のつらが見たい 

<面>は音読みの<めん>も使われる。<お面>はまた別だ。

面と向かって
面食い

さらには

<おもて(面)>をあげる

というのもある。

 

冒頭の<顔を出す>にもどると、<顔を見せる>、<姿を見せる>も同じような意味だが<姿を出す> という言い方はない。また<顔を出す>はもとの意味で<窓から顔出す>と言うが<窓から顔を見せる、姿を出す、姿を見せる>とはあまり言わない。

さて、このような重箱の隅をつつくような話をしているかというと、イタリア語の affacciare の再帰形の affacciarsi という語に出くわしたからだ。どこで出くわしたかというと、イタリア語の童話<ピノキオ(の冒険)>だ。イタリア語の affacciarsi の英訳は to come to、to appear という一般的な動詞を使っている。イタリア語と英語を並べると、

http://ercoleguidi.altervista.org/pinocchio/

第6章

Allora Pinocchio, preso dalla disperazione e dalla fame, si attaccò al campanello d'una casa, e cominciò a sonare a distesa, dicendo dentro di sé:

"Qualcuno si affaccerà".

Difatti si affacciò un vecchino, col berretto da notte in capo, il quale gridò tutto stizzito:

"Che cosa volete a quest'ora?"
 

At this point Pinocchio, seized by desperation and hunger, laid hold of the bell of a house and began to ring it without interruption, saying to himself:

"Someone will come to the window."

In fact there appeared a little old man, with a nightcap on his head, who called down angrily:

"What do you want at this hour?"

 

調べてみると、affacciarsi の文法的分解はややこしい。affacciarsi の<faccia>は顔という意味で、英語の face だ。これに接頭辞の<a->がつき、動詞語尾の<-are>がついたもの。原形は affacciare だが、このままではほとんど使われない。affacciare は他動詞。接頭語の<a->は名詞や形容詞を他動詞化)する働きがある。無理に訳せば<顔を出させる、見せる>。これだと他人の顔も対象になる。再帰の代代名詞 si は<自分自身を>の意なので、affacciarsi は<自分自身を、顔を出させる、見せる>で結果的には、他人のではなく自分自身の顔を出す、見せる>。さらには英語のように to appear の意になる。直訳すれば、イタリア語では face が動詞のなかに組み込まれてしまっているが、英語では再帰語法はほとんど使われないので、to show one's own face になる。こう考えると affacciarsi はかなりの省力化動詞だ。

イタリア語では faccia のほかに viso というのがあり、使い分けられているようだ。


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Wednesday, May 26, 2021

見るま、またたくま

 

<見るまに>は短い時間と思うが<またたくまに>はもっと短い時間のことだ。

見る間にあたりが暗くなってきた。

<またたくま>にあたりが暗くなってきた。 

はダメだろう。<見るまに>は<みるみる>でもよさそうで

みるみるあたりが暗くなってきた。  

<みるみる>はおもしろい言い方で、<みるみる>に<見る>の意識はほとんどないが、<みるみる>は<見て、またすぐ見る>の意だろう。<見て、またすぐ見る>は<またたく>をゆっくりするようなことだ。

さて、このような重箱の隅をつつくような話をしているかというと、イタリア語の dal vedere al non vedere という言い方に出くわしたからだ。どこで出くわしたかというと、イタリア語の童話<ピノキオ(の冒険)>だ。その英訳は意外というか、苦心の作でおもしろい。イタリア語と英語を並べると、

http://ercoleguidi.altervista.org/pinocchio/

第5章

Ma l'appetito nei ragazzi cammina presto, e di fatti, dopo pochi minuti, l'appetito diventò fame, e la fame, dal vedere al non vedere, si convertì in una fame da lupi, in una fame da tagliarsi col coltello.

But appetite with boys walks fast, and in fact, after a few minutes, the appetite became hunger, and the hunger, in a twinkling, became ravenous; a hunger one could slice with a knife.

dal vedere al non vedere は直訳すれば<見るから見ないへ(の間に)>で<またたく(まぶたをたたく)>に近い。一方英語が in a twinkling で twinkling はtwinkle twinkle little star という歌があるので、星がチラチラするの<チラするあいだ>で、これもきわめて短い時間で、これも<またたく>に近い。そのほかにも英訳は苦心のあとがみられ、

si convertì in una fame da lupi 

 が

became ravenous

 になっている。 <オオカミのように腹をへらして>という表現は英語にないのだろう。最後の

una fame da tagliarsi col coltello.

a hunger one could slice with a knife.

は多分<ナイフで切られるようなひどい<腹のへり方>という意味だろう。

ところで、英語の hunger とイタリア語の fame は名詞で日本語では<腹がへっていること>、<おなかがすいていること>の意味だが長すぎて、一語表現の簡潔さからはほど遠い。<飢(う)え>という言葉があるが、日本語の<飢え>は文章語で、口語ではいわば<腹へり>だが使うことはない。おそらくこれは<飢(う)え>が中国語の<餓(現代北京語ではあいまい母音の e (エではなく u ウに近い)>由来で、やまとことばではないためだろう。


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Tuesday, May 25, 2021

見とれる、みせられる、見入る

 

<見とれる>を<見取れる>と書くのはまちがい。 <見とれる>は<見て><取れる>ではない。問題は<とれる>で、これが何だかよくわからない。調べてみると、複雑で<見とれる>は<見とろける>という意味なのだ。意味が先にくれば<美人に見とれる>がなるほど、とわかる。

<とろける>は<とける>の関連語だが、砂糖が水(お湯)にとけてもすぐにな<とろけ>ない。<水あめ>をどういうふうにつくるのか知らないが、<水あめ>はねばねばしていて、とろけた状態とは言い難い。<水あめ>をお湯で適当にとけば<とろけた>状態になりそうだ。 

一般には<かたいモノ>が<とける>と<とろけた>状態 になる。かたいといっても石のようなものはダメだ。肉を煮ると柔らかくなるが、<とろ>火で煮るのがよさそうだ。かたい鉄も高熱でとろけた状態になる。石も超高熱でとろけた状態になるか。石はくだきつぶす、またはすりつぶせそうで、粉にしてから水かお湯でかきまぜればとろけた状態になるか。鉄や石はとろけた状態にしても食べられないが、かたい穀物は熱でとろけた状態にしてから食ることが少なくない。

<とろける>は自動詞で、他動詞は<とろかす>、<とろけさす>。 <見とれる>のもと<見とろける>は<見て、かたい自分がやわらかくなるような、とけていくような>様子の形容だ。とろけると外部からの力で変形し、固定した形がなくなる。つまりは、固定した形の自分がなくなるのだ。

似たようで、ややこしい言葉に

みいる: 見入る - 魅入る
みせられる: 見せられる - 魅せられる

がある。これもしらべてみたら、もとは、ほとんど使わない<みする>。<み>はやまとことばではなく、魅力の<魅(み)>で、この<魅(み)>に<する>がついた<魅(み)する>。<魅(み)する>の受身形が<魅せられる>。

<魅(み)する>は漢字に意味を借用した外国語の翻訳だろう。というのは他動詞だからだ。英語で言えば

to charm
to enchant

でこれを受身形にすると

to  be charmed
to be enchanted

となる。to  be charmed はあまり聞かない、見ないが、形容詞の charming は日本語にもなっており、これが<魅(み)する>に関連しているか。だが to enchant = 魅(み)する、がぴったりだ。

さて、このような重箱の隅をつつくような話をしているかというと、英語の entranced という語に出くわしたからだ。どこで出くわしたかというと、イタリア語の童話<ピノキオ(の冒険)>の英訳だ。イタリア語と英語を並べると、

http://ercoleguidi.altervista.org/pinocchio/

第3章

"Piglialo! piglialo!" urlava Geppetto; ma la gente che era per la via, vedendo questo burattino di legno, che correva come un barbero, si fermava incantata a guardarlo, e rideva, rideva e rideva, da non poterselo figurare.

"Catch him! Catch him!" shouted Geppetto; but the people in the street, seeing this wooden marionette running like a barbero, stood entranced to stare, and laughed, laughed and laughed as no one could ever imagine.

第4章

Il povero burattino rimase lì, come incantato, cogli occhi fissi, colla bocca aperta e coi gusci dell'uovo in mano.

The poor marionette stood there, as if entranced, his eyes fixed, his mouth agape and the egg-shell in his hand

原文のイタリア語の方は動詞 incantare の過去分詞 incantato で、これなら英語の方も enchanted でよさそうだが、なぜか entranced が使われている。

これは名詞の<入り口>の entrance と少しは関係があるかもしれないが、動詞 to entrance の過去分詞形だ。動詞 to entrance の意味は大体 to enchant と同じだが、 entranced だと

みいる: 見入る - 魅入る

と関係が出てくりかもしれない。前後の状況から、entranced の状況では少しの間だが動きがとまっている。このあたりにわざわざentranced という語を使った理由があるのか知れない。

日本語の方も<魅入る>はほとんど聞かず使わずで、使われるのは受け身形の<魅入られる>、<魅入られて>だ。また意味からすると<見入る>、<見入られる>でいい、というか本来これだろう。


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Monday, May 24, 2021

でんぐりがえる


<でんぐりがえる>を言葉で説明するのは簡単ではないが、子供も大人も<でんぐりがえり>、<でんぐりがえし>(手もとの辞書ではこれが見出し語になっている)は知っている。

英語ではどういうかというと somersault が名詞形で、<でんぐりがえる>という動作を言う場合は

to turn a somersault

とか

to make a  somersault

というようだが、わたしは聞いたことも使ったこともない。発音はサマーソルトで通じるだろう。言葉で通じなければ身をもって示せばいい。somersault の語源は dictionary.com では

1520–30; <Middle French sombresaut, alteration of sobresault; compare Old Provençal sobre over (<Latin super), saut a leap (<Latin saltus)

とあり、フランス語由来のようで,頭のsome は英語の some ではない。

さて<でんぐりがえる>はスポーツをのぞけば子供の遊びと言える。地上で<でんぐりがえる>のは、少し練習すれば、さほど難しくはない。これを空中でやるのは<とんぼがえり>と言うようで、これは練習と勇気がいるが、身軽という条件で、これまたさほど難しいことではない。<トンボを切る>という言い方がある。テレビなどでは忍者がこれをする。

ところでなぜ<でんぐりがえる>を取り上げたかというと、イタリアの子供向け童話に<ピノキオ(の冒険>>というのがあり、実際にフルで読んだ人は多くはないと思うが、始めの部分(第2章)にピノキオがダンスやフェンシングとともに<でんぐりがえり>ができるようにする、という話がある。イタリア語で<でんぐりがえる>、正確には<<でんぐりがえりをする>だが、これを

fare i salti mortali 

と言っている。何度もできるように複数になっている。salto (単数)は英語の sault と同根で、jump (名詞形)。上の語源説明で<saut a leap (<Latin saltus)>とある。イタリア語では似たような語に salute というのがあり、こちらは<健康>というい意味だ。問題は形容詞の mortale (単数名詞につく場合)で<死の>という意味だ。始めは何のことだかわからなかったが、<死ぬほどのジャンプ>、<決死のジャンプ>で意味がとおる。

<でんぐりがえる>にもどると、

世の中をひっくりかえす

は場合によっては革命のことと言えるが

世の中をでんぐりがえす(でんぐりがえさす)

では大きな騒ぎはおこるが、元に戻ってしまう。

関連の言葉に<ころがる>がある。純やまとことばで<ころがり>は物理用語か工学用語でよく使われる。体を横にしてころがるのは<でんぐりがえる>ではなく<ころがる>で、<ころがる>は基本動詞<ころがる>は<転がる>と書くが<でんぐりがえる>も回転運動だ。<寝ころがる>、は正確には回転運動ではなさそうだが<ごろごろする>は回転運動気味だ。

<ころげまわる>は<ころがり>ながら<まわる>でかなり複雑な動きだ。

<くるくるまわる> 、<ぐるぐるまわる>、<くる<、<ぐる>が擬態語だ。<でんぐりがえる>の<でんぐり>は<でんぐる>の連用形だと思うが、<ぐる>は擬態語に近い。<でん>は<でんでんむし>の<でん>と関係がありそうだ。<でんでんむし>は<出む出む、虫>が語源らしく、<でんぐる>は<出てぐるりとまわる>、<頭を前に出してぐるりとまわる>動作に近い。

 

sptt

 

 

 

 

 

 

Definition of salto mortale

deadly jump : full somersault : fateful or dangerous decision

somersault

Origin of somersaultde

1520–30; <Middle French sombresaut, alteration of sobresault; compare Old Provençal sobre over (<Latin super), saut a leap (<Latin saltus)

 

Wednesday, May 12, 2021

そんじょそこいら、案の定

 

<そんじょそこいら>と<案の定>(<案の上>ではない)は何の関係もなさそうだ。<そんじょそこいら>はおそらく東京下町方言で歯切れがいい。使うのは死語のなりつつありヤグシ(香具師)だ。一方<案の定>は<やはり>の意味に近く、むしろ語源がよくわからない<やはり>の理解に役立ちそう。

さて<そんじょそこいら>と<案の定>の関係だが、<案の定>を平仮名で書いて並べると

そんじょそこいら
あんのじょう

これでもまだよくわからない。<そんじょそこいら>を手もとの辞書で調べてみると

そんじょそこいら <- そんじょうそこいら <- そのじょうそこいら

<そこいら>は<そこら> で<そんじょうそこら>とも言う。<そこら>は<ここら><そこら>の組がある。<あこら><どこら>は聞かないので<こそあど>にならない。相当するには<あちら>、<どこいら>だろう。<どこら>はほとんど聞かないが、<どこいら>は聞くし使う。

ここら(ここいら)、そこら(そこいら)、あちら、どこいら(どこら)

で不完全だが<こそあど>になる。

さて辞書の解説は<そのじょう>は<その定(じょう)>由来と書いてある。しかし<その定(じょう)そこいら>がどうして<そんじょそこいら>になるかだ。これは辞書の解説にない。ここで<案の定>が少し助けになる。

<案の定><やはり>の意味は

いろいろあったが、結局のところ予想、考えていた(こと)、<xxのはず>どおりになった

ような場合を示す(暗示する)ときに使われる副詞(句)といえる。正しかった予想、考えていた(こと)、<xxのはず>がある種の定(さだめ)、そうなること(そういう結果になること)が決まっていた、と考える考え方がある。運命説か。

<その定(じょう)>にこれをあてはめると、<そのように定められている>、<おきまりの>で、さらに<普通の>、<どこにでもあるような>となり<その定(じょう)そこいら>で意味が通じる。

 

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