Saturday, April 17, 2021

<ことわり(理)>と<お断り>

 

<理>の一字で<ことわり>と読める人、読む人はごくまれだろう。<これ、ものごとの理なり>と書いてあれば、<これ、ものごとのリなり>でもいいが<これ、ものごとのことわりなり>のほうが語呂がいい。

やまとことばの大きな特徴のことばに<わかる>がある。<わかる>は<分ける>の関連語。<わかる>は<ものごとを分けて考えれば分かる>で、<ものごとを分けて考えること>、分析的な考え方の重要性を言葉が示している。

一方<理、ことわり>は<こと割>、<ことを割る>そして<ことを割って考える>に通じそうだが、そうはならず<断(ことわ)る>に通じていまう。<断(ことわ)る>には関連はあるが違った主に二つの意味がある。

1)(多くは相手に都合の悪いと思われること )を前もって伝えるておくこと。
2)申し入れ、願いごとを拒絶すること。

<断る>と書いてしまうとわからなくなるが、<ことを割る>がこのような二つの意味を持つようになったのは謎だ。また1)と2)どちらが元(もと)で、どちらが派生か?も謎だ。

ネットの語源関連辞典 (由来・語源辞典 http://yain.jp/i/%E6%96%AD%E3%82%8B ほか)では


断るの語源・名前の由来について、語源は「こと(事)」+「わる(割る)」で、物事の是非・優劣などを分けて判断する、きちんと説明する意味で使われていた。

それがあらかじめ理とつくして相手に知らせておく意や、事情を話して辞退する意になった。

となっているが、納得できる、あるいは<目からうろこ>の説明ではない。 <理とつくして>は<理つくして>だろう。だがこれからすると<「こと(事)」+「わる(割る)」で、物事の是非・優劣などを分けて判断する、きちんと説明する>がなぜかよくわからないが <あらかじめ理をつくして相手に知らせておく意や、事情を話して辞退する意になった>とあるので<ことわる(理)>と<断(ことわ)る>は関連があることになるが、疑問が残る。<語源は「こと(事)」+「わる(割る)」で、物事の是非・優劣などを分けて判断する、きちんと説明する意味で使われていた。>は本当だろうか。これまた疑問だ。


「こと(事)」+「わる(割る)」で、物事の是非・優劣などを分けて判断する、きちんと説明する意味

 ”

は<分けて>で<割って>ではない。<分ける>と<割る>は同じではない。<モノ>を<割る>と壊れる。モノを<割って、壊して>見ると中身を調べることができる。これは<分ける>でもいいが、<割る>の場合は破壊がともない元にもどらないのが基本だ。<分ける>は<分けて>見て、調べたあと、もとに戻すことができる可能性がある。あるいはもとに戻すことを前提として<わける>と考えることもでききる。

また<もの割る>ではなく<こと割る>だ。 <分ける>の方はことさら<もの分ける>でも<こと分ける>でもないが<割る>のほうはことさら<こと割る>だ。<もの割る>ではなく<こと割る>はかなり高度化、抽象化されたモノゴトの見方、表現で、むかしの日本人がやまとことばで考えていた時代に<ことを割る>ような高度化、抽象化されたモノゴトの見方をしていただろうか。おそらく漢語が入ってきてからの<やまとことば>だろう。

漢語の<理>は理由の理だが、理の一語では理由にならないだろう。<理屈>は漢語のようだが、日本版の漢語だ。これは下記の中国人向け日本語学習ネットの<理屈>の説明を見ればわかる。

https://www.hujiang.com/jpciku/je79086e5b188/
 
理屈是什么意思及读法
【名】
(1)理论lǐlùn。道理dàoli。理lǐ。理由lǐyóu。(物事のすじみち。道理。ことわり。)
理屈に合っている。/合乎道理。
双方ともに理屈がある。/双方都有理。
あの男に理屈を言って聞かせても無駄だ。/向他讲道理也白搭báidā。
理屈は結構だが実行はむずかしい。/理论满好,实行困难。
そんな理屈はない。/没有那种道理;岂有此理qǐ yǒu cǐ lǐ。
物事は理屈どおりにはいかない。/事物不能总照理走。
(2)歪理wāilǐ。诡辩。借口jièkǒu。(捏造niēzào的)理由lǐyóu。(こじつけの理由。現実を無視した条理。また、それを言い張ること。)
彼は何とか理屈をつけては学校を休もうとする。/他千方百计qiān fāng bǎi jì地找借口想不上学。
理屈をこねまわして自分の主張を通す。/捏造种种理由坚持自己主张。
理屈を言えばきりがない。/歪理说起来没有完。
そりゃ何とでも理屈はつくさ。/要找借口有的是!
理屈と膏薬はどこへでも付く。/借口随时都可找,膏药到处都可贴

 ”

この説明はたいへん参考になる。

(1)理论lǐlùn。道理dàoli。理lǐ。理由lǐyóu。(物事のすじみち。道理。ことわり。)

ここにやまとことばの<すじみち>、<ことわり>がでてくる。 道理は純漢語で日本版漢語ではない。道理は現代中国でもよく使わてるが(よく聞くのは<有道理>)、意味に日本語の道理とは少しズレがあるが、<ものごとの道理>はほぼ同じような意味だ。日本語では

道理で(おかしいと思った)

という慣用的な言い方がある。(1)のなかに<理由>があるのに注目したい。これは日本版漢語<理屈>の説明だが、<理论lǐlùn。道理dàoli。理lǐ。理由lǐyóu>なので、中国語では<理lǐ = 理由lǐyóu>としても大きな間違いではないだろう。ややこしいがここで<理lǐ>は<理lǐ =理论lǐlùn。道理dàoli>。さらにこれを日本語に流用すると、<ことわり>は<理由>、そしてやまとことばの<わけ>になる。<わけ>は<分ける>で、これがややこしい話をますますややこしくする。

日本版漢語<理屈>の説明で大いに参考になるのは(2)だ。

(2)歪理wāilǐ。诡辩。借口jièkǒu。(捏造niēzào的)理由lǐyóu。(こじつけの理由。現実を無視した条理。また、それを言い張ること。)

なぜかここでまた<理由>がでてくる。 (2)の解説は日本版漢語<理屈>の否定的な面の意味だ。いわば<へ理屈>の解説だ。私の見たところでは中国ではこの種の言葉が発達している。

繰り返しになるが、強調したいのは

<ことわり>は<理由>、<ことわり>は<わけ>になる。<わけ>は<分ける>で、これがややこしい話をますますややこくする。

の箇所。算数も<割り算>は<分け算>ともいえる。10を2で割ると5になる。言いかえると10個のモノを2個のグループで(2個ごとに)分けると5個の2個のグループになる。(末尾参照)

念のため手もとの辞書にあったてみたところ、<ことわり>の解説は


是非を判断する意の雅語の動詞<ことわる>の名詞形。ことわり(事分)の意。

とある。これでは<事割り>とは<ことわり(事分)>のこととなり、わけがよくわからない。話はやはりややこしいのだ。文献をたどれば<是非を判断する意の雅語の動詞<ことわる>>があるのだろうが、<ことわる>はやまとことばだが意味内容<是非を判断する意>は純やまとことばとは思えない。これは中国文化の影響がある。話はやはりややこしいのだ。この説明よりは、上記の中国語版日本語学習ネットの<理屈>の説明の1)、繰り返しになるが

(1)理论lǐlùn。道理dàoli。理lǐ。理由lǐyóu。(物事のすじみち。道理。ことわり。)

が大いに参考になる。これからすると

ことわり = 物事のすじみち、道理

となる。 道理はやまとことばの<わけ>に通じる。<わけ>は使い込まれた語でいろいろな慣用句がある。

わけがわからない  <理由、物事のすじみち>がわからない。
わけない   むずかしいことはない。むずかしいわけ(理由)はない。簡単だ。
わけあり   目に見えない、かくされた理由(事情)がある。

そんなことするわけない。  そんなことする(理由、道理、すじ、いわれ、はず)はない。

いいわけ   口実(こうじつ)。これは中国語での言い換えのようだが、本場の中国語は上にある<借口jièkǒu>だろう。<いいわけ>は順序を入れ替えたやまとことばの<わけ<理由>を言う>がもとになっている。これからすると、<わけいい>だ。<わけをいってみろ>という言い方がある。答えは口実、借口の<いいわけ>とは限らない。

わけがわからない  <理由、物事のすじみち>がわからない。

そんなこと、いいわけないだろう。  この<いいわけ>は上の<いいわけ(口実)>ではなく<よいわけ>で(イントネーションが違う)、<よい道理><よいみちすじ>の意。

以上は基本的には<理由>だが<物事のすじみち>とオーバーラップしているのがある。<理由>と<物事のすじみち>は不可分のところがあるようだ。


しない(行かない)というわけ(意味)ではない。 するのか、しないのか / 行くのか、行かないのか? かなり持って回った言い方だ。
xx というわけではない。   xx ということ(内容)ではない
これはあれとわけ(内容)が違う。
これはそこいらの安物とはわけ(内容)が違う。

以上は<理由、みちすじ>から意味がズレている。<わけ=意味、内容>というのは手もとの辞書にある<わけ>の意味の解説のひとつだが、<わけ=意味>はなんとか理解できるが、<わけ=内容>は相当の飛躍だ。

聞きわけがない  聞く耳をもたない、言ったことに従わない。<聞き分ける>由来だろうが、<聞き分からない>由来とも考えられる。   

話がだいぶ横道にそれているので、始めの話にもどる。繰り返しになるが

<断(ことわ)る>には関連はあるが違った主に二つの意味がある。

1)(多くは相手に都合の悪いと思われること )を前もって伝えるておくこと。
2)申し入れ、願いごとを拒絶すること。

<断る>と書いてしまうとわからなくなるが、<ことを割る>がこのような二つの意味を持つようになったのは謎だ。また1)と2)どちらが元(もと)で、どちらが派生か?も謎だ。

どちらが先か?はおそらく1)が先で、2)は相当込み入った1)の派生と考えらる。 

1)(多くは相手に都合の悪いと思われること )を前もって伝えるておくこと。

は<ことを割る>というよりは<ことを分ける>、<ことわけ>、<コトのわけ(理由、事情)を説明する>に近い。

2)申し入れ、願いごとを拒絶すること。

は<一般的な申し入れ、願いごと>を拒絶する、ではなく、1)の事前の了解を得る、得ておく<申し入れ、願いごと>あるいは<ことわけ>、これを受け入れないこと、受け入れないことの表明ではないだろか。こうすると、1)と2)の関連ができる。さらに、ここで<割る>がでてくるが(使われるようになった)、これは<こわす>(拒絶)の意がある。つまりは2)の<ことわる>は、<物事の是非・優劣などを分けて判断する>や<是非を判断する意の雅語の動詞<ことわる>なんかではなく、<ことわけ>を<こわす>ことの意からでてきた表現ではないか。

これが結論。


末尾

かなり前に<加減乗除のやまとことば >というポストを書いたことがある。その中で


<割る>は<分ける>でもあるが、正しくは<等しく分ける(等分)>だ。<割る>と余りが出たり、分数になったりする。一方分数を掛けることは<割る>ことになるので<掛ける>が常に<増える>ことではない。これは負数(マイナス)を足すと<引く>になるのに似ているが、<負数(マイナス)を足す>はかなり高度な数学的な技(わざ)だ。<掛ける>も見方を変えれば<同じモノ(数字)を何度も<足して>いくことなので、少なくとも<足す、引く、掛ける>は<足す>でまに合うことになる。

と書いている。 


sptt

 

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