Thursday, March 25, 2021

準備と<したく>

 

<準備>は漢語、<したく>は多分やまとことば、意味はほぼ同じだが最近は<準備>が相当優勢。チェックしてみる。

<したく>はやまとことばか?<したく>はコンピュータワープロでは<支度>、<仕度>という漢字が出て来る。<たく>だけでは<度>が出て来ない。<し>は<する>の<しない)、<して>の<し>でやまとことばだ。<たく>がやまとことばであれば<したく>はやまとことばになる。<したく>の語源少しを調べてみたが、見つからない。<し>はいいとして、謎は<たく>だ。<忖度(そんたく)>というむずかしい漢語がある。忖度の意味は準備とは違うが、関連がないことはない。だが

そんたく -> したく

の可能性はゼロに近いだろう。 <度>は<たく>と発音していたのか?


中国版WikiのBaide/Baikeでは

 ”
忖度是汉语词汇,是量度词性动词,拼音是cǔn duó,意思是推测,揣度。近义词有揣度、揣测、测度、测度。出自《诗·小雅·巧言》。

2017年12月1日,忖度一词获得了日本2017年“U-CAN新语及流行语大奖的年度大奖”。
 


<度>の発音

現代語では

北京語(拼音:dù、duó)
広東語:dou

で k や g の音がでてこない。だが昔のどこかでは duk とかなんとか言っていた可能性は否定できない。

さて漢語にとらわれなければ、これは意外と簡単で

<しておく>は <準備する>ことなので

しておく -> し-てあ-く -> これが縮まって<したく>となった。東京方言と思われるのに<xx しとく>というのがある。 

さらには

仕立(した)てる - したつ - したく

従(したが)う - (したぐ) - したく

もすこしは考えられる。


さて<準備>と<したく>では例を作って検討すると以外な事実がわかる。

食事の準備をする
食事の<したく>をする

はどちらもいい。だが

食事を準備する、はいいが

食事を<したく>する 、はどうもダメだ。

これは一般論かというと、どうもそうではなく、

戦争の準備をする

戦争の<したく>する

は、これでは戦争にまけそうだが、意味は通る。

戦争を準備する

は<戦争にそなえる、そなえて必要ことをしておく。>の意にならない。<戦争を準備する>は<戦争が起こるように何かをする>ことの意だろう。

戦争を<したく>する 、はこれまたダメのようだが、これも<戦争が起こるように何かをする>ことの意になりうる。

もう少し例をあげると

運動会の準備をする
運動会のしたくをする 

先生、関係者と生徒では意味が違う

運動会を準備をする (ほぼダメ)
運動会をしたくする (ダメ) 

地震の準備をする (場合によりOKか)
地震のしたくをする (場合によりOKか)
地震を準備をする (場合によりまれにOKか、地震研究者)
地震をしたくをする (場合によりごくまれにOKか、地震研究者)

冬の準備をする
冬のしたくをする  冬じたく
冬を準備をする (ほぼダメ)
冬をしたくする (ダメ)

以上かなりの言葉上の混乱だ。説明、解説は<やまとことばクイズ>として読者に残し、私の回答は別のところでする予定。

 

sptt

 

 

 

 

<支度>

Tuesday, March 23, 2021

せわしい、せわしない

 

今は<いそがしい>が一般に使われるが、<せわしい>、<せわしない>は消したくないやまとことばだ。<いそがしい>の<が>が耳ざわりだ。<せわしいひと>と<せわしないひと>はなぜかほぼ同じ意味だ。手もとの辞書では、<せわしない>は<せわしい>の強調と、なっている。<強調>というのはクセモノでなんでも強調ですませるのはよくない。<せわしい>、<せわしない>の場合、<せわしない>が<せわしい>の強調と感じる人はいないだろう。 以前に ” <だらしがない>の語源 ” というポストを書いたことがあるが、<だらしがない>の意味はよくわからない。おもしろいのは<ない>で、<ない>は単純な否定とは言えないのだ。<せわしない>も<ない>は手もとの辞書に従えば否定ではなく強調になる。だが<ない>は強調といっても、誰もすぐには納得しないだろう。ではどう説明したらいいのか?<だらしがない>のポストを利用すると

<せわしない>の<ない>は二重否定で、二重否定は肯定になり、しかも肯定を強調することになる。

というもの。 

<せわしい>の関連語には<せく>、<せかせる>がある。

そななにせくことはないだろう。

そんなに急ぐことはないだろう。

に置き換えられつつある。だが

そんなにせかさないで(くれ)。


そんなに急がさせないで(くれ)

 でまだ置き換えられていない。関連語では<せかせかした人>の<せかせか>がある。

 さて<せわしない>の<ない>だが、少し考えたが意外と簡単だ。

<せわしい(人)>は

ゆとりがない(人)
余裕がない(人)
ヒマがない(人)
休みがない(人)

だ。 <ゆとりがない(人)>を例にとると

ゆとりがない(人)-> ゆとりない(人)

<せわしい(人)>を<ゆとりない(人)>の意で使っていると奇妙な融合(fusion)がおこる。

 せわしい(人) + ゆとりない(人) => せわしない(人)

 あるいは

せわしい(ゆとりない)(人) => せわしない(人)

 

こういう奇妙な融合(fusion)は、言語では少なからずある。

 

sptt

Monday, March 22, 2021

カンが働く

<カンがはたらく>は、コンピュータワープロでは<感が働く>、<勘が働く>と出てくる。<カン>は第六感といえるが外部からの刺激に反応する感覚ではなく、頭の働きと思われるので漢字を使うとすれば<勘が働く>がいいだろう。だが<勘>は何だかよくわからない。以前に ” <考える>の語源 ” というポストを書いているが、その中で<考える>に関連して<勘>を調べたことがある。手もとに辞書では<考える>は ” <勘える>とも書く” というのを見つけた。<考える>の解説の最後に付け足しとして書いてある。

<カンが働く>以外では

勘にたよる
勘所(かんどころ)をおさえる
するどい勘、にぶい勘

職人は<勘にたよる >ことが多いが、すぐれた職人は<勘所(かんどころ)をおさえて>いる。

直観は<勘>に関係しているようだが<観>一語ではあまい使われない。<xxの観を呈する>というい方があるが漢文調で日常語ではない。どちらかというと視覚関連の語だ。直観と<勘>の説明は難しい。難しいが日々に生活や長い人生(英語で言えば Life の一語になる)で相当の役割をしめている。

勘を養(やしな)う

という。ということは<勘を持つ>、<勘を働かせられようになる>には時間や訓練が必要ということになる。いい職人になるには時間と訓練(修行)が必要だ。一方直観はこれらを必要としない。

勘はいいことづくめではない。<こういう複雑なことは、勘にたよることなく、コンピュータで分析してやった方がいい>などと言う。

勘づく - <感じる(感ずる)>と関連がありそうだが<感ずく>、ではなく<感づく>。

かんがみる - <勘が見る>で意味が通じないこともない。
かんじんなところ - <肝心>は当て字とも考えられる。
カンにさわる - これはどうも<癇>という見慣れない字を使うようだ。癇癪=かんしゃく。
カンの虫 - これも<癇>という見慣れない字を使うようだ

<カンが働く>に関連しては

気がつく
思いつく
考えつく

があるが、区別がありそう。<気がつく>も日常成生活では重要な働きをするが<カンが働く>はもう少し根が深いようで、<気がつく>人はけっこういるが<カンが働く>人はさほど多くないようだ。商売や事業や投資で成功する人は概して<カンが働く>人だ。<思いつく>、<考えつく>は<気がつく>や<カンが働く>とは次元が違うようで、創造に関連している。<思いつく>は<思いつきでやられてはこまる>などと否定的にも使われる。<ちょっと思いついた>はいいいが、<ちょっと考えついた>は少しおかしい。<考えつく>はある程度の時間<考え続けて>、<考えをめぐらして>からだ。

同じようなことに見えても時間をかけないで行われることと、時間をかけておこなわれることは分けて考えられる。そしてこの違いは言葉にあらわれてくる。<幸せ>(happiness)と<楽しみ、娯楽(enjoyment)>にはこの違いがある。

このポストは、関係なさそうだが、次のソクラテスのことばを考えてから始まっている。

The secret of happiness, you see, is not found in seeking more, but in developing the capacity to enjoy less.

 

sptt



 

sptt



Saturday, March 20, 2021

<考える>と<思う>

 

だいぶ前に ” <考える>の語源 ” というポストを書いているが、結論が出ていないので中間報告としている。純日本語(やまとことば)か漢語かポイントになっており、漢語ではないかの立場で話を進めているが、説得力のある説明になっていない

さてやまとことばの<思う>との対比を熟語動詞(複合動詞)で調べてみる。

考え上(あ)がる(まれ)- 思い上がる
考えあぐねる - 思いあぐねる(まれ)
考え当たる(まれ) - 思い当たる
考え起(お)こす(まれ) - 思い起こす
考え返す(まれ) - 思い返す
考えきる - 思いきる
考え込(こ)む - 思い込む
考え過ごす - 思い過ごす
考え立つ(まれ) - 思い立つ
考え出す - 思い出す
考え立つ(まれ) - 思い立つ
考えつく - 思いつく
考え尽(つ)くす - 思い尽くす(まれ)
考え続ける - 思い続ける
考え詰(つ)める(まれ) - 思い詰める
考えとどまる(まれ) - 思いとどまる
考え直(なお)す - 思い直す
考え抜く - 思い抜く(まれ)

考え残す(まれ) - 思い残す   <思い残す>は慣用表現で、 <思い残る>が正しいだろう。
考え悩む(まれ) - 思い悩む
考え始める - 思い始める

考えめぐらす(まれ) - 思いめぐらす

 (追加予定)

おもしろいのは<考えxxxx>と<思いxxxx>で同じ意味になるのがほとんどないことだ。 つまりは<考える>と<思う>はほとんどまったく違う意味を持っているということになるのか?また<思いxx>の複合動詞が多いのがめだつ。

まったく同じではないが、同じような意味になるのは

考えつく - 思いつく
考えめぐらす - 思いめぐらす

デカルトの

われ思う、ゆえにわれあり。

われ考える、ゆえにわれあり。

はほぼ同じトみていい。個人的には理屈っぽい哲学では<われ考える、ゆえにわれあり>の方がいいと思うが、なぜか<われ思う、ゆえにわれあり>が流通している。誰が訳者か知らないが、簡単なようで、実際はいろいろ考えた末の訳だろう。

したがって<考える>と<思う>は基本的に違うが、オーバーラップするところが少しありそうだ。ここでは詳しく検討しないが<思う>と少しオーバーラップするところがある<感じる>がある。こちらの方は<思う>よりもさらに感覚、感情に関連している。以前に ” 感覚動詞-<感じる>の語源 ” というポストを書いている。<感じる>はまちがいなく漢語の<感>由来の動詞だ。

<考える>、<思う>は自動詞か、他動詞かは大きな、おもしろい問題だ。文法事項なので、詳しくは別のところで検討するが、日本語では

日本語を考える。   <を>とる、<を>がとれるので他動詞。

日本語ついて考える。  自動詞

一方英語は

 to think Japanese はダメで、to consider Japanese ならいいことになっている。

to think about Japanese これはいい。そして to think は自動詞。また辞書によっては to think about を他動詞扱いにしている。

to consider Japanese の意味はほぼ to think about Japanese と同じだろう。

英語で次のような場合には他動詞とみなしている。

I think it easy. それはやさしいと考える
I think that this is easy.   それはやさしいと考える
What do you think ?   (君は)どう考える   How do you think ? というのも聞くが、何かおかしい。In what way do you think ? のように聞こえる。
I did not think how I should have done it. どうすべきかを考えなかった。

英語では to think は<自動詞と他動詞の間をふらふらしている>、<ときに自動詞ときに他動詞となる>ようだ。

 さて<考える>と<思う>の違いの話にもどると、<考える>を<思う>で入れ替えてみる。

日本語を思う。

日本語について思う。 

 となるがいづれも

<日本語を考える>、<日本語ついて考える>とニュアンス、さらには意味が違う。 

もし

あなたは日本語をどう思いますか?

と問われたら、どう答えるだろうか?

想定される答えは

(学ぶのが)むずかしい、やさしい言葉です。 

だろう。日本語に興味があれば

二音節が多い言葉です。二音節の名詞、動詞が多い言葉です。
助詞があり、この使い方が難しい言葉です。

と答えるかもしれない。

一方 

あなたは日本語をどう考えますか?

と問われたら、どう答えるだろうか?

想定される答えは、少し考えてから、少しあらたまって

すみません。あらたまって考えたことはありません。 

がかなり高い確度で考えられる回答だ。

考える - 頭を使う。ロジック(論理)を使う。理性による。
思う - 心、感情を使う。直観による。
感じる - 感覚、感情を使う(による)。 これはここでは検討しない。

という分類がある。

考える - 時間をかけて決定する(決める)。あれこれ考える。考え直すのには時間がかかることが多い。
思う - 短い時間で決定する(決める)。 思い直すには概してあまり時間がかからない。

という分け方も考えられる。 これと関係があると思うが

<考えた>、<思った>あとに判断や決定や結論がでてくる。普通の生活ではこのあとに<実行>がくるのだが、<考えても>実行されない、実行する必要がない場合が多い。一方<思った>あとの判断や決定は、意識的、無意識的に実行に結びつく場合が多い。これが一番大きな違いではないだろうか?これは<思う>が純やまとことば、<考える>はかなりの確度で漢語由来ということにねざしているのではないか。概して、理屈っぽい人は行動力に欠けることが多い。

sptt


 

 


 

 

英語は上と同じになるだろう。つまり to think は <考える>と<思う>を兼ねていることになる。

Monday, March 15, 2021

Just do it ! 、<勇於挑戦>のやまとことば

 

ナイキの宣伝文句に Just do it ! というのがある。意味は<ただやるだけ !>でよさそうだが、もう少し考えてみる。Just do it ! の just は決して<だけ>ではない。カーペンターズの Only yesterday という歌のonlly も決して<だけ>ではない。英語の just、only は多頻度使用語で、かつそのためか多義語なのだ。

 Just do it ! の前に Do not just thinking of it を加えて

Do not just thinking of it、just do it !

としてみる。Do not just thinking of it、は<ただ考えているだけではダメだ>とでもなり、この just は<だけ>あるいは掛かり結びで<ただ xx だけ>の意で、これは Do not only thinking of it、で言い換えられる。Just do it ! の方は<ただやるだけ !>以外に

とにかくやるだけだ。とにかくやってみろ(みよう)。つべこべ言わずにやってみる。やるっきゃない。

などが考えられるが、イマイチだ。

最近香港でナイキとはまったく関係のない広告で Just do it ! の中国語版をみつけた。 <勇於挑戦>というもの。文字どおりでは<挑戦に勇(気を持て)>、 <挑戦をおそれるな>。論語だったかに<義を見てせざるは勇なきなり>というのがあるが、この<勇>だ。また中国では二語の<勇敢>というのがよく使われが、これは、多分中国語の常として、名詞、動詞、形容詞になると思われる。<挑戦>は最近 positive thinking の影響からか<問題>や<困難>の代わりに使われている。やまとことばではどうなるか?

おじずにいくさに立ち向かえ。
おそれず敵に立ち向かえ。 

だと戦時下の標語みたいだ。

何ごともおそれずに挑め(いど)め。 

もイマイチ。問題は<問題>、<困難>のやまとこばだ。<困難>は<むじかしいこと>、<むずかしさ>、さらには

やりにくい -> にくさ
言い難(がた)い - かたさ

となるが<にくさ>、<かたさ>は説明しないと困難にならない。<むずかしさ>もそうだがそもそも<形容詞+さ>は程度を表わし<むずかしいこと>、<(やり)にくいこと>、<(言い)かたいこと>にはならない。

<問題>もクエスチョンなら<問(と)い>でいいが、トラブルの方の問題のやまとことばなにか?中国では<有問題>、<没有問題>は超高頻度使用後で、<問題>なしでは会話がなりたたないほどだ。 ところで<問題>、<困難>は<障害>ともいえる。 <障害>であれば<かべ>というやまとことばがある。<壁(かべ)を打ち破る>は Break through でもある。以前に<Break through のやまとことば>というポストをかいたことがある。また<勇気、挑戦のやまとことば>というのも書いているが<問題>のやまとことば見つからなかった。もっとも<<壁(かべ)を打ち破る>は見つけているが、<問題=かべ>は見つけていない。<問題>のやまとことばがないとすれば、これは画期的なことだ。良くも悪くも問題意識がないのだ。

 

sptt

 


 

 



sptt

 


 

 

Sunday, March 7, 2021

思いのたけ

 

<思いのたけ>は慣用句、かつ恋愛用語だろう。だが古語、死語のようでほとんど聞かない。テレビの恋愛ドラマでは出て来るかもしれない。用法としては

<思いのたけ>を伝える。

が一般的だ。

手もとの辞書には<思いのたけ>が載っており、<思いのすべて>というようなことが書いてある。だがこの辞書の<たけ>の説明のなかに<高いと同根>と書いてある。 <高い>は現代語で、昔は<高し>といっていた。活用は

高からず
高き
高し
高ければ(古語の場合は<高いので>。現代語の<高ければ>は古語では<高からば>だろう)。

連用形の体言(名詞)用法からすると<高き>が体言(名詞)になり

山の高きは ....
背の高きは .... 

となる。現代語では

山の高さは ....
背の高さは .... 

となりそうだが意味が少し違う。また前に調べたが<高み>は、<高みの見物>以外は使わないようだが、<高いところ>の意の簡潔やまとことばだ。

<背の高き(背の高さ)>は<背の丈>いう言い方がある。今は<身長>が使われるが<背の丈>は少なくとも残したいやまとことばだ。話がずれてしまったが<思いのたけ>にもどると、<思いのたけ>は<思いの高さ>で、この方が<思いのすべて>よりいい、というか、これが正解だろう。さらに上で<意味が少し違う>と書いたが、これは<思いの高さ>でもまだ<たけ>の意が十分ではなく<思いの高いこと>が正解に近いのではないか。こと恋愛に関してなので正しく理解してきたいものだ。

 

sptt



 

さて<思いのたけ>の<たけ>は<丈>だ。

Friday, March 5, 2021

<ほど>の語源

 

<身の程知らず>という言い方がある。これは<身の丈(たけ)知らず>とも言え、むしろ<身の丈=身長>の方が実物をが目に浮かぶのでこちらの方がよさそう。<たけ>はやまとことばに間違いないが<ほど>はやまとことばだろうか。<程>の字で<ほど>と読ませるが、<程(chéng)>の中国語発音(一音節)は<ほど(hodo)>からは程(ほど)遠い。<ほど>の語源は何だろう?<ほど>の意味の解説ではよく<程度>がでてくる。いくつかの解説を読むと

ほど = 程度

と言っていい。だが<程>は工程、旅程、日程などと使い<ほど>の意味はない。念のため中国語ネット辞書で調べてみると

https://pedia.cloud.edu.tw/Entry/Detail?title=程


程 (chéng)

解釋:

(1)
道路的一段。如:「里程」、「路程」、「送你一程」。
(2)
事情進行的經過或順序。如:「過程」、「歷程」、「議程」、「日程」、「課程」、「程序」。
(3)
衡量、估計。如:「計日程功」。
(4)
階段、地步。如:「程度」。
(5)
法式、規範。如:「章程」、「規程」、「程式」。


 で大体日本語(漢語)と同じで、しかも二字成語の例を使った説明になっている。このなかでは

(4)
階段、地步。如:「程度」。 (英語の step 相当)
 

が参考になるが、すぐには

程 = ほど

 にならない。

 ここで程度の<度>に注目してみよう。<度>の中国語発音はdù で<度(ど)>に近い。これまた念のため中国語ネット辞書で調べてみると

 
https://pedia.cloud.edu.tw/Entry/Detail/?title=度




解釋:

1.
(1)
表示物質的相關性質達到的狀況。如:「長度」、「硬度」、「密度」、「酸度」。
(2)
法制、規範。如:「法度」、「制度」。
(3)
指人的。如:「器度」、「風度」、「度量狹小」。
(4)
標準。如:「限度」、「尺度」。
(5)
過、經歷。如:「度過」、「度日如年」、「虛度光陰」。
(6)
測量長短的標準。如:「度量衡」。
(7)
角度:A>數學上指角的大小。B>觀察事物的方向或觀點。如:「換個角度來看,他的作法並沒有錯。」
(8)
量詞:A>計算依一定標準劃分的單位。如:「耗電三百度」、「今天氣溫高達攝氏三十六度。」B>計算次數的單位。如:「再度光臨」。
2.
思量、計議、考慮。如:「忖度」、「審度」。
 


で、これも二字成語の例をつかった説明が主になっているが、度の方が<ほど>に近い。特に

(1)
表示物質的相關性質達到的狀況。如:「長度」、「硬度」、「密度」、「酸度」。
 
は少し長い説明があり、しかも「長度」は<丈(たけ)>ともいえ、参考になる。

(4)
標準。如:「限度」、「尺度」。
 
参考になる。
 
<ほど>、<たけ>、それと<たけ>の濁った<だけ>は詳しい意味、文法事項を中心に別のポストで取り上げているが、<ほど>の語源に関してはこの<度>がかかわっているのではないか?
 
 
(2)
法制、規範。如:「法度」、「制度」。
 
「法度」の発音は<ほど>に近い。
 
だがこれは偶然ででおそらく
 
接頭語<ほ> + <度(ど)>
 
が<ほど>の語源ではないか?
 

sptt

 


 

オリンピックの名句 <より速く、より高く、より強く>

 

より速くより高くより強く>はオリンピックの名句というが、なにか翻訳調だ。問題は<より>で、やまとことばでは普通

 xxより 早い

xx より速い

ではない。

また

由来や原因や理由をしめす助詞

xx より

があり <より速く、より高く、より強く>と聞いたときに上記のようなやまとことばの<より>の意味が頭をよぎってしまうのだ(私だけではないだろう)。これは少しくだけるが

もっと速く、もっと高く、もっと強く

で置き換え可能で、このほうが聞いて<力が出てくる>ような気がする。

 

sptt