Sunday, April 13, 2025

<けち>の語源

 <けち>の語源は、ざっとネットで調べた限りでは


https://zatsuneta.com/archives/006156.html#google_vignette

「けち」は元々「けじ」であり、漢字では「怪事」と書いていた。「怪事(怪しき事)」とは「縁起の悪いこと、不吉なこと」を意味する。この「怪事(けじ)」の音が変わって「けち」となった。

「けちをつける」とは「相手に縁起が悪くなるようなことを言う」という意味であり、後に「欠点をあげてけなす、難癖をつける」のような意味でも使われるようになった。そして、「けち」は現在のように「粗末なこと、いやしいさま」などの意味を持つようになった。

” 

これには<けちんぼ>の<けち>の説明がない。「粗末なこと」はすぐには<けちんぼ>にならない。「いやしい」は多義語だが、<金にいやしい>という言い方がある。(末尾)


出典:デジタル大辞泉(小学館)

[名・形動]

(「吝嗇」とも書く)むやみに金品を惜しむこと。また、そういう人や、そのさま。吝嗇 (りんしょく) 。「何事につけても—な男だ」 

粗末なこと。価値がないこと。また、そのさま。貧弱。「—な賞品をもらった」 

気持ちや考えが卑しいこと。心が狭いこと。また、そのさま。「—な振る舞いをするな」「—な料簡」「—な根性

縁起の悪いこと。不吉なこと。また、難癖 (なんくせ) 。

これには<けち>の語源が書かれていない。

気持ちや考えが卑しいこと。心が狭いこと。また、そのさま。「—な振る舞いをするな」「—な料簡」「—な根性

は<けち>に通じるところがある。

縁起の悪いこと。不吉なこと。また、難癖 (なんくせ) 。

 https://zatsuneta.com/archives/006156.html#google_vignette での<けち>の語源のようだが、

"

「けじ」であり、漢字では「怪事」と書いていた。「怪事(怪しき事)」とは「縁起の悪いこと、不吉なこと」

"

が<けち>に変わるには相当のステップが必要で、クエスチョンマークと言える。発音の容易さ(口、舌の動かし方の怠け具合)からすると

けち -> けじ

は可能性が高いが

けじ -> けち

は可能性が低い。

 

<不吉>は日本語では<ふきつ、hu-ki-tsu>と言い、<きつ> の字がある。<きつ>が<けち>に変わった可能性はあるか? <不吉>の反意語は<吉、きち>で<大吉 だいきち、小吉 しょうきち>で<きち>の音が残っているので、意味からして<吉、きち>が<けち>に変わった可能性は小さい。

<不吉 ふきつ> ー> ふきち

の変化は可能性がある。<不吉 ふきち>は<不吉>の意味が残っている。

だが、<ふきち>の<ふ>が落ちて<きち>、これが<きェち> ー> <けち>

も相当の無理がある。

ところで、漢語に<欠、けつ>というのがある。欠点、欠陥、欠乏、欠席で<十分、満足な>状態に対して何かが<欠けている>ことだ。分解して言う時は、上の欠点など<けってん>の<けっ>ではなく、<けってん>の<けつ>と言い、促音にならない。

この意味では、やまとことばで<欠く、欠ける>があるので、わざわざ<欠、けつ>を使うことはないのだが、落語でご隠居が権威づけのために漢語を使うことがあるが、権威づけのために老人や武士が

お前の言うこと、することには<欠く、欠ける>ところがある

というところを

お前の言うこと、することには<欠、けつ>がある。

というような言い方をしたすると、これは

粗末なこと。価値がないこと。

 お前の言うこと、することは粗末だ、価値がない。

気持ちや考えが卑しいこと。心が狭いこと。

 お前の言うこと、することは気持ちや考えが卑しい、心が狭い。

の意になる。 


<欠>は中国語にもあり、qiàn と発音するが、あまり見ない。<欠>は日本語の簡体字もどきで、中国では <缺 quē>が一般的にこの<欠く、欠ける>の意味で使われる。

Baike-baide

缺 quē
1 不够:缺乏。缺少。缺憾。欠缺。缺漏。
2 残破:缺点。缺口。缺陷。
3 空额(指职位):缺额。补缺。 
4 该到而未到:缺勤。缺席。

<缺>の<quē>は現代の北京語発音で、古い中国語の発音を残すと言われる広東語の発音は<kyut>で<キュッ (と) >に近い。<缺点  kyut dim>などは今でも日常よく聞く。日本が <缺>を輸入したころの発音はこの<キュッ (と) >に近かったと思われる。<キュッ (と) >は促音だが、促音を避ける地域からの<缺>の発音は<キュエツ>のような音で、これが<エツ>、<ケ>に聞えた。あるいは促音を避ける地域での輸入であれば<キュッ (と) >をエツ>、>のような音で発音した。これが、<けってん>などの<けつ>だ。

これが<ケチ>なる可能性は高い。なぜならケツより<ケチ>が発音しやすいのだ。さらには、イントネーションが違うが<ケツ>は<おしり>の<ケツ>に通じてしまう。したがって

お前の言うこと、することには<欠、けつ>がある。

お前の言うこと、することには<ケチ>がある。

になる可能性は高い。さらには、もっと簡潔に

お前には<ケチ>がある。

お前は<ケチ>だ。

一方、意味の方だが

この<ケチ>が <欠、けつ>、欠く、欠ける>、<何かが欠けている>の意味を保っていたとすると、上の解説の

デジタル大辞泉(小学館)

むやみに金品を惜しむこと

ケチな人は、自分には<何かが欠けている>と思うと、<何かが、例えば金銭が、さらに減らないようにする>。

金持ちに<けち>は少なくない。金は余るほど持っているのだが<金が欠けている>と思う>のだ。そして金を使うのを惜しむ。

また、

お前のすることには<欠、けつ>がある

 

お前のすることには<何かが欠けている>がある

になるが、これは往々にして

お前のすることには<良いことが欠けている

で、かなりの飛躍、こじつけになるが、

お前のすることには<気前の良さが欠けている

で<けち>になる。 


末尾


出典:デジタル大辞泉(小学館)


[形][文]いや・しシク

身分社会的地位が低い。「—・い身」

品位欠けている。下品だ。「—・い言葉遣い」「根性が—・い」

貧しい。みすぼらしい。「服装が—・い」

飲食物金銭に対して貪欲である。さもしい。「口が—・い」「金に—・い」

つたないとるに足りない

 

sptt

 


 

Saturday, April 12, 2025

<たなぼた>の語源

 <たなぼた>は<棚から牡丹餅>の略。子供のころよく耳にしたことがあるような記憶がある。<ぼたもち>への連想が強かったためかもしれない。もっとも、子供のころ<ぼたもち=牡丹餅>とは知らなかった。<あんころ餅>とか、少し気取って<おはぎ>とか言っていた。<ぼたもち>を食べたことはあるが、そう頻繁ではなっかた。<たなぼた>は簡単でゴロが悪くないことから、大人になって時々使い、耳にもした。語源にも興味があったが、特に調べたことはなかった。

<棚から牡丹餅>は

口を開けて寝ているときに、棚からぼたもちが落ちてきて口にはいった

場面が想像されるが、まずありえないことだ。

童話高童謡の<待ちぼうけ>が連想される。 <棚から牡丹餅>の語源をチェックしてみたが、時系列では不確かだ。

さて、国語の勉強を兼ねて最近携帯でよく見ている中国のドラマをみているが、ドラマの中で<天上掉馅饼>という語が字幕に出てきた。馅饼>はまさに<あんころ餅>。天上掉馅饼>は正確には天上掉馅饼>で、これで<天からあんころ餅が落ちてくる>。<天からあんころ餅が落ちてきて口にはいる>わけではないので、非現実性は少しは薄れる。

天上掉馅饼>はさかのぼれる。

Baike-baidu 

中文名
天上掉馅饼
拼    音
tiān shàng diào xiàn bǐng
解    释
不用出力即可享受现成的东西

梁斌《播火记》一五:“一切都从艰苦工作里来,劳动创造世界,不能光想从天上掉下馅饼来。


梁斌《播火记》は古典ではない。

《播火记》是2005年河北美术出版社出版的图书,作者是梁斌(原著)。 中文名. 播火记. 作者. 梁斌. 出版时间. 2005年8月. 出版社. 河北美术出版社. 

 

だが、<棚から牡丹餅>と<天上掉馅饼>は直接関係ないだろう。

 

sptt

 

Friday, April 11, 2025

気兼ねする

 

<気兼ね>はネット簡易辞典では

[名](スル)他人思わくなどに気をつかうこと。遠慮。「隣り近所に—する」

 出典:デジタル大辞泉(小学館)

と出てくる。<他人の思わくなどに気をつかう>

<他人の思わくなどに気をつかう>は<思いやり>に通じるところがあるが、純粋の<思いやり>とはズレがある。<気兼ね>は<他人の思わく>あるいは、もっと単純に<他人の思い>が多分に関与している。

さて<気兼ね>、<気兼ねする> の<兼ねる>だが、これはどういう意味か?

<兼ねる>は普通

社長と会長を兼ねる。社長兼会長
主婦とOLを兼ねる。主婦兼OL
出張と接待ゴルフと観光旅行を兼ねる。

のように使う。これでは<気兼ね>、<気兼ねする>の<兼ねる>の説明にならない。上の例では

あることをするが、同時にまた別のこともする。

の意だ。これでは<気兼ね>、<気兼ねする>の<兼ねる>の説明にならない。

かなりの飛躍、または<こじつけ>になるが

あることを考えるが、同時にまた別のことも考える。

ー> 

自分に関係のあることを考えるが、同時にまた別人 (他人) ことも考える。

これは日常よくあることで、

人間特有の社会性、もっと卑近には<世間体、せけんてい>や<他人の目> を気にする。

これが<気兼ね>、<気兼ねする>。

さらには、決断をへて、<世間体>や<他人の目> を気にして

自分が本来やりたいことを差し控える、止める 

ことになる。これは、さらに

言い兼ねる、し兼ねる (できない)

の<兼ねる>に通じる。

またさらに、否定形の<兼ねない>は

言い出し兼ねない、し兼ねない

 <できないことはない>で<するかもしれない>になる。

 

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心置きなく

前回のポスト<心残り、残念、未練>で<心残り>を取り上げたが、<心置きなく、こころおきなく>というやまとことばもある。

<心残り>は<心に残る>で<何かが心に残る>で<残る>は自動詞。一方<心置きなく>の<置く>は他動詞で<何かを心に置く>で大きな違いがある。さらに<心残り>はあるが、<心置き>、<心置く>という言い方は聞かない。

<心置きなく>は<何かを心に置く>、<何かを心に置かない>の<何か>が抜けている。

例文を作ってみると

1)心置きなく楽しんでください。

2)心置きなく楽しんで行ってください。

<行って>とあるが、もう<来ていて>、<ここで過ごす>の意。

3)心置きなく楽しんで来てください。 

<来て>とあるが、どこかえ行って帰って来る。

4)時間は十分あるので、思う存分、心置きなく見て行ってください。

思う存分 (思うだけ、好きなように)= 心置きなく 

<好きなように>は、否定形になるが

他人の思わくを気にせずに、遠慮せずに、気兼ね (気兼ねすること) なしに

だ。

 さて、上に戻って

<心置きなく>は<何かを心に置く>、<何かを心に置かない>の<何か>が抜けている。

だが

好きなようにするのをさまたげるもの、こと

と一般化できよう。 

たとえば、上の

他人の思わく、遠慮、遠慮

さらには、不安、おそれ、etc

一般化できるので、これらの一部、または全部でもいい。(ここが肝心) したがって

<心置きなく>は

<他人の思わく、遠慮、遠慮、不安、おそれ、etc>を<心に置かないで>

となる。

 

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Wednesday, April 9, 2025

心残り、残念、未練

 

<心残り、こころのこり>はいかにもやまとことばらしい。残念ながら<心残り>よりも<残念>が優勢のようだ。<残念>は<思いが残る>の意だろう。一方<心残り>は<心に残る>。似かよってはいる。

心残りがある - 残念だ

でよさそうだが、 

<心残りがある>の意の<未練>は<残念だ>にならない。<残念>は和製漢語のようだが、<未練>は<残念>以上に和製漢語だ、演歌で<未練>がよく出てくる。<心残りがある>も使うが、これも<未練がある>が優勢のようだ。<残念>、<未練>が優勢になったわけがありそう。

<心残り>は肯定と否定では意味が違う。 

<心残りがない>、<心残りはない>は

残念でない、残念ではない。  

でよさそうだが、意味にズレがあるようだ。変な日本語だが<残念がない>、<残念はない>の方が正確のようだ。だが

これまでしてきたことに心残りはない。

はいいが

これまでしてきたことは残念でない、残念ではない。

は変な日本語だ。 

これまでしてきたことに残念はない。

も変な日本語だが、シュールな言い方だ。 


ーーーー

中国 Wiki 相当の Baike-baidu では日本語としての<残念>の解説がある。(中国語としてはないから、<残念>は和製漢語だろう)これは大いに参考になる。

 ”

残念是一个汉语词汇,日语“残念”(ざんねん、zan'nen)所化用的中文新词,原义为可惜、遗憾;懊悔,遗恨。

来源

日汉词典:
(1)〔心残り〕[実现できずに] 遗憾yíhàn; 可惜kěxī; [相手にすまない] 对不起duìbuqǐ,抱歉bàoqiàn.
 
若い时によく勉强しなかったのが残念だ
我年轻的时候没有好好学习,真是遗憾
.
お手伝いできないのは本当に残念です
我不能帮助你,真是抱歉得很!
 
彼を失ったのはじつに残念だ
失去了他,实在可惜啊.
 
残念ですが, ほかに约束がありますので参加できません
遗憾得很,因为另外有个约会,我不能参加
.
(2)〔くやしい〕懊悔 àohuǐ, 悔恨huǐhèn.
残念无念 (和製漢語、残念無念)
万分遗憾; 万分懊悔.
 
残念ながら 很遗憾; 很抱歉; 可惜得很.
残念ながら彼に会う机会がなかった

 ”

 一番目に(1)〔心残り〕がでてくるが、

遗憾 ー 日本語でも<遺憾>という。遺憾ながら

抱歉 ー 申し訳ない (あやまりのことば)

可惜 ー 惜しい

と少し意味がずれている。

<遺憾ながら>は権威は少し落ちるが<残念ながら>でもいい。だが<心残りながら>はダメだ。

心残り>に <申し訳ない(あやまりのことば)>の意は薄い。

惜 (お) しい、 (お) しいことをした。

には<心残り> の意がある。

ニ番目に(2)〔くやしい〕懊悔 àohuǐ, 悔恨huǐhèn. 

が出てくるが、<残念>にくやしい>の意味はありそうだが、基本的に<心残り>に<くやしい>の意味はない。もっとも

残念ながら 很遗憾; 很抱歉; 可惜得很.
残念ながら彼に会う机会がなかった

に<くやしい>の意味は薄い。

良いことをすべきだったのにしなかった場合
良いことができたのにのにしなかった場合
 
は<心残り>になることかとから<心残り>はポジティブともいえる。また上で取り上げた
 
<心残りがない>、<心残りはない>

ポジティブ志向と言える。さらにまた
 
あのたのしい時のことが心に残っている。

はいいが

あのたのしい時のことが残念だ。
 
は全くダメ。 一方
 
あのいやな時のことが心に残っている。
あのいまいまし時のことが心に残っている。 
 
はほとんど聞かない。 これは<くやしい>に通じる。
 
以上から、 否定の<心残りがない>を含めて<心残り>はポジティブ志向と言える。
 
一方
 
<残念>は< 惜 (お) しい>の意が強い。<心残り>、<心残りがある>はこの<惜しい>の意が薄い。惜しい>はどちらかというとネガティブ志向。だが<惜 しむ>にはポジティブ志向がある。
 
<未練>、<心残りがある>はネガティブ志向と言える。演歌で<未練>がよく出てくるのは日本人のネガティブ志向の一面を表していると言えよう。
 

以上が<心残り、残念、未練>のきわめて無意識的な使い分けになっているのではないか。

 

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