Sunday, November 24, 2013

魚の目にも涙


<魚の目にも涙>はめったに使わないが、<顔に表情を表さない(とよく言われる)魚(さかな)でも(でさえ)涙を浮かべる>の意(推測)で、ケースバイケースで使われるようだ(これも推測)。<魚の目にも涙>をインタネットで調べると芭蕉の下記の俳句とその解説がある。

行く春や鳥啼き魚の目は涙

この句の解説ははぶくが、 芭蕉の句は<魚の目は涙>で<魚の目にも涙>ではない。<魚の目は涙>は俳句になる表現だが<魚の目にも涙>はことわざ、決まり文句に近い。だがこれは誤用だろう。

関連する言い方に

鬼の目にも涙
雀の涙

があるが<魚の目にも涙>とは意味が違う。 <魚の目にも涙>はこれからの連想だろう。

上記の推測解釈の<魚の目に(も)涙>が出てくる西洋の寓話を見つけた。この話は古い日本版伊曾保物語の中にある。

第五十四 釣師と小魚《こうお》の話(72)

 

或處に魚を釣《つり》て生業《なりはひ》とするものあり。 夏日《なつのひ》終日《いちにち》釣をしても所獲《えもの》なく、 夕方になりて歸らんとする時、漸く小鮮《こざかな》を一匹《ぴき》釣りあげたり。 其時小鮮《こざかな》あわれな聲を出して、「御助け下され。私はまだ小さう御座ります。 中々食料《あがりもの》にはなりませぬ。どうぞ河へ返《もど》して下さりませ。 私が大《おほき》うなりまして、丁度食《あが》れる頃になりますと、 必《きつと》此所《こゝ》へ參りまして、又御手にかゝります。」といへば、 釣師首をふつて、「否々《いや〜》吾《おれ》は今手前《てめへ》を捕へた。 もし汝《てめへ》を水の中に返《もど》したなら、其時汝《てめへ》は、 サア捕《とつ》て見サイナだらう。」

諺に、手にある鳥は、林の内の二羽にも充《むか》ふと云ふぞや。

<見サイナ>は<見ナサイナ>><見ナサイ>の間違いか?あるいは古語か?

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上記の古い日本版伊曾保物語の中には魚の目に涙>が出てこない。原文にも魚の目に涙>が出てこないためと思われるが、魚の目に涙>が出てくる話はいろいろある。

1.ラテン語版 

Aesop's Fables: Avianus

#20. de piscatore et pisce. (Perry 18)

Piscator solitus praedam suspendere saeta
exigui piscis vile trahebat onus.
sed postquam superas captum perduxit ad auras
atquc avido fixum vulnus ab ore tulit,
"parce, precor," supplex lacrimis ita dixit obortis;
"nam quanta ex nostro corpore dona feres?"
nunc me saxosis genitrix fecunda sub antris
fudit et in propriis ludere iussit aquis.
tolle minas, tenerumque tuis sine crescere mensis.
haec tibi me rursum litoris ora dabit.
protinus immensi depastus caerula ponti
pinguior ad calamum sponte recurro tuum.
ille nefas captum referens absolvere piscem,
difficiles queritur cassibus esse vices.
"nam miserum est" inquit "praesentem amittere praedam
stultius ct rursum vota futura sequi."


English Version

Perry 18

THE FISHERMAN AND THE FISH
There was a fisherman who was in the habit of catching his prey on the hook of his fishing line. One time he reeled in the trifling weight of a tiny fish which he had snagged. He lifted the fish up into the air and stabbed it with a piercing wound through its gaping mouth. The fish then burst into tears and pleaded with the man. 'Please spare me,' he said. 'After all, what sort of profit will you get from my body? My fertile mother just now spawned me down in the rocky caves, sending me to play in the waters that are the fishes' domain. Put aside this threat, and allow me my slender young body to grow fat for your table. This same strand of the shore will give me back to you again, and I will voluntarily return to your fishing rod a little while from now, fatter for having fed on the blue waters of the boundless sea.' The fisherman said that it was absolutely forbidden to let a fish go once it had been caught, and he complained that good deeds are often not rewarded when left up to chance. Finally the man concluded, 'It's bad business to ever surrender any possible gain, and even more foolish to start over again in hopes of greater profits.'


下線部が魚の目に涙>が出てくるところだが一般的な記述で(もっとも、魚の目に涙>自体擬人的な用法で、この子魚が水から出されてからの記述)特に<魚の目に涙>の意味はない。ついでに魚の目に涙>以外の伊曾保物語との違いを調べてみる。

伊曾保物語では<夏日《なつのひ》終日《いちにち》釣をしても所獲《えもの》なく、 夕方になりて歸らんとする時>という長い説明があるが、上記のAvianusのラテン語版にもラテン語版の翻訳に近い上記の英語訳版にもない。 一方ラテン語版、英語訳版には子魚の短い履歴があるが伊曾保物語にはない。もっとも<子魚の履歴>は話の筋や教訓とは関係がないようだ。だがもともとは何か関係があったと思われる。まあ、それだけこの話の元が古いということか。

さて、伊曾保物語では<小鮮《こざかな》あわれな聲を出して>とあるが、これはラテン語版、英語訳版にもなく、<涙を浮かべて(supplex lacrimis)>,<涙を流して(burst into tears)>がこれに代わっている。

なお上記の英語訳はAvianusのラテン語版にかなり近いが逐一訳ではない。この違いの理由の一つは<釣り>の仕方、道具がAvianusの時代(あるいはさらに古い時代)と英語訳版が出来た時で違ったためだろう。<saeta>は<硬い毛の集まり>の意なので<毛ばり>のようなものだろう。またのラテン語版釣り針(英語版では fook )も出てこない。


Another English version

146. THE FISHERMAN AND THE LITTLE FISH
A poor Fisherman, who lived on the fish he caught, had bad luck one day and caught nothing but a very small fry. The Fisherman was about to put it in his basket when the little Fish said:
"Please spare me, Mr. Fisherman! I am so small it is not worth while to carry me home. When I am bigger, I shall make you a much better meal."
But the Fisherman quickly put the fish into his basket.
"How foolish I should be," he said, "to throw you back. However small you may be, you are better than nothing at all."
A small gain is worth more than a large promise.
THE FISHERMAN AND THE LITTLE FISH

sptt




Wednesday, October 23, 2013

<しがない>、<仕方(しかた)がない>の語源


手元の辞書によると<しがない>は

形容詞 (<さがない>の変化という)うだつが上がらず前途に望みがない。となっている。

ところが<さがない>の項がこの辞書にはない。<うだつが上がらない>は慣用語でこれまた説明が必要だ。この辞書の<うだつが上がらない>の解説はかなり長い。

さて、<しがない>の<し>は<する>の連用形だろう。 連用形の名詞(体言)用法で<行きはよいよい帰りはこわい>の<行き>、<帰り>と同じ。名詞(体言)用法とはいって<し>は<すること>と同じではない。<行き>が<行くこと>と、<帰り>が<帰ること>と同じではないように。<しがない>は<することがない>ではない。しかしまったく違うというわけでもない。

sptt Notes on Grammar の ”日本語の<連用形の体言化>+体言” で次のように書いた。


一般的に言えることは、<連用形の体言化>+体言が<べき>としてつながることだ。英語でいえば、
a thing to see (take, think, do)に対応する。<ため>の場合、英語では a thing for seeing (taking, thinking, doing)となる。



これを応用すると<しがない>は<すべきことがない>となり、<しがない>の意味にやや近づく。<べし>は漢文の訳によくでてくるが、れっきとした大和言葉でいくつかの少し違った意味があり、<しがない>の<し>にも<べし>のいくつかの意味がありうる。


一方<仕方(しかた)がない>という表現があるが、この<し>は連用形の名詞(体言)用法がさらに進み、名詞(体言)の形容詞用法-<かた>を形容(修飾)する-と見ることが出来る。<するかたない>はほぼ同じ意味のようだがだが、<するかたない>は長いためかあまり使われない。ただし<するかたない>は<する>の連体形<する>+<かた>+<ない>で、連用形<し>+<かた>と違って<すべき>の意が薄(うす)いようだ。

<やるかたない>は<する>の意の<やる>ではなく<送る>、<送り出す>、<与える>の意に近い<遣(や)る>の連体形。

<やりかたがわからない>の<やり>は<する>の意の<やる>の連用形の名詞(体言)用法で<やるべき>方法の意だ。


sptt










Tuesday, October 15, 2013

モノの<ふるまい>の語源

<ふるまい>は漢字を使うと<振る舞い>になるが意味内容は<振る>も<舞う>も関係なさそう。<ふるまい>の語源はなにか?

以前のポストで<見舞い>の語源を書いたがこれにあまりとらわれずに、<ふるまい>について考えてみる。日本の物理の先生は<ふるまい>と大和言葉が気に入っているようでよく聞き、目にする。

無重力下でのモノの振る舞い(ふるまい)。<動き>や<場(ば)>も物理の先生が好きな大和言葉だ。これはなぜか?  物理学は中国からではなく西欧から輸入された。対応する英語は

振る舞い - behaviour (behavior)
動き         - motion、 movement
場(ば)  - field

<behaviour> は必ずしも物理用語ではないが、つきめるところ物理学は<モノの振る舞い>の原因を数式を使ってあらわす学問と言える。また振動は物理学ではモノの根源的な<振るまい>のひとつで、世界、宇宙は振動からできているとも言える。

振る舞い(behaviour)を漢語であらすと、行動、動作、行為があるがあるが、どれもイマイチで<振る舞い>にはかなわない。

さて<ふるまい>の語源について考えてみる。

<ふる>+<まい>、あるいは動詞形の<ふるまう>であれば<ふる>+<まう>と分析できるだろう。

<ふる>に大きく分けて<ふる(振る>と<ふる(降る)>がある。アクセントが違い、使い分けられている。<ふるまう>の<ふる>が<降る>の<ふる>由来である可能性は少ないが否定はできない。降りかかる雨。胡椒(コショウ)を振りかける。

<ふるまう>の特徴的なことは<ふる>の連用形<ふり>+<まう>の<ふりまう>(複合動詞)でないことだ。連用形<ふり>の複合動詞は多い。
 
振りあげる
振りあてる
振りおとす
振りかえる
振りかける  --> ふりかけ
振りかぶる
振りきる
振りこむ
振りしぼる
振りだす  --> ふりだし
振りつける  --> 振りつけ
(振りにげる)  --> 振りにげ (野球用語)
振りのける
振りはなす
振りはらう
振りほどく
振りまく
振りまわす
振りむく
振りむける
振りわける

文字通り<振って>XXするの意味が多いが、比喩的なのもある-振りあてる、振りかえる、(知恵を)振りしぼる、 (笑顔を)振りまく、振りわける。
また、<振る>は振動の表現でいく度も<行ったり来たり><する>、<させる>反復動作を示すようだが、振りあげる、振りあてる、振りかえる、振りかぶる、振りこむ、振りむく、振りむける、は反復ではなく<行ったきり>の動作で<振る>の漢字は必ずしも適切でないようだ。<ふる>のワープロ辞書は<振る>と<降る>だけだが 、<降る>は別として<ふる>には<振る>以外の意味があることになる。

振動の表現の大和言葉には<ゆれる、ゆする>があるがこちらのほう往復専用で<行ったきり>の動作は示さないようだ。右に振れる(O).右にゆれる(ゆする))(X)。

<ふる>が後ろにくる複合動詞はあまりない-わり振る。

いづれにしても<ふりまう>でなく<ふるまう>は特徴的なことで、語源を考える上で参考にした方がよささう。辞書によると<フルチン>は<振りチン>のなまりで、<ふるまう>も<ふりまう>のなまりの可能性がある。

<ふるまう>にはモノ<ふるまい>のほかにモノ<ふるまう>(与える)の意があり、<オオバン振る舞い>という言い方がある。<オオバン>の方は<大盤>のようだが、これだと与えるモノは食べ物だろう。<大判>だと金銭になるが、はした金ではない。<ふるまい>は文字通り<振り播く、振り撒く>の動作が想像され、これが語源だろう。モノ<ふるまい>の語源を考える上で参考にした方がよささう。また触れる(古語は<触る>か?)も関連があろう。


結局今回の調査では残念ながら語源がわからなかった。継続調査予定。



sptt

Friday, September 27, 2013

<たら、れば>について


一昔まえ、<たら、れば、じゃ話にならん> という言い方があった。つまり、仮定の話ばかりで現実的でないということだ。<にら、レバ>というご飯のおかずにかけた言い方だったと思う。

<たら>は仮定をあらわすとして、<れば>は何かというと、これも<xx(す)れば>で仮定をあらわすが、この<れ>はなにか?

行けば (五段)
立てば (五段)
座れば  (五段)
見れば (上一段)
起きれば (上一段)
寝れば (下一段)
捨てれば (下一段)

仮定形は上一段、下一段は<れ>がつくが五段は必ずしも<れ>がつかない。五段活用の場合、<仮定形 + る>は可能を示す。

読める
書ける
行ける
言える

この可能の意を維持したまま仮定形(れ)にすると

読めれば
書ければ
行ければ
言えれば

となる。

また<<たら>は仮定をあらわすとして>と書いたが、これも<た>は過去(完了)の助動詞であり、仮定といっても単なる仮定ではなく現実に反する仮定、いわば強い仮定だ。したがって、<たら、れば>は強い仮定の<たら>と可能の仮定<れば>で<まったく現実離れした話>ということになる。


sptt Notes on Grammar <日本語文法とロジック - 4, 接続助詞>の一部コピー)


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Wednesday, September 18, 2013

<おぼえる>の語源

<考える>の語源に続いて<おぼえる>の語源について考えてみ る。<おぼえる>は漢字でかくと<覚える>で少なくとも二つの意味がある。
1)記憶する
2)やや古くさい言い方だが<寒さを覚える>、<痛みを覚える>などの使い方で、現代風には<感じる>とほぼ同じ。
推論-1
前に<える>関連の別ポストで次のように書いて検討課題として残した

思う(古くは、おぼゆ、おもほゆ) - おぼえる(覚える、と漢字を使うと見えなくなる)
思う - 思いえる --> 思える (可能)
<思う>は五段活用だが<おぼゆ>、<おもほゆ> 何活用か?<おぼわず>、<おもほわず>だと五段活用、<おぼえず>、<おもほえず>とも言いそうで、下一段活用になる思える (可能)、<思わせる>は使役になる。
おぼえる -  思(ひ)える、思って得る (?)

(別途検討)

<おぼえる>と関連がありそうなのは<思える (可能)>。<おえる>、<おえる>で一語の違い。あるいは<m>と<b>の違いだ。発音の転移が起こってもおかしくない(*)。しかし<思える (可能)>と<記憶する>や<感じる>との意味の転移はどうか?
*) さみしい - さびしい、せまい - せばめる、せばまる
<おぼえる>を可能の<思える>ではなく、<思(ひ)える(思って得る) <-- <おぼい(ひ)える>の変化とすると、これは<記憶する>や<感じる>に通じる。前者は大和言葉、後者は漢語由来だ。<感じる>は<感ずる>、<感>+<する>。
おぼい(ひ)える --> おぼえる、変化は容易だ。
推論-2
<帯(お)びる>という言葉がある。古語は<帯(お)ぶ>。意味は<何かを持つ、何かの特徴を持つ>で、あまり使わないが、<おびる>自体すでに<持つ>という意味があり、重要語だ。古いが<剣を帯びる(佩びる)>、<赤みを帯びる(佩びる)>というい方もある。
おぶ --> おびえる --> おぼえる、と変化。<おぶ>はモノだけでなく抽象的なコトも<おびえる>(持てる)。<おびえる>には別の意味(<あびやかす>のグループ)が、混乱を避けて<おぼえる>となった。
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Saturday, August 3, 2013

<考える>の語源


<考える>の語源について時々考える(思いをめぐらす)が結論は出ない。このポストは中間報告。

<かんがえる>の<える>は大和言葉だが<かんが>がよくわからない。文語だが<かんがみる(鑑みる)>という言葉がある。<かんが>+<みる>だ。<みる>は大和言葉の<見る>だろう。 <かんがみる>も<かんがえる>の意味に近いが<見る>があるので、<見る>感じがある。
<かんがえる>は現代語で、昔は<かんがう(ふ)>。 <かんが>+<みる>は<鑑みる>と書いてしまうと見えなくなるが、<かんがう(ふ)>の連用形<かんがい(ひ)>+<みる>だろう。だがこの<かんが>がよくわからない。<える(うる)>は可能の意か、または<得る>(手に入れる)の意だろう。


推定 1)

<かんが>の<かん>は大和言葉ではなく漢語の可能性が高い。大和言葉の<xxん>は限られているが、<xxん>の漢語は多い。また昔の日本人は耳がよく<xx>と<xxng>を明確に区別してたので、<かん>すなわち<kan>だ。<kang >は<かう>になる。

中文のコンピュータワープロの(http://dict.cn/en/search/)<kan>は

看,砍,堪,刊,坎,槛,勘,阚,侃,瞰,龛,戡,莰,凵

もっともそれらしいのは<看>(見る)。<看>は現代北京語で、昔は<見(現代北京語 jian)>。
<勘>も候補でコンピュータワープロの解説(現代中国語)は

Define :
1. to investigate
2. to survey
3. to collate


カンがいい>、<カンを働かす>の<カン>はこの<勘>だ。但し<第六カン>の<カン>は<第六感>で、<カンがいい>、<カンを働かす>はがいい>、<感を働かす>が間違いとは言い切れない。また<かんじん>は<肝心>。漢語由来の<カン>が多いので日本人の頭の中で<カン>は明確に区別されていないだろう。

kang >は<かう>だが<かんが(ga)>となっているので<kang>を一応調べてみる。

抗,炕,扛,抗 .... まだあるがそれらしいのはない。これはむしろ<gang>だろう。

刚,钢,纲,港,刚... まだあるがそれらしいのはない。念のため<gan>を調べてみる。

干,赶,感,敢,竿,甘,肝,干 ... まだあるが、関連ありそうなのは<感>と<敢>。

さらに<kuan><kunag><guan><guang>も調べてみる。現代日本語ではこれらもすべて<カン>となる。いつごろからこうなったのかは重要だ。

kuan - 款,宽,髋

kunag - 矿,筐,狂,框,况,旷 .... まだあるがそれらしいのはない。

guan -  关,管,官,观,馆,惯,罐,冠 ... まだあるがそれらしいのはない。

关(関),管,观(観)は関連ありそう。 しかも<g>のない<guan>だ。現代日本人で关(関),管,观(観)を<クワン>と発音するひとはなくすべて<カン>が。中国語では<kuan><guan>の区別(k と g)以上に<クワン>と<カン>の区別は重要でまったく違う発音。

guang - 光,广,逛,犷.... まだあるがそれらしいのはない。

一方現代中国語の<考(発音は kao 四声無視)>は依然として<考える>の意味はあるが、日本語の<考える>とは違う。よく耳にするのは<考虑>(考慮)と<考试>(試験)。<kao>は<かん>の<kan>、<かんが>の<kang>と発音上関係がないとはいいきれない。昔の日本人の耳には<kang>、<gang>は<かう(kau)> と聞きえたのだ。ちなみに現代広東語の<考>は<hau>と発音。

<かん>は漢語として問題は<かんがう(ふ)>の<かん>の次の<がう(ふ)>だ。 (現代語でいえば<かんがえる>の<かんが>の<が>だ)。

<かう(ふ)>は<交(まじ)わる>の意がある。行きかう、飛びかう。他動詞は<かわす>。言いかわす、取りかわす。

<かん>を<かう(ふ)>で<かんかう(ふ)>。濁音便で--> 濁音便で<かんがう(ふ)>となる

<かう(ふ)>にふさわしい<かん>を探すと<勘>になる。上で述べたが、<カンを働かす>のカンはこの<勘>だ。 <勘>はこの場合動詞ではなく名詞。中国は動詞も名詞も基本的に発音も同じ。だが逆にを働かす>という表現と<勘がえる>はどうも結びつけにくい。

感(gan)、関(guan)、観(guan)も候補。


結論としては

<かんがえる>の方も<かん(勘、漢語名詞>+<かう>の連用形<かい(がい)>+<える> --> かんがえる

意味としては<調べを交わして得る>。<える>は可能ともなるが、この場合は<得(え)る>だろう。


 推定 2)

かんがえる

<かん> +<かう>の使役<かえる>(交(まじ)える) - (濁音便 )-><がえる>。

 意味としては<調べを交(まじ)える>。

かんがみる

<かんがえ>+<みる> -> かんがみる

かんがえ(調べを(まじ)え)見る


 推定 3)

<かん>が漢語の<勘>でない場合。 

guan)がえる - 感を交(まじ)えて得る、感を交(まじ)える
guan)がえる - を交(まじ)えて得る、を交(まじ)える


 推定 4)  

<がえる(かえる)>は<加(くわ)える>

勘(を)くわえる
(を)くわえる
观(観)(を)くわえる


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Tuesday, July 23, 2013

xx のおそれがある、おそろしがる


<xx のおそれがある>はよく使う。<おそれ>は漢字を使って<恐れ>とも書くが、とくに何かが<恐ろしい>わけではない。

台風が近づくおそれがある。
失敗するおそれがある。
今の実力では試験に落ちるおそれがある。

以上を形容詞<恐ろしい>、動詞<恐れる>を使って言い換え

(私は)台風が近づくので、恐ろしい。
(私は)台風が近づくのが恐ろしい。
(私は)台風が近づくのを恐れる。

(私は)失敗するのが恐ろしい。
(私は)失敗するのを恐れる。

(私は)今の実力では試験に落ちるので、恐ろしい。
(私は)今の実力では試験に落ちるのを恐れる。

といえるが、伝える内容はかなり違ってくる。

<恐れがある>は存在(あること)を示す客観的な叙述であり、可能性を示すような意味であるのに対して、<xx が恐ろしい(形容詞)>、<xx を恐れる)>は主観的な心情の描写だ。この区別は別として、なぜ<恐れ>が可能性を示すような意味を持つかだ。

<xx を恐れる>は xx が起こること、xx に(めぐり)会うことを恐れるのだが<xx が起こること>、<xx に(めぐり)会うこと>が決まっているわけではない。<xx が起こらないこと>、<xx に(めぐり)会わないこと>もあるわけで、いわば可能性の問題だ。また<xx>はよくないことだ。


ところで、日本語では

<太郎は台風が近づくのが恐ろしい>とはまず言わず<太郎は台風が近づくのを恐ろしがっている>となる。第三者が太郎の心情をそのまま表現することはできないのだ。<恐ろし>そうに見えるだけだ。


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Friday, July 12, 2013

<かぞえる>、<計算ずく>について


<かぞえる>は基本的な動詞だが日本語ではあまり発展していない。名詞(体言)は、連用形の<かぞえ>もあるが、独立した<かず>だ。

1、2、3 と数える

が基本的な使い方だが、比喩的な使い方としては

きみも<かぞえ>ておく - きみも<かず>に入れておく
<かぞえ>ちがえる - 見込みちがえる、読みちがえる

一方名詞(体言)<かず>の方はけっこう使われる。

<かず>ある中で
<かずかず>の、<かずかず>ある
<かず>かぎりなく、
<かず>に入れておく
ものの<かず>ではない
<かず>にものをいわせる

関連語としては<そえる>(か+そえる)、<そろえる>、<かさむ>、<かさねる>がありそうだが、関連性はいまいち。

<計算ずく>というおもしろい言い方があるが <かぞえずく>、<かずずく>という言い方はない。<かずずくめ>はあるか?

<計算ずく>の三省堂の新明解国語辞典の解説は

自分に損にならないように、よく考えたり、先の先まで成り行き読んで、行動したり、すること

とあるが最後の<行動したり、する>は余計で<....... 読んで>の意だ。

ところで、<計算ずく>の<ずく>だが、<基(もと)づく>の<つく>で<計算づく>、すなわち<計算><に基づく>ではなく、<透く>の<ずく>のようだ。<先の先まで読む>ためには<先の先まで><透けて>見えないといけない。したがって、<読む>の比喩的な使い方として<かぞえる>、<かずに入れる>、<かずに入れておく>があることになる。

力ずく、腕ずく、金ずく、納得ずく、といった言い方があるが、これも<透く>の<ずく>だろう。<xx ずくめ> もこのグループだろう。

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Monday, July 8, 2013

まく、巻く、撒く(蒔く)、相手を(煙)に巻く


前回のポスト ’<見舞う>の語源’ で<巻く-->舞う>ではないかと書いた。真偽は別として、<巻く>の<まく>は<巻く>以外に<水を撒く>の<撒く>、蒔絵の<蒔く>がある。いづれも仮名で書けば、あるいはもっと原始的に発音したり、耳で聞くときは<まく(ma-ku)>の一つだ。東京発音では<巻く>の<まく>は ku にアクセントがあり(あるいは ma にも ku にもアクセントなしか)、<撒く>、<蒔く>は ma にアクセントがある。<撒く>、<蒔く>は<xx を yy でおおう>で基本的には同じような意味。<巻く>の方は<あるモノ(コト)のまわりを何かが一まわり以上する、何かで一まわり以上させる>ことで、<撒く>、<蒔く>とは関係なさそうだ。下線をつけた<まわり>は前回のポストの

巻く-->舞う

と関連がありそう。

まく-->まう (舞う)-->まわる、まわす

中間の< まう (舞う)>を除いても、<巻く>と回(まわ)る、回(まわ)す、は明らかに意味上の関連がある。

<追っ手を巻く>という表現がある。三省堂の新明解国語辞典に<巻く>の項目の中で次のような?マーク付きで解説がある。

(1)の用法(<巻く>の一般的な解説)の用法にもとづき、相手をいたずらにぐるぐる回り続ける結果に終わらせる、の意からきたか?

?マーク付きなので、?マーク付きで私の意見を述べれれば、

相手を煙に巻く、という表現があり、 <追っ手を巻く>とは<追っ手を><煙に巻く>、の意からきたか?

となる。

さて、この<巻く>だが、たいそう広範囲に活躍する。

任(まか)す、賄(まかな)う、は漢字で書くと見えにくくなるが、まかす(ma-ka-su)、まかなう(ma-ka-na-u)で<まく(ma-ku)>と関連がある。この場合の<まく>は<巻く>の<まく>だ。<巻く>とはどういうことかというと、上述のように<あるモノ(コト)のまわりを何かが一まわり以上する、何かで一まわり以上させる>ことで、特に他動詞の場合は<あるモノ(コト)の>に制限、拘束をくわえることを意味する。<巻く>を<(ぐるぐる)しばる、しめる>とすればこの意味が鮮明になる。但し、<しばる、しめる>や<巻きつける>にくらべると<巻く>は制限、拘束の度合いが弱く、<あるモノ(コト)>は動く自由がある。動く自由があるが、制限、拘束をくわえれれている、ということだ。これは重要なことで、大げさに言えば、法治国家、民主主義にかかわってくる。こう説明すれば、任(まか)す、賄(まかな)う、が<巻く>と関連があることが推測できよう。

任(まか)す - あるモノ(コト、ある人)にある程度の自由をあたえてxx させる、の意だ。
賄(まかな)う - あるモノ(コト、ある人)からにある程度の自由をあたえられてxx する、の意だ。

さらに、少し想像力のある人には<ぐるぐる巻く>が<撒く>、<蒔く>の<xx を yy でおおう>と関連があるのは明らかであろう。もう少し想像力のある人には<まくる>、<めくる>、<めぐる>、<曲(ま)がる>、<曲げる>、さらには<向(む)く>、<向(む)ける>、またさらには<報(むく)いる>も<巻く>関連の語群と思えるのではないか。

<巻く>から離れるが、この意味では<囲む>も<巻く>に似ており、囲まれた<あるモノ(コト)>は動く自由がある。動く自由があるが、制限、拘束をくわえれれている。これは意識上、したがって言語上(言語は意識を反映している)の重要なコンセプトだと思う。


sptt 





Saturday, July 6, 2013

<見舞う>の語源


<見舞う>の語源を時々考えているが、確かそうな回答が見つからない。このポストは中間報告。

<見舞う>には少なくとも関係なさそうな二つの意味がある。

1)病人を見舞う、被災地を見舞う
 2)パンチを見舞う、関東地方を水害が見舞う、関東地方が水害に見舞われる(他動詞の受身だが、被害、迷惑の意もふくまれるようだ)

<見舞う>は助詞<を>をとるので他動詞。名詞(体言)は<見舞い>だ。丁寧にいえば<お見舞い>。したがって、1)2)は次のようにも言える。

1)病人をお見舞いする(または、病人のお見舞いをする)、被災地の見舞をする
 2)パンチのお見舞いをする、水害のお見舞いを受ける(ふざけた言い回しのようだが、可能だ)

1)の<病人を見舞う、被災地を見舞う>の<見舞う>は<訪れる>、<たずねる>でもいいが、 一般的な言い方だ。一方<見舞う>は対象が病人、被災地と不利、困難な状況にある人、ところの場合の専用だ。これは2)パンチを見舞う、水害に見舞われる、に関連するようだが、意味は違う。2)はあくまで<害>を与えることで、 不利、困難なな状況にある人、ところを<訪ねる>とは根本的に違う。

 1)2)のどちらか元来の意味で他方派生的な用法と考えることができるが、それではどちらが元来の用法か。言葉の歴史を調べればわかるだろう。

<みまう>の<み> は<見る>の<見(み)>でいいと思うが、問題は<舞う>だ。<舞(まい)を舞(ま)う>と言うが、<舞>、<舞う>と1)<訪れる>、<たずねる>(病人や被災地の人々を見に行って舞を舞うわけではない)、2)害をあたえる、といったいどういう関係があるのか? 

<まい>は<まう>の連用形名詞(体言)用法。いかにも大和言葉のようだが、大和言葉には<おどりをおどる(踊りを踊る)>の<おどる(o-do-ru)>がある。これはかなりの高確率で大和言葉だ。一方<舞う>の<舞>は現代中国語(普通語、北京語)で<wu>(四声は無視)と発音するが広東語では<mou>(これも六声だか七声は無視)で<まう>と関連がありそう。なお、中国語では名詞も動詞も<舞>のひとつだ。<おどる(o-do-ru)>に比べれば<まう>がで大和言葉である確率はそう高くない。

推測-1)<訪れる>、<たずねる>に関してはは<まいる(参る>という大和言葉がある。見にまいる --> 見まいる --> 見まう、の変化は考えられないか?

推測-2)<舞い上(あ)がる>、<舞い降(お)りる>という言い方がある。<舞い下がる>とは言わない。この<舞(ま)う>は<巻(ま)く>に近い。ぐるぐる巻きながら(回わりながら)上がり、降りる、のだ。<ホコリが舞い上がる>、<竜(りゅう)が舞い上がる(降りる)>、<ヘリコプターが舞い上がる(降りる)>だ。<蝶のように舞い、蜂のように刺す>ボクサーがかなり前にいたが、私の観測では蝶は<ひらひら舞う>だけで<舞い上が>ったり、<舞い降り>たりはしない。<巻く> --> <舞う>は考えられないか?これはさらにもうひとつ意味上の関連がある。<舞い降りる>は<上から降りてくる>のだが、これは<予期せぬモノ>が現れることもあらわす。さらには<予期せぬコト>が現れることもあらわす。<予期せぬコトが現れる>のはよいコトの場合もあるが、悪いことの場合は<災害>だ。<災害>は<舞い降りて>くるのだ。これで2)の<パンチを見舞う、関東地方を水害が見舞う>の説明はつく。さて1)の<病人を見舞う、被災地を見舞う>だが、今は電話などで都合を聞いてから<見舞う>が、これは本来相手が<予期しないのに現れる>ことではなかったか?昔は電話という文明の利器はなかった。

sptt

Sunday, June 30, 2013

取る、とらえる、探す、求める


このポストは、別のポスト ”ドイツ語の接頭辞(prefix)-1、<er->” の挿入部に手を加えたもの(ほぼそのコピー)。コピーだけでは独創性がないので、これに<探す>、<求める>を加えた。

<取る>は<手に取る>が具体的だが<手に入れる>としてはじめて<得(え)る>、<獲得する>になる。<取る>, <手に取る>は<手に入れる><得る>、<獲得する>とはあまり意識しないが大きな違いがる。の違いをかなりはっきり分ける民族、言葉がある。これを調べているうちに日本語に関して同じような関係を探し当てた。

取(と)る - とらえる (捕らえる、と漢字を使うと見えなくなる)
掴(つか)む - つかまえる (捕まえる、と漢字を使うと見えなくなる)
押(お)す - 押さえる (抑える、と漢字を使うと見えなくなる)
踏(ふ)む - ふまえる(踏まえる、とはあまり書かない)
思う(古くは、おぼゆ、おもほゆ) - おぼえる(覚える、と漢字を使うと見えなくなる)


以上はいずれも五段活用の動詞で<動詞未然形+える>の形式。意味としては、

とらえる -  取って得る
つかまえる - つかんで得る
押さえる - 押さえて得る
ふまえる - ふんで得る
おぼえる - 思って得る

(<ふまえる>の辞書の解説に<すでに得たもの、現在直面すものや将来の成り行きをよく見た上で、何かをする>というがあったが、<ふまえる>に<何かをする>の意味はない。)

やや微妙だが
かかえる - か(掻)いて得る(持つ)
くわえる - (食(く)って持つ  (ほとんど使わないが、銜える、と漢字を使うと見えなくなる)

も同類だろう。 

いづれも<xxて(して)得る>、<持つ> の意だ。

一方可能形は 

取(と)る - れる (とりえる、ともいえる)
掴(つか)む - める
押(お)す - せる
踏(ふ)む - 踏める
思う - 思える
食う - 食える
掻(か)く - 掻ける

となり、<動詞仮定形+る>の形式。

かなり微妙(あるいは?マーク)だが、また得る>、<持つ>とあまり関係がなさそうだが、

ひかえる -  引く - 引ける
ささえる  - さ)す - せる  (<差す>は<差し上げる>の<差す>だ
たたえる - 立つ - 立てる
かまえる - かまう(噛(か)む、は違いすぎる)
むかえる(迎える、と漢字を使うと見えなくなる) - 向かう
つかえる - 尽く(尽きる、の意)
こらえる - 凝(こ)る

も<得る>に関係ありそう。

単なる偶然の一致だが<er->と<える(eru)>は発音も似ている。

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<探す>、<求める>は特殊な動詞だ。

<探す> は<探し当てる>と違う。英語の to find は<探す> ではなく<探し当てる>、<見つける>だ。

きのう一日中探したが、見つからなかった(探し当てなかった、探し当てられなかった)。
きのう一日中探したが、探さなかった(探せなかった)、は特殊状況以外変な日本語だ。
きのう一日中探そうとしたが、探さなかった(探せなかった)、もやや変だ。
きのう一日中探そうとしたが、探そうとしなかった、変な日本語だ。

英語はI tried to find it all day yesterday but did not (was not able to) find it.
<探す>の英語は<to look for, to search for、 to search something forで look 自体は自動詞。 search to search for では動詞to search something for では他動詞。for に<求めて>の意がある。逆にいうと、日本語では<xx を求めて yy を探す>で<求める>という<を>をとる他動詞を使う。

<求める>はどうか?

きのう一日中求めたが、なかった(求められなかった)、は変な日本語だ。
きのう一日中求めうとしたが、なかった(求められなかった)、変な日本語だ。

英語はI was asking for it all day yesterday but did not asked for it. これは変な英語だ。
<to ask for >は<to try to obtain by requesting>の意で、

 I was asking for it all day yesterday but did not get (was unable to get) it. が正解。 

この場合、英語の ask  自体は自動詞

日本語では<さがす(探す、捜す)>も<求める>も<を>とり、ともに他動詞。

刑事は手がかりを求めて部屋中を捜した。 
 
一般の動詞は次のようになる

る>
きのう一日中取ろうとしたがたが、取れなかった。
きのう一日中取ろうとしたがたが、なかった 、は変な日本語だ。
きのう一日中たが、取れなかった 変な日本語だ。

る>
きのう一日中見ようとしたが見られ(見れ)なかった。
きのう一日中見ようとしたがなかったは変な日本語だ。
きのう一日中たが、見なかった見られなかった)、も変な日本語だ。


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