Thursday, October 29, 2020

はぶく(省く)、はしょる、きりつめる

 

<はぶく>はコンピュータワープロでは<省く>とでてくるが、何かしっくりしない。 <省>が強く<省略>や<反省>を連想させるからだろう。やまとことば<はぶく>は漢語<省略>で置き換えられると思うが、<はぶく>と<省略>では意味あるいはニュアンスに違いがありそうなので、思うが念のためチェックしてみる。

ネット辞書のWeblioでは

はぶ・く【省く】

[動カ五(四)]

不要のものとして取り除く。「説明を―・く」

全体から一部取り除く。減らす。また、節約する。「手間を―・く」「時間を―・く」

分け与える

貧しき民に財を―・き」〈太平記・三四〉

[可能] はぶける


となっている。3)分け与える>は古語だが初めて知った。

<ぶく>がつく語を探してみる。

あぶく(名詞) - <ぶくぶく>という擬音語(擬態語か)がある。<吹く>が連想される。
いぶく(息吹く)
うそぶく(嘯く) - 漢字の<嘯く>が読める人、書ける人はそう多くないだろう。これも<吹く>が連想される。
はぶく
ふぶく(吹雪く) -<息吹く>からすると<ふぶく>は<吹吹く>ではないか?
やぶく

<はぶく>が関連ありそうなのは<やぶく>だけで、他は<吹く>関連だ。

意味にもどると

不要のものとして取り除く。「説明を―・く」

では<不要なものとして>が肝心だ。ただ<取る、取り去る>、<除く>ではない。<のぞく(除く)>一般的、中立的な意味をもつ。


全体から一部取り除く。減らす。また、節約する。「手間を―・く」「時間を―・く」

これは

2-1 全体から一部取り除く。減らす。

2-2 (あるいは独立させて) 3. 節約する。「手間を―・く」「時間を―・く」

と分けるべきだろう。

2-1 <全体から一部を取り除く>はかなり一般化された表現で、そのままでは<はぶく>にならない。

2-2 <手間をはぶく>、<時間をはぶく>は節約だろうか?<節約>は基本的に不具合、不便(ふべん)なしでメリット(多くは金銭的価値のメリット)が期待されるが、<手間をはぶく>、<時間をはぶく>はメリットが前面に出てこない。場合によっては相手、他人に迷惑がかかる。<はぶく>は節約する(to save)ではない。中国では<省時>という表現がある。これは to save time だろう。ここでも肝心なのは<不要なものとして>してだが、だれが<不要なものとして>と考えるかが問題だ。

太郎が(花子の作文を読んで)花子に<このところはぶいてしまえ。>と言った場合、太郎は<ある箇所を不要なものとして(考えて)>いるが、花子は往々ににして<(その個所を)不要なもの>とは考えていない。極端になるが世に中に<不要なもの>はないとすると<はぶく>は意味がなくなる。反対の極端はミニマリズムで、<不要なもの>をできるかぎり除いた(つまりは<はぶいた>)ところに美がある、と考える。したがって<はぶく>はミニマリズムのキーコンせプトだ。だが、これまた何を不要なもの>と考えるかで段階がある。極端すぎると美をうしなう。ミニマリズムの美やエレガンスは<要-不要>の微妙なバランスが生み出す。

<反省>相当のやまとことばに<かえりみる>がある。<かえりみる>は<返り見る>だが、<かえりみる>はコンピュータワープロでは<顧みる>、<省みる>とでてくる。一方<かえりみない>は<反省しない>というよりは<無視する>、すなわち<考えない(考慮しない)、見ない>ことだ。ここで<はぶく>にもどると、

 不要なものとして -> 必要なものとして考えない(考慮しない)、見ない

 はもちろん、もっと一般てきな

xx を考えない(考慮しない)、見ない、を適用すると

手間をはぶく = 手間を考えない(考慮しない)、見ない

時間をはぶく = 時間をを考えない(考慮しない)、見ない

る。これはあきらかに<手間を節約する>、<時間を節約>ではない。

<はぶく>と似て非なるやまとことばとして<はしょる>と<きりつめる>がある。

<はしょる>は<端折る>、(長いモノの)<端を折る>で、端を折り取って短くすることだ。<話をはしょる>とか<はしょって話すと>のように使う。今は<簡単に話す><てみじかに話す>が優勢のようだ。

不要なところははしょって

はややおかしい。

不要と思うところははしょって
あまり重要でないところははしょって

なら自然だ。これは<はぶく>でも同じだろう。

<きりつめる>は<切り詰める>で、(長いモノの)一部またはところどころを切り取り、さらに切り取ってあいたところは詰めて短くすることだ。こうすると連続がたもたれる。<はしょる>よりも高度な手法で(長いモノのを)短くする。<生活を切る詰める>、<家計を切る詰める>のように使うがかなり高度なやまとことばと言える。


sptt

Sunday, October 25, 2020

時間のやまとことば-3 <ものごと>

前回のポスト<時間のやまとことば-2 時の流れに身をまかせ>で、<時の流れに身をまかせ>と<川の流れに身をまかせ>の比較をしたが、自分で書いた内容を何度か読んでいるうちに<とんでもないコト>発見した。忘れないうちに書いておく。その個所はこうなっている。

<ときの流れに身をまかせ>のアナロジーとしてすぐ思い浮かぶのは<川の流れに身をまかせ>で、<川の流れに身をまかせて>流れていく(動いていく)木(こ)の葉を自分(歌詞の主人公)にたとえることだ。しかし少しよく考えて見ると<川の流れ>と<ときの流れ>では様相がかなり違う。

1)<川の流れ>は見ることができる。第三者はもちろん、木の葉になったとして自分でも見ることができる。

2)<川の流れ>では木の葉は、水の上に浮かんで、ほぼ<川の流れ>とともに流れていく。これも第三者はもちろん、木の葉になった自分でも見ることができる。大雑把にいうと、川の水は流れて(動いて)いくが、まわり(の景色など)の大部分は動いていない。すくなくとも川の水は流れほど速くは動いていない。木の葉になった自分は<まわり>とは別の世界にいることになり<時の流れに身をまかせ>(ている女性)とは根本的にちがう。

3)<川の流れ>は大小、速さを問わず曲がりくねって進む。少なくともまっすぐには進んではない。

4)<川の流れ>は基本的に逆戻りしない。

以上<川の流れ>に対し。<ときの流れ>、<とき>はきわめて特殊なしろもので

1)<ときの流れ>は見ることができない。<ときの流れ>は感じることはできるが人それぞれに違い、他人の<ときの流れ>感じは基本的にわからない。

2)<川の流れ>の木の葉にたとえると、<ときの流れ>とともに自分が流れていくことになるが、この<ときの流れ>は第三者はもちろん、自分で見ること、感じることはまずできない。したがって<川の流れ>の木の葉のように、<ときの流れ>とともに自分が流れていくとはきわめて考えにくい。あるところに止まっていても(少しは動いてもいいが)<とき>は流れれていく。<とき>は目に見えないので<流れていく>というよりは、<(どんどん)過ぎ去っていく>感じだが、これも確かではない。そしてまわりはそれこそさまざまに変化する。自分が見ている変化はほんのごく一部で、見ることができないまわりにの変化の方がはるかに多い。一方<とき>はこれらすべての変化に直接ではないが関与している。言い換えると、これらすべての変化を見ている感じだ。

3)<ときの流れ>は目には見えないが、感じとしてはまっすぐ進む、あるいは過ぎ去っていく。曲がりくねって進んだり、特に曲がりくねって過ぎ去っていくとき>は想像しがたい。

4)<ときの流れ>も基本的に逆戻りしない。 (共通点はこれくらいではないか) 

ポイントはそれぞれの2)。繰り返しになるが

川の流れ


2)<川の流れ>では木の葉は、水の上に浮かんで、ほぼ<川の流れ>とともに流れていく。これも第三者はもちろん、木の葉になった自分でも見ることができる。大雑把にいうと、川の水は流れて(動いて)いくが、まわり(の景色など)の大部分は動いていない。すくなくとも川の水は流れほど速くは動いていない。木の葉になった自分は<まわり>とは別の世界にいることになり<時の流れに身をまかせ>(ている女性)とは根本的にちがう。

大雑把にいうと、川の水は流れて(動いて)いくが、まわり(の景色など)の大部分は動いていない。

の<まわり(の景色など)の大部分>は基本的にはモノだ。

ときの流れ

2)<川の流れ>の木の葉にたとえると、<ときの流れ>とともに自分が流れていくことになるが、この<ときの流れ>は第三者はもちろん、自分で見ること、感じることはまずできない。したがって<川の流れ>の木の葉のように、<ときの流れ>とともに自分が流れていくことはきわめて考えにくい。あるところに止まっていても(少しは動いてもいいが)<とき>は流れれていく。<とき>は目に見えないので<流れていく>というよりは、<(どんどん)過ぎ去っていく>感じだが、これも確かではない。そしてまわりはそれこそさまざまに変化する。自分が見ている変化はほんのごく一部で、見ることができないまわりにの変化の方がはるかに多い。一方<とき>はこれらすべての変化に直接ではないが関与している。言い換えると、これらすべての変化を見ている感じだ。

” 

あるところに止まっていても<とき>は流れれていく。. . . . . そしてまわりはそれこそさまざまに変化する。自分が見ている変化はほんのごく一部で、見ることができないまわりにの変化の方がはるかに多い。一方<とき>はこれらすべての変化に直接ではないが関与している。言い換えると、これらすべての変化を見ている感じだ。

で<見ることができないまわりにの変化>はは基本的にはコトだ。

わかりやすく対比させると

川の流れ

自分が流れる(進む、動く)。 - まわりモノは動いていないが、後ろへ去っていく。

ときの流れ

自分はあるところに止まっている。- ときが流れる(進む、たつ、去っていく)>にしたがって、まわりのコトは変化していく。

これはみごとな対比といえる。<ものごと>、<ものごと>のモノとコトを手もとの辞書(三省堂新辞解6版)で調べてみて、前に調べた跡があるが、今回はおどろいたいた。

1)ものごと

辞書の解説はごく簡単で

思考、行動の対象となるすべて。


これだけ。前に英語の thing(s) と<ものごと>を対比したことがあるが thing(s)の方は<もの><ごと>も含まれていて超一般化された言葉。いわば<世の中の対象となるすべて>とでもなるか。一方日本語のモノは<思考、行動の対象となるすべて>とあるが、別にコトがある。モノとコトはどこが違う。

2)もの

辞書の解説は<ものごと>の解説よりかなり長く

① (事、状態などに対して)見たり、さわったりして実際にあるとことが確かめられる具体的な形、大きさなどをそなえた一つひとつ。

② (物質、物資、物品など)行為を向ける(意志や欲求をいだく)対称としてとらえた(もの)

③ (抽象的な存在である)何らかの思考や判断の対象となるひとまとまりの内容(をそなえた事物や事柄)。

説明のなかで<もの>が使えないので、かなり苦労したあとがうかがえる解説だ。③は<見たり、さわったりして実際にあるとことが確かめられる具体的>なモノでないくてもいいことになる。

3)こと

一方<こと>の解説も長く、例をいれると1/ 3ページ以上を使っている。<ものごと>の一行の半分程度の<思考、行動の対象となるすべて。>だけとはえらい違いだ。

① 人間が経験する対称のうちで、時間とともに変化していくと考えられるもの。またその変化過程、事態。

② 人間の行為の一こま。


英語では event(s) がよく使われる。これは<②人間の行為の一こま>相当だ。 <event(s)> の日本語訳は普通<できごと、出来事>だ。 <event(s)>は①の意でも使われるが、<できごと、出来事>が先に頭に浮かぶので、かなり一般化された①の意を含む<こと>に比べると一般化が低いようだ。 

① 人間が経験する対称のうちで、時間とともに変化していくと考えられるもの

となっているので コトはモノの一種になる。違いは<時間とともに変化していくと考えられる>で、モノの解説の方にはなかったが、コトと区別しようとすれば 

2)もの

① (事、状態などに対して)見たり、さわったりして実際にあるとことが確かめられる具体的な形、大きさなどをそなえ、<時間とともに変化していかないと考えられる>一つひとつ。

② (物質、物資、物品など)行為を向ける(意志や欲求をいだく)対称<で、時間とともに変化していかないと考えられる>としてとらえた(もの)

③ (抽象的な存在である)何らかの思考や判断の対象となるひとまとまりの内容<で、時間とともに変化していかないと考えられる内容>(をそなえた事物や事柄)。

これではわかりにくいが、まとめて言えば<時間とともに変化していかないと考えられる、世の中の、具体的、抽象的をとわず、認識できる対称すべて>とでもなるか?

ポイントは時間とともに変化していくもの(認識できる対称)がコトで、時間が流れて(過ぎて、たって)も変化していかないと認識できる対称>がモノと言える。

この日本語のモノとコトの区分は大きな意味をもっており、モノ、コト両刀使いのカメレオンみたいな英語の thing(s) とは大いに違う。<thing(s)>があるため時間とともに変化していくコト相当の英語に意味限定的な、一般化が進んでいない event(s) が使われているのかもしれない。だがコトはそう簡単ではない。

さて、これをもとの<川の流れ>と<ときの流れ>の対比にもどると

川の流れ

自分が流れる(進む、動く)。 - まわりモノは動いていないが、後ろへ去っていく。

だが、<とき>を前面に出して言い換えてみる。

川の流れ

<ときの流れ>とともに自分が流れる(進む、動く)。 - まわりモノは動いていないが、後ろへ去っていく。

<流れ、(目に見える)進み、動き>は<ときの流れ>(時間の経過)がないと実現しない。

一方 <時の流れ>は繰り返しになるが

ときの流れ

自分はあるところに止まっている。- ときが流れる(進む、たつ、去っていく)>にしたがって、まわりのコトは変化していく。

これで対比がさらにはっきるする。発見した<とんでもないコト>とは、期待はずれかもしれないが、この対比(の内容)のことだ。

もう一歩進めて、<川の流れ>と<ときの流>をあわせると

 <ときの流れ>ともに自分が流れる(進む、動く)。 - 1)まわりモノは動いていないが、後ろへ去っていく。さらに 2)ときが流れる(進む、たつ、去っていく)>にしたがって、まわりのコトは変化していく。

となるが、これも可能だ。 足し算になるのか掛け算になるのか?はたまた別の計算になるのか?英語の time は動詞(to time)として掛け算の<かける>の意味がある。A times B. = A x B。これは深い意味があるのか?

英語のモノ、コト両刀使い、カメレオンの thing(s) で言い換えれば

<ときの流れ>ともに自分が流れる(進む、動く)。 - まわりの1)things は動いていないが後ろへ去っていく、と同時に<ときの流れ>とともにまわりの2) things は変化していく。

日本語は1)と2)の区別1)モノと2)コトは区別があるが、英語ではこの区別がないので意味があいまいになる。

何が何だがよくわからなくなったが、とりあえずここまでとし、後日の再検討に期待。 

 

sptt


 

Saturday, October 24, 2020

こんにゃく問答



<こんにゃく問答>というのは<こんにゃく>みたいにとらえどころのない問答と思っていた。実際には聞いたことも、使ったこともなかった。たまたま香港人の友人から<<こんにゃくとは何だ?>ときかれたので、よく<おでん>にはいっている特に味のない、とらえどころのない食べ物、と答えておいた。今は一般的なことならネットでなんでもすぐに調べられるので調べてみた。<こんにゃく>についてはネットでは詳しい説明がたくさんある。今書いたようにネットでなんでもすぐに調べられるので友人の<こんにゃくとは何だ?>は<こんにゃく問答とは何だ?>ではないかと思って、日本語以外ならあまり一般的でない<こんにゃく問答>を調べてみた。調べたところ、<こんにゃく問答>は落語の題名で<とらえどころのない問答>ではないのがわかった。しかしこれまでの長いまちがった思い込み<とらえどころのない問答>でもよさそうな気がする。これまた今はネットで落語が聞ける、見れるのでさっそく落語の<こんにゃく問答>を聞いてみた。この落語の最後のオチは手のジェスチャーなので、聞いただけではオチがわからない。つまりビデオか実演を見ないとわからないのだ。そこでほかのの落語家のビデオを見てみた。内容はこんにゃく屋が、ある事情から坊主(禅宗か)になりすまして本物の坊主と問答(禅問答か)するというもの。そして問答の最後にオチとして<こんにゃく>がほんの少しだけ出てくるだけだ。したがってこの落語は<こんにゃく問答>は間違いではないが、<こんにゃく屋(の)問答>の方がいいだろ。<こんにゃく屋(の)問答>であったら、私の思い違いはなかっただろう。

少し前のポスト<とうなす(唐茄子) / カボチャ>のなかで落語の<唐茄子屋政談>に触れた。内容は<政談>からはかけ離れていてなぜ<政談>というのかよくわかなない。

<こんにゃく>はコンピュータワープロで<蒟蒻>と出て来る。まあ書ける人はいないだろう。漢字を使わず<こんにゃく>と書いても教育程度は疑われない。だが漢字を無視しても<こんにゃく>は純やまとことばではないだろう。

現代中国語(北京語、普通語)の発音(ピンイン(発音記号)は jǔruò なので<こんにゃく>とかけ離れている。しかし漢字をよく見ると<蒟蒻>で草かんむりは植物をあらわし、草かんむりの下が発音や意味を示す。二番めの下は<弱>で現代日本語では<じゃく>。<じゃく>は jaku 。<j>は<i>に近い。<じゃく>は<いゃく>に近い。まえの語が<n>で終わっていればリエゾンで<にいゃく>ー><にゃく>になる。問題は前の<蒟>で、発音は<句>がになっていると考えられる。現代中国語(北京語、普通語)の<句>の発音は<ju>でこれは上の<jǔruò>の<jǔ >だ。<ju>と<こん>はまったく違うように見える。一方広東語の<句>の発音はgau (かう)。似た字に狗(犬のこと)があり、こちらのほうは北京語で gou(こう)広東語で gau(かう)と発音する。<句>の発音はgau (かう)は<こう>とも聞こえる。もっと正確には<かう>と<こう>の中間。二つ合わせると

こう+やく -> こうやく

近くはなるが<う>と<ん>が大いにちがう。昔の日本人の耳はテレビやビデオがなかったせいか現代人の耳よりよく、中国語の n と ng を聞き分けていた。 n は<ん> ng は<う> と聞き、書いていた。だが、gang を<かう>と聞き、書くのならいいが gau(かう)、gou(こう)は<こん>にならない。

もう少調べてみた。

ネット辞書では<「菎蒻」とも書く。>とあり、これならたいした解説なしに<こんにゃく>になる。だが中国語版Wikiでは

日本稱為「菎蒻」(片假名:コンニャク)

とあるので、本家の中国では昔から蒟蒻のようだ。こういう詮索は一種の<こんにゃく問答>だろう。




sptt

Thursday, October 22, 2020

時間のやまとことば-2 時の流れに身をまかせ

 前回のポスト<時間のやまとことば>で、時間のやまとことばの代表<とき>の例として<時の流れに身をまかせ>を取り上げたが、特に解説はしなかった。実際は解説を加えようとしたが、いい考えが浮かばなかったのだ。前回のポストは総論というか、かってに思いつくままを書いたような内容で<すじ>がない。いわばこれは第一段めの踏み台で、もっと<すじ>があるような内容にしないとけないと思っていたが、話が限りなく続きそうだったので、とりあえず終わりにしておいた。

さて<時間のやまとことば>の第二弾(段)として<時の流れに身をまかせ>を再度考えて見た。<時の流れに身をまかせ>は台湾の歌手(歌姫)のテレサテンの代表曲の一つの題名で、もとの中国語の題名は<我只在乎>、と思っていたが、これは間違いで日本語の<時の流れに身をまかせ>が先で<我只在乎>は台湾の中国語訳なのだ。中国語版歌詞では<任時光匆匆流去 我只在乎你>と出て来るが、なぜか歌の題名は前半の<時の流れに身をまかせ>に相当する<任時光匆匆流去>ではなく後半の< 我只在乎你>となっている。これ(我只在乎)はこの箇所の日本語にはない。英語の題名は< 我只在乎你>の訳で I only care about you. で只= only の位置も同じだ。<時の流れに身をまかせ>は音節が長すぎるので、音節合わせのために加えたのだろう。<時の流れに身をまかせ>は題名だが歌詞に中にも繰り返しでてくるので、印象に残る。歌詞を全部チェックしてみたが<時の流れに身をまかせ>は前後の歌詞内容からすると宙に浮いている、あるいは唐突な感じがする。これは、憶測になるが、作詞者は

<時の流れに身をまかせ>が気に入ったが、関連するいい文句(歌詞)がでてこなかった。しかし<時の流れに身をまかせ>をなくしてしまうのは惜しく<宙に浮いている、唐突な感じ>があるとは知りながら使った。

のではないか。しいて歌詞内容との関連を探そうとすれば歌全体に<時の流れに身をまかせる>女性象がある。歌詞内容の理解は男と女、年齢(人生経験)、信条などの違い人でさまざまだろう。

本題の<時の流れに身をまかせ>の<時(とき)>の意味だが、これは<時間>の<とき>でも<なんとなく>いいが、これからのべるように純粋な<時間>の<とき>ではつじつまがあわない。<時間(じかん)の流れに身をまかせ>では女性象が浮かんでこない。<なんとなく>と書いたのはやまとことばの<とき>には時間(じかん)以外の意味があるからだ。<時の流れに身をまかせ>の時(とき)は、時間の流れとともに変化する歌の主人公の女性(わたし)を取り巻く世界のことで、一般化すると(主人公だけでなく人一般)、時間の流れとともに変化するある特定の人を取り巻く世界、と言えそうだ。そしてこの世界は人それぞれで大いに違う。さらに大幅に一般化すると<時間とともに変化する世界>。したがって<時の流れに身をまかせ>は、歌の歌詞としてかたくなるが、<時間とともに変化する世界に身を任せ>となる。やまとことばを使えばソフトになり<ときとともに変わり続ける世に身を任せ>が意味として近いだろう。

以上が歌の<時の流れに身をまかせ>の解釈。しかし解釈するまもなく、普通の日本人であれば、この歌を聴いて歌詞を理解しようとすれば大方このように解釈するだろう。

 さて歌から離れて純粋な<時間>の<とき>をもう少し考えて見る。すなわち<時間のやまとことば>の第二弾。

<ときの流れに身をまかせ>のアナロジーとしてすぐ思い浮かぶのは<川の流れに身をまかせ>で、<川の流れに身をまかせて> 流れていく(動いていく)木(こ)の葉を自分(歌詞の主人公)にたとえることだ。しかし少しよく考えて見ると<川の流れ>と<ときの流れ>では様相がかなり違う。

1)<川の流れ>は見ることができる。第三者はもちろん、木の葉になったとして自分でも見ることができる。

2)<川の流れ>では木の葉は、水の上に浮かんで、ほぼ<川の流れ>とともに流れていく。これも第三者はもちろん、木の葉になった自分でも見ることができる。大雑把にいうと、川の水は流れて(動いて)いくが、まわり(の景色など)の大部分は動いていない。すくなくとも川の水は流れほど速くは動いていない。木の葉になった自分は<まわり>とは別の世界にいることになり<時の流れに身をまかせ>(ている女性)とは根本的にちがう。

3)<川の流れ>は大小、速さを問わず曲がりくねって進む。少なくともまっすぐには進んではない。

4)<川の流れ>は基本的に逆戻りしない。

以上<川の流れ>に対し。<ときの流れ>、<とき>はきわめて特殊なしろもので

1)<ときの流れ>は見ることができない。<ときの流れ>は感じることはできるが人それぞれに違い、他人の<ときの流れ>感じは基本的にわからない。

2)<川の流れ>の木の葉にたとえると、<ときの流れ>とともに自分が流れていくことになるが、第三者はもちろん、自分で見ること、感じることはまずできない。したがって<川の流れ>の木の葉のように、<ときの流れ>とともに自分が流れていくことはきわめて考えにくい。あるところに止まっていても(少しは動いてもいいが)<とき>は流れれていく。<とき>は目に見えないので<流れれていく>というよりは、<(どんどん)過ぎ去っていく>感じだが、これも確かではない。そしてまわりはそれこそさまざまに変化する。自分が見ている変化はほんのごく一部で、見ることができないまわりにの変化の方がはるかに多い。一方<とき>はこれらすべての変化に直接ではないが関与している。言い換えると、これすべての変化を見ている感じだ。

3)<ときの流れ>は目には見えないが、感じとしてはまっすぐ進む、あるいは過ぎ去っていく。曲がりくねって進んだり、特に曲がりくねって過ぎ去っていくとき>は想像しがたい。

4)<ときの流れ>も基本的に逆戻りしない。 (共通点はこれくらいではないか) 

<とき>は<川の流れ>のように前に流れて(進んで、動いて)いく感じはきわめて少ない。どちらかというと<後ろに過ぎ去って>いく感じだが、これも頭の中に描いたものだ。

<とき>は一種類しかないと思うが

将来(未来)のとき
現在のとき
過去のとき 

を考えて見る。

現在の<川の流れ>、<川の流れの水>

はいいが

将来(未来)の<川の流れ>、<川の流れの水>
過去の<川の流れ>、<川の流れの水>

は考えのにくい。一方<とき>は

 現在のとき

は問題ない。というか一瞬の<現在>は一瞬の<とき>ともいえる。一方<とき>には長い<とき>もあれば短い<とき>もあるが、これは少し変で

長い時間
短い時間

と<間(ま、あいだ)>がついた<とき>のほうが自然だ。だが<ときま>という日本語はない。また<だが>だが、<これは少し変で>と書いておいたが<おおいに、まったく変>というわけではない

長いときが過ぎた
長いときをへて
<長いときがたつ、たった>は少し変だ。

短いときが過ぎた
短いときをへて
<短いときがたつ、たった>は少し変だ。 

はやまとことばの包み込むような、またはアナログ的なニュアンスがある(個人差があろう)。したがって、やまとことばの<とき>は<間(ま、あいだ)>のある<とき>もふくむことになる。ここは大事なところなのだが、話は少しそれる。 <ときをへて>の<へて(へる)>は<を>があるので他動詞のように見えるが、これは<を>をとる移動の自動詞のグループだろう。

道を歩く、トンネルを過ぎる

ときが移る
ときは移って

という表現がある。またまた<だが>だが

ときを移す、ときを移して

の<移す>は<移る/移す>のペアで他動詞。ここでは詮索しないが、<ときが / は移る/移す>の<とき>は時間では無いようだ。

さて話は

将来(未来)のとき
現在のとき
過去のとき 

にもどって、<川の流れ(の水)>と違って

<将来(未来)のとき>と<過去のとき>はあるようだ。なぜなら<現在のとき>の前に<将来(未来)のとき>があり(あった)、そして<現在のとき>の後(あと)に<過去のとき>くる、と考えられるからだ。そしてこの三つの<とき><とき><とき>は切れることなく続いている、と考えられる。これはかなりの確率で正しく、物理では時間微分というのがあり、さまざまな現象の時系列の変化を数的に、したがって客観的にとらえる(ひとは数をごまかすことあるがが、数自体はうそをつかない)。時間微分が正しくできる大前提(条件)として時間(とき)が連続であること、がある。だが、またまた<だが>だが、これはひとつのかなり正しそうな見方、考え方にすぎない。 これに関しては<ラプラスの悪魔>というのがある。

Wiki


ラプラスの悪魔(ラプラスのあくま、: Laplace's demon)とは、主に近世・近代の物理学分野で、因果律に基づいて未来の決定性を論じる時に仮想された超越的存在の概念。「ある時点において作用している全ての力学的・物理的な状態を完全に把握・解析する能力を持つがゆえに、未来を含む宇宙の全運動までも確定的に知りえる」という超人間的知性のこと。

もしもある瞬間における全ての物質の力学的状態と力を知ることができ、かつもしもそれらのデータを解析できるだけの能力の知性が存在するとすれば、この知性にとっては、不確実なことは何もなくなり、その目には未来も(過去同様に)全て見えているであろう。

— 『確率の解析的理論』1812年


<力学的・物理的な状態を完全に把握・解析>するには時間微分が多用される。二番めの引用(ラプラス自身の言葉)には<未来も(過去同様に)>とあるが、これは<過去>が確定的なものという前提がある。

以上から<とき>は直線的なもの、また連続したものとなる。もう一つの大問題は<とき>が流れていいく、過ぎていく<方向>だ。これ関連したポストを以前に書いたことがある。一部を引用する。

"

"時間の方向" (sptt Notes on Grammar)

オシロスコープ (Wiki)

Basic Oscilloscope Front Panel Image.

オシロスコープに出てくる波形は時間の経過とともに右へ動いていく(ように見える)。サイン、コサインカーブだとわかりにくいが不規則な山谷グラフでは左から右への移動がよくわかる。たいていは常に動いているが、時間を止めたとして、あるいは写真をとったとすると、x= 0が現在で右側は過去の値を時間軸上に示していることになる。それではx= 0、現在(多分)の左側はなにか?奇妙といえば奇妙で、右端を現在としてその左側を過去の値を<逆の方向の時間軸>で示すようすれば、左端が一番古い値となる。過去の値は古い順に左端から消えていく。このほうが<理>にかなっている。または<直観>を裏切らない。だがオシロスコープが示すものは時間的に<前>の値が位置上、視覚上(感覚的に)<前>にあるわけで統一がとれているともいえる。無意識だが人の目は左から右へスキャンしてものを見ている。

  <川の流れは絶えずして . . . . .>というのがあるが、これだと過去(の川の水、あるいは水に浮かぶ木の葉)は前に進み見えなくなる(消えていく)のでこのオシロスコープの動きと同じになる。

<時間はどんどん去って行く>とい場合<前に去って行くのか>、はたまた<後ろへ去って行く>のか。これは後ろも前もないだろう。時間軸の方向(矢印)はかなり恣意的だ。

では過去の出来事はどんどん去って行く>とい場合<前に去って行くのか>、はたまた<後ろへ去って行く>のか

 "

歩いたり、走ったり、走っている車やバス、電車に乗ると<今見た>景色は<後ろへどんどん去って行く>。一方<これから過ぎる予定の景色は前にある>。だが景色は<とき>ではない。<今見た>景色が<とき>とともに固定されているとすると、あるいは<とき>が<今見た>景色に固定されているとすると<とき>は<後ろへどんどん去って行く>。しかし<とき>は景色に固定されていない。もし景色に感情があれば、どの景色も<とき>が進んでいく、去っていくの感じたりするだろう。<今見た>景色に固定されているのは頭のなかで、過去の出来事、<先ほど見た>出来事は頭の中で記憶にのこる。頭の中の記憶容量は限られているので記憶に残る過去の出来事はごくわずかだ。だが過去の出来事として残ることは残る。これからすると過去の<とき>は頭の中で記憶のなかに<去って行く>といえる。そして頭の中の記憶内容はかなり固定的だ。だが、これもまた一つの見方、考え方にすぎない。

 

sptt

 

Saturday, October 17, 2020

時間のやまとことば

時間のやまとことばと問われれば<とき(時)>と答えるだろう。間違えではないが、掘り下げが足りない。時間を掘り下げて考えると哲学的になる。

漢字の二文字<時間>はやまとことばでは二つあるいは三つに分けられる。

時 - 1)とき
間 - 2)ま、3)あいだ

1)とき

とき(時)の慣用句(文)

ときに
ときには
時々(ときどき)
ときおり
ときたま

このとき、そのとき、あのとき

とき(すでに)おそし
時は元禄
ときをおかず
時を経た
時がたてば
時がすぎれば

太郎が来る時、 太郎が来たとき

時は金なり。
時の流れ、時の流れに身をまかせ

お寺の鐘(鳩時計)が時を告(つ)げる。
時計が時を刻(きざ)む。

(追加予定)

これだけでは分析が難しいので、対比のため<ま>の慣用句(文)をチェックしてみる。

2)ま(間)の慣用句(文)

まあい(間合い)
まぢか(間近か)
まぬけ(間抜け)

間に合う、間に合わない
まもなく (間もなく)

まがさす  <まがさす>はコンピュータワープロでは<魔がさす>と出て来る。
間が抜ける

間を置く
間を取る 英語で to take a break という慣用句がある。

あいま(合い間)    仕事のあい間を見て
いま (?)
すき間   普通は空間的な<ま>だが、<花子がいないすきに>という言い方があるが<すき間>とは言わない。

ひま(暇は当て字だ)

見るまに
まばたきするまに

待つまもなく

いつのまに
いつのまにか

鬼のいぬ間に

(追加予定)


ついでに<あいだ>もチェックしておく。

3)あいだ(間)の慣用句(文)

このあいだ
そのあいだに <そのまに>は少しちがうか?
待つあいだ、太郎が行っているあいだに、花子がいないあいだに
( 待つま、行っていまに、花子がいなまに、でもいい。)

鬼のいないあいだに (鬼のいぬ間に)

(追加予定) 

 さて以上の三つをくらべてみる。

あいだ>は大体<ま>で置き換えられる。例が少ないが上の例では<このあいだ>は<このま>で置き換えられないが、その他か置き換えられる。話を簡単にするため、<とき>と<ま>を比べてみる。上の例のうち

ときに
ときには
時々(ときどき)
ときおり
ときたま 

は副詞で慣用表現。<ときには>、<ときどき>、<ときおり>、<ときたま>は時間<とき>というよりは頻度。頻度というと、英語では

always
usually
often
sometimes
seldom
never

というのを中学生のときに頻度順で覚えさせられた記憶がある。 sometimes が<ときどき>相当。最期の s がない sometime は平叙文での<いつか>。<いつのときにか>は<か>がつくが、平叙文での<いつか>と同じ意味になる。逆に<か>のない<いつのときに>疑問文で使える。anytime は<いつでも>。なぜか sometime は疑問文でも意味がかわらず<Will you come back sometime ?>となる。これは some は平叙文、any は否定、疑問文

I have some apples.
I do no have any apples
Do you have any apples?

という文法ルールに反するといえる。なにか理由があるのか。また頻度そのものを問うときは how often、how frequently を使う。

How often (frequently) do you do exercise every week ?

この文で every week がないと

How often (frequently) do you do exercise ?

でもいいが、答えは

I do exercise. では答えにならず

I do exercise every day, once a week, two to three times a month. 

などとなる。ここで times がでてくるが、これは時間ではなく頻度の度合をあらわす。

How often (frequently) do you do exercise every week ?

の代わりに

How many times do you do exercise every week ?

でもいい。日本語ではこうはいかない。直訳すれば

あなたは週に<いくつどき>運動しますか?

となり、ダメだ。英語の time は時間(とき)の意味の他にこの重要な頻度(の度合)も表わすのだ。多くは times と複数になる。<一度>は文法にしたがい one time だが once, twice というのもある。

もう少し頻度の例をあげてみると

two to three times an hour or every second
two to three times an hour or every minute
two to three times an hour or every hour
two to three times a day or every day
two to three times a week or every week
two to three times a year or every year
two to three times every 10 years
two to three times every 100 years

頻度は相対的で two to three times a year は two to three times every 100 years に比べれば頻繁(ひんぱん)だが、 two to three times a day or every day に比べれば<まれ>だ。 <まれ>も頻度をあらわし、英語では seldom (めったにxxx しない、ごくまれにxxする)相当だが、rarely という語もある。頻度は数えられたり、おおよその見当がつくので時間より認識しやすい。ここは肝心。頻度は数学的にサイクル(周期)でもあらわせる。

2-3 cycles / second, minute, etc.

ここは時間、時(とき)に関して肝心なところなのだが、話が際限なく長くなりそうなので、次へ進む。

ときをおかず

も慣用表現であとから出て来る<まもなく>に近い。

このとき、そのとき、あのとき
とき(すでに)おそし
時は元禄
太郎が来る時、 太郎が来たとき

以上はある特定の<とき>をあらわしている。 これは基本的に<ま>で置き換えられない。

時を経た、時を経て
時がたてば
時がすぎれば

時は金なり。
時の流れ、時の流れに身をまかせ

お寺の鐘(鳩時計)が時を告(つ)げる。
時計が時を刻(きざ)む。

以上はゴマカシになるが一般的な<時間>の<とき>と言える。 これも基本的に<ま>で置き換えられない。結論が先になってしまうが、<ま>にはこの一般的化された<時間>の<とき>の意味が薄い。次に<時は金なり>はいいとして、<時の流れ>あるいは<時は流れる>、<時が流れる>とはどういう意味か?<時が経(た)つ>、<時が過ぎる>、<時は過ぎる>とは違うようだ。川の流れは目で見えるが<時の流れ>は目では見えない。頭や心で<時というものの流れ>を考えたり、思ったり、感じたりすることは難しい。いったい<とき>はモノではないだろう。それならコトかというとコトでもない。これはこれまた肝心なところなのだが、話が長くなりそうなので、次へ進む。最後の二例

お寺の鐘(鳩時計)が時を告(つ)げる。
時計が時を刻(きざ)む。

は<とき>だが少し様相が違う。どこが違うかというと、発話者あるはこう考えた者がいたとして、この<とき>は人から切り離されて勝手に進んでいる、あるいは勝手に去っていく感じがある。<勝手なとき>、<無頓着(むとんちゃく)なとき>といえる。 これはこれまた肝心なところなのだが、話がこれまた長くなりそうなので、次へ進む。

さて、<とき>に対して<ま>はどうか?

また英語との比較になってしまうが<ま>、<あいだ>の時間がらみの英語では period、interval、duration (during) がある。これらは明らかに time とは違う。また上でサイクル(周期)

2-3 cycles / second, minute, etc.

をとりあげたが、これも<ま>に関連している。日本語のサイクル表現は

一秒、一分、一時間、一日、一週(間)、一か月、一年 (に)xx 回、xx 度、xx たび

<たび>は純やまとことばだが

(一日に)ひとたび、ふたたび、みたび、よたび、五(ご)たび、六(ろく)たび、ななたび、となるが、<ひとたび>は一回(度)目、<ふたたび>は二回(度)目に違いないが、別に慣用的な意味があり、こちらの方が主要な使われ方になっている。

一秒、一分、一時間、一日、一週(間)、一か月、一年 (のまに、のあいだに)xx 回、xx 度、xx たび

と<ま>、<あいだ>をつかっても表現でき<に>よりははっきりする。

xx(一秒、一分、etc)ごとに

<たび>、<ごと>は

xxするたび(に)、xxするごと(に)

という使い方があり、これも頻度関連の表現だ。

英語の interval は頻度関連の語だが<xx 間隔を置いて>の<間隔>相当の語だ。<間隔>はやまとことばに直訳すると<ま、あいだ-へだたり>。順序を入れ替えて<へだたりのま、あいだ>が相当するが長すぎる。<間(ま)を置く、入(い)れる>、<間(ま)が入(はい)る>の<ま>でいいだろう。気がつきずらいが interval そのものに相当するやまとことばがある。<おき>だ。<おき>は、手もとの辞書(三省堂新辞解)にると接尾語だ。つまりは<おき>単独ではつかわれない。<おき>はやまととこばらしい語で動詞<置(おく>由来。<おく>に連用形の接尾語用法と言える。さらにはこれから述べる<ま>、<あいだ>と同じ時間、空間の両刀使いだ。用例は<ま>、<あいだ>のあとで取り上げる。

一方 period の方はサイクル(周期)、頻度表現でも使えるが、一度だけの長短の出来事の時間もあらわす。

江戸時代 - Edo Period
This accident (murder) occurred in the period of last one week.

二番目は

This accident (murder) occurred during last week.

でもいい。 period と duration (during) は似たところがあるある。Edo Period はニュアンスはちがうが during Edo (time) でもいい。いっぽう interval では基本的に置き換えられない。

<ま>は空間表現にも使われる。

上記の例では

まあい(間合い)  主に空間
まぢか(間近か)  時間と空間
間を置く   時間と空間
間を取る   時間と空間
すき間  主に空間

で時間、空間の両刀使いだ。この<時空の両刀使い>は spacetime と関連はないか?

"
spacetime is any mathematical model which fuses the three dimensions of space and the one dimension of time into a single four-dimensional manifold. (wiki)
"

Language lover personal opinion

Spacetime is difficult to understand. Reality sometimes exists in language not in physics and mathematics.

もう少し<ま>を調べて見る。

あいま(合い間)  仕事のあい間を見て
見るまに
まばたきするまに
待つまもなく
いつのまに
いつのまにか鬼のいぬ間に

以上は英語のduration (during) が相当する。period では時間が長すぎる。

<あいだ>も時間、空間の両刀使いだ。

東京と大阪のあいだ
昨日(きのう)と今日(きょう)のあいだ

さらには

君と僕のあいだ
太郎と花子のあいだ

では時間、空間以外の何かをあらわしている。相性のいいのは<関係>で

君と僕のあいだの関係
太郎と花子のあいだの関係

<関係>はやまとことばではないが。社会生活では需要な現象で簡単は方程式では分析できない。この<あいだ>は<ま>では置き換えられないようだ。手もとの辞書に<あいだ>の解説があるが、三番目の<あいだ=関係>というのがある。((注)

AとBのあいだの関係
AとBのまの関係(ダメ)

<関係>のやまよことばはなにか?

話がとりとめなくなっているが、時間、<とき>のの正体をつかむのは容易ではない。

 

接尾語<おき>

上で書いたが、<おき>は<おき>単独では使われない接頭語だが、英語の interval のやまとことば訳といっていい。


1)時間

1時間おきに
3時間おきに
24時間おきに
1日おきに
二日(ふつか)おきに
10日(とおか)おきに
100日おきに 
1年おきに
2年おきに
10年おきに
100年おきに

数が少ない場合は<おく>時間、日、年がすぐ頭に浮かぶが、数が多くなるとすぐには<おく>時間が思いうかばない。たとえば

1日おきに(来る) -  二日に一度(くる)

で飛び石のような感じがあるが

(大地震は)100年おきに(おこる)  ー (大地震は)100年に一度(おこる)  

<おき>の時間が長いため <おき>の感じ、飛び石のような感じがない。
 

2) 空間

1メートルおきに
100メートルおきに
1キロメートルおきに

3)時間、空間以外

1個おきに
10個おきに
100個おきに
1万個おきに (不良品がでる)

同じく数(量)が多くなるとすぐには<おく>数(量)が目に浮かばない。

三番目は<時間、空間以外>と簡単に書いたが、これはなにか?

3)はxx cycles だけで時間、空間は関与せずcycles (回数)だけに注目しているといえる。言い換えると

1 cycle /  xx cycles

で cycle が消え <1 / xx >になり、これは<回数>の<回>が消えた<数>だ。

 

そのほかの<とき>関連表現

<あいだ>の例で取り上げた<このあいだ>はもとの意味が何なのかよくわからなくなっている<とき>慣用表現だ。

 さっき、いまさっき - これは<先(さき)ほど>と関連がありそう

は過去のことだが<先(さき)>は未来をあらわす。

この先。先行ゆ)き

<ほど>では

ほどなくして - <まもなく(して)>よりは長い<とき>のようだ。

がある。

すぐ、いますぐ - これは<すぎる>あるいは<いそく>が関連しているようだ。

ただちに

いつ、いつか、いつも、いつでも、いつまでも、いつから

しばし(のま)、しばらく、しばしば

たまに、たまたま


(追加予定)

 

(注)三省堂新辞解の<あいだ>の解説

1)直接続かない二つの点(物)の非連続部分に存在する空間、時間など。

と短いが、数学、哲学的 な解説となっている。<など>が何かはすぐに思い浮かばない。

2)一続きの時間、空間。

これは1)の内容の反対のようだが、基本的には同じことだ。1)は<(注目している)何かが起きていない時>、2)<何かが起きている時>で、いづれも両端に変化がある。そして<あいだ>には(注目している)何かに変化はない。

鬼のいないあにあいだに洗濯する。
鬼のいるあいだは隠れている。 

ここで(注目している)何かが起きているという何かは<鬼がいること>になる。

3)関係(人間関係)


sptt

 


 

 

Friday, October 16, 2020

Motivation、動機づけ、たましい

 

<動機づけ>は比較的新しい日本語で多分に Motivation の訳語だ。実際には<動機>がMotivation で、<動機づけ>は<Motivation をつけること>となる。意味は、やまとことばを多く使って表わすと

何か、特に何か新しいことを前向きにしようとする気持ちをいだかせること

とでもなるか。<動機>の<動>は<動かす>、<機>は<機会、チャンス>の機だが<チャンスを動かす>では意味をなさない。<xx の気持ちをいだかせる>は<心を動かす>に近い。中国語の<機心>は普通は時計の movement のこと。<機>でネットの中国語辞書にあたっててみると、歴史的にさすが4000年(8000年だったか)の歴史でさまざまな意味ががあるが、関連のあるのだけ抜き出すと


Wiki

《說文》主發謂之機。《書·太甲》若虞機張,往省括于度則釋。《尚書·大傳》捕獸機檻陷。《大學》其機如此。《註》發動所由。《疏》關機也。動於近,成於遠。

又氣運之變化曰機。《莊子·天運篇》意者有機,緘而不得已耶。《至樂篇》萬物皆出於機,皆入於機。(*)

 ”

で英語のチャンス相当だ。 チャンスを見直せば、チャンスはまだ実現していないポテンシャルで<何か、特に何か新しいことが起きる可能性>ともいえるので、<動機づけ>はこの<可能性を動かす、起こさせること>ともいえる。

さてこのポストはやまとことば<たましい>の話で、以上は前置き。私はここ5年ほどまえから、イタリア語の再勉強をかねて Face Book でイタリア養生訓(生き方)みたいなものをこれまたネット辞典を使いながら毎日のように読んでいる。イタリア養生訓にはキーワードがいくつかある。出くわす頻度順では

ダントツの一番目 - Serenità (**)

これはイタリア人でないと<感じ>がつかめないだろう。 一種の幸福論のキーワードだ。末尾参照。

二番目 - Eleganza

これはファッションの、さらには動作のエレガントを少しよく考えれば、それに近く、それをファッション、動作をこえて<生き方>にもとりいれたもの、といえる。<生き方>が重々しければライフスタイルでもいい。

そして三番目が Anima。 Anima は英語でいえば Soul、日本語では<たましい>だろう。Collins 伊英辞典では 

anima

[ˈanima] 

feminine noun

1. (gen) soul
volere un bene dell’anima a qn   to be extremely fond of sb (たましい(心)の底から好きだ)
con tutta l’anima   with all one’s heart  (たましい(こころ)をめいっぱい込めて)
mettere l’anima in qc/nel fare qc   to put one’s heart into sth/into doing sth (たましいをいれて何かをする)
vendere l’anima (al diavolo)   to sell one’s soul (to the devil) (たましいを悪魔に売る)
anima e corpo   body and soul  (たましいと肉体)
 
(以下略) (***)
 

例文も<こころ>の方が適当なのがあるが、<たましい>で訳せる。<anima> は英語の animation、日本語のアニメ(動画)の関連語で、<動く、動かす>が主な意味だ。一方<たましい>の慣用例文(句)をさがすと

たましいが入っていない
たましいが抜けている (死んでいることも表わす)
たましいを入れる
たましいを入れ直す

これからすると、<たましい>がないと生きていけないと思うが、<たましい>は不在がちのようだ。

たましいを動かす、
たましいが動かされる 

が<動機づけ>に近いが、残念ながら

心を動かす、
心が動かされる、心を動かされる 

の方をよく聞く。だがこれは<動機づけ>から離れてしまう。<心を動かされ>ても<何か、特に何か新しいことを前向きにしようとする>ほどのことはないのだ。

大和魂(やまとだましい)

<やまとことば>はいいが<大和魂(やまとだましい)>は国粋的、プロパガンダ的なところがある。大和魂(やまとだましい)をふるいたたせてするのは戦争だ。戦場の軍人には勝とうする(必ず勝つという)思いがないとダメだが、直接的には<やまとだましい>とはむすびつかないだろう。

<さむらいだましい>というのもあり武士道に近いようだ。これまたネットでつぎのような記事を見つけた。

https://rekijin.com/?p=23791

武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり】『葉隠』は生きるヒント満載の自己啓発書 ... これは、佐賀藩士・山本常朝によって口述された武士道書『葉隠』の一説です。 「いくさをしない武士がどう生きるべきか」が書かれた『葉隠』には、今を生きるわたしたちにとっても「生きていくヒント」が詰まっています。

(中略) 

『葉隠』でもっとも有名な言葉は「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」でしょう。戦時下などにおいてこの文言が闘争心の鼓舞に利用されたことなどから、『葉隠』を「潔く死ぬのが武士というものだ」ということを説く書であると思われがちです。

「武士道と云ふは・・・」の項は『葉隠』の「聞書一」の2つ目にあります。この項の末文は次のようになっています。

毎朝毎夕、改めては死に死に、常住死身になりて居る時は、武道に自由を得、一生越度なく、家職を仕果すべきなり。
(『葉隠』「聞書一」2)

ここに「毎朝毎夕、改めては死に死に」とあるのを見れば、『葉隠』の説く「死」が実際の「死」を意味するのではなく、「死んだ気になること」だと理解できます。それが「常住死身」ということでしょう。いつも「いったん死んだ気で」何事かに臨めば、自由な気持ちになることができて、仕事もうまくゆく、と説くのが「常住死身」ではないでしょうか。この項冒頭の「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」と末文にある「常住死身」が呼応しているのです。

「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」の箇所の原文の訳文、解説がついているが、原文を味わった方がいい。一種の養生訓だ。<武道に自由を得>のところがいい。

-----

(注)

(*) 最後の <萬物皆出於機,皆入於機>は荘子らしい<宇宙創成論>、はたまた<物理学の奥義>みたいな言葉だ。湯川秀樹は荘子の愛読者だったようだ。

(**) Wiki Italian:  Serenità è il termine con cui si descrive la condizione emotiva individuale caratterizzata, a livello interiore ed esteriore, da tranquillità e calma non solo apparente, ma talmente profonda da non essere soggetta, nell'immediato, a trasformazioni di umore, ad eccitazioni o perturbazioni tali da modificare significativamente questo stato di pace. La serenità è una componente rilevante nel costituire il benessere emotivo dell'uomo; secondo alcune teorie essa è talmente rilevante da costituire una condizione necessaria e sufficiente per la felicità dell'essere umano.

よく見るとemotiva、emotivo の字がある。

(***)

(Wikiイタリア語版には anima の長い説明がある。大幅にはしょっていうと<生命のみなもと>。
 
ついでに、4番目候補はいくつかありそうだ。その一つはUmiltà (謙虚、やまとことばは<ひかえめ>か)。proud(矜持) とか courage (勇気)とか challenge (挑戦)はなぜか人気がなく10番めまでにも入ってこないのではないか。時間があれば10番めぐらいまで調べて紹介する。

sptt


 

 



Monday, October 12, 2020

勾配(gradient)のやまとことば -2 <めき>

 

だいぶ前に<勾配(gradient)のやまとことば>というポストをかいているが、結論めいたものは


個人的には

勾配(gradient)= 空間における任意の(スカラー)量の<向きごとの傾き具合>

が日本語らしい。

” 

さて前回のポスト ”微分のやまとことば<め>” を書いているうちにもっとやまとことばらしい勾配(gradient)相当の語を発見した。わずか二音節の<めき>だ。<めき>は単独では日本語として認知されていないが、勾配(gradient)の有力やまとことばだ。<めき>は動詞<めく>の連用形で、この場合は体言(名詞)用法だ。<結論めいた>の<めいた>も関連語だ。<めく>、<めき>の用例を探してみる。

<めく>

春めく、秋めく

<夏めく>、<冬めく>も可能だが、寒い冬から暖かい春への変化を示す<春めく>、暑い夏から<暑さがやわらぐ>秋へに変化を示す<秋めく>)はいが(<涼しい>は夏の季語なの細かいことを言えば<涼しい秋>はおかしい)、暖かい春から暑い夏、<暑さがやわらいだ>(涼しい)秋から寒い冬への変化はどうもしっくりこない。気温は基本的に<暑い>と<寒い>だ。

ざわめく - ざわめき   擬音語 ざわざわ
ときめく - ときめき    擬音語 どきどき
ひらめく - ひらめき    擬音語 ひらひら   <広い>は関連語か?
はためく - はためき    擬音語 ぱたぱた   旗(はた)の
関連語か?

以上の擬音語由来と思われる<xx めく>は勾配(gradient)とは関連がすぐには思いうかばない。<ひらめく-ひらめき>はこの<思いうかぶ>に関連しているのはおもしろい。

うごめく - これは<うごく>+<めく>だが特別の意味がある。
めくるめく - これは何だかよくわからない。

<めく>は慣用句だけでなく、一般用法がある。

うそめくが、うそめいた話。
話はだんだん謎めいてきた、本当めいてきた、真実めいてきた。
あたりはだんだん都会(いなか)めいてきた。
結論めく

意味としては<xx のように見える、聞こえる>が近い。接続は<体言(名詞)+めく>だ。そして<だんだん>と相性がいい。<だんだん>の英語には<段々>の直訳に近い step by step があるが gradually とういのもある。

めきめき - 目に見えて   太郎は最近めきめき学業成績(販売実績)が上がってきた。
めっきり - 目に見えて   花子は最近めっきりやせてきた。

(用例探し継続予定)

-----

さて、勾配(gradient)の意味で示唆的なのは<春めく>だ。また勾配(gradient)の公式訳語<勾配>関連のやまとことば<傾き(かたむき)>の<向く(むく)>、体言(名詞)の<向き>も大いに関連がある。

向く(むく) - めく
向き(むき) - めき

<春めく>の<めく>は<気温が上がり傾向(上がり向き)>になること、日(日照時間)も長くなっていく(傾向の)ことだが、部分的ではなく全体的な徐々(だんだん)の変化を表わす。前回のポストの

勾配(gradient)= 空間における任意の(スカラー)量の<向きごとの傾き具合>

に<空間>の字がある。<勾配、傾き>だけではこの<空間>が想像しにくい。勾配、傾き>は二次元(面)での線の勾配、傾き>、三次元での面の勾配、傾き>が想像される 温度は大体三次元スカラー量で方向(向き)がない。スカラー量の違いに<向きと傾き(変化)具合>を与える作業がgradient だ。与える作業>とすると<めく>の他動詞で<めかす>というのがあるが、<xxのように見せる>が原意にあり、gradient から離れてしまう。

<めく>の体言(名詞)形<めき>はgradient の日本語訳の候補になる 日本語として認知されていないので権威はないが、新鮮味とやまとことばみ、らしさ>があり、勾配よりはいいのではないか?。

 

 sptt 

 

Saturday, October 10, 2020

微分のやまとことば<め>

 

微分、変化率のやまとことばは以前に考え、 どこかで書いたような気がするが、タイトルに微分、変化率がないので簡単に探せない。今回それらしき言葉に遭遇したので忘れないうちにタイトル ”微分のやまとことば<め>” として書いておくことにした。

前回のポスト ”<よわりめにたたりめ>と<なきめをみる>” で


弱る(よわる) - よわり(連用形の体言、名詞用法) + め

この形の造語には(少し探してみたが、多くはないようだ)

落ちる - 落ちめ
勝つ - 勝ちめ
泣く - 泣きめ
控える(ひかえる) - 控えめ

がある。共通点が見つけにくいが、. . . .



と書いた。気になったので、このあともう少しよく探してみた。今回は手もとの辞書(三省堂新明解6版)も利用した。重複するが、上の五つもふくめて並べてみる。

上がる - 上がりめ (辞書から) これは意味がよくわからない。
落ちる - 落ちめ
折る - 折りめ
変わる - 変わりめ(<季節の変わりめ>として辞書にもあった)
勝つ - 勝ちめ
効(き)く - 効きめ
(けつ?) - けじめ (けぢめ)
さける(割ける) - さけめ
死ぬ - 死にめ (辞書から)
つなぐ - つなぎ目
泣く - 泣きめ
抜く - 抜けめ   <抜けめない>、<抜けめなく>は慣用句だ。
控える(ひかえる) - 控えめ
見(み)る  - 見め、 見ため
結ぶ - 結びめ(辞書から)
弱る(よわる) - よわりめ
分かれる - 分かれめ     昔の紙芝居では<ここが運命の分かれめ>という口上があった。
割れる - 割れめ (辞書にもあった)

(追加予定)

例の数は増えたが依然共通点が見つけにくい。そこで手もとの辞書の<め>の解説の助けを借りると

 ”

め:造語(造語成分)

1)一見(比較的に)そういう傾向や性質を持っていいることを示す。

例: 長め、少なめ

2)他との区別や違いが目立つ時(所)

例: 上がりめ、死にめ、結びめ、割れめ

3)状況が転換する決定的な時点

例:落ちめ、カネの切れめ、季節も変わりめ、弱りめ、死にめ

4)そのものの存在が許される限界点

例: 文(あや)め、筋め、さかいめ、役目(やくめ)

1)一見(比較的に)そういう傾向や性質を持っていいることを示す。

例: 長め、少なめ

は形容詞についてと言える。

控える(ひかえる) - 控えめ 

 はこの造語タイプ<動詞連用形+め>だが、意味は<そういう傾向や性質を持っていいることを示す>だ。<控えた>が形容詞相当の修飾形。その語幹が流用された、と見る。

参照: sptt Notes on Grammar " <み>語尾の文法分析 ”。

2)他との区別や違いが目立つ時(所)

例: 上がりめ、死にめ、結びめ、割れめ

ここに<上がりめ>がある。 意味がよくわからなのでネットで調べてみると

https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E4%B8%8A%E3%81%8C%E3%82%8A%E7%9B%AE/

物事の上がりはじめの時。また、そのような状態や兆候。<-> 下がりめ

という解説がある。これは大いに参考になる。<下がりめ>も<下がる - 下がりめ>で同じ造語方法だ。これにならうと、<登りめ、下(くだ)りめ>があってもいい。

<動詞連用形+め>ではないが、意味的にはこのグループにはいる<ふしめ(節め)>がある。

3)状況が転換する決定的な時点

例:落ちめ、カネの切れめ、季節の変わりめ、弱りめ、死にめ 

2)で出てきた<死にめ>がここにも出てくるが、<状況が転換する決定的な時点>ではある。<カネの切れめ>、<季節も変わりめ>も<状況が転換する決定的な時点>でいいが、<落ちめ>、<弱りめ>は少しずれているようだ。前回のポストでは次のように書いた。

落ちる - 落ちめ (落ちがち、落ちる傾向にある。かなり落ちた状態)
よわりめ  -  弱りはてた状態


いづれも<<状況が転換する決定的な時点>というよりは

落ちめ -かなり落ちた状態 -> 極限に近い落ちた状態
よわりめ  -  弱りはてた状態 -> 極限に近い弱った状態

の方が意味がよく通じる。

4)そのものの存在が許される限界点

例: 文(あや)め、筋め、さかいめ、役目(やくめ)

<そのものの存在が許される限界点>はすごい定義だが、限界点は上の極限に近い。したがって<落ちめ>も<よわりめ>もこのグループに入れた方がよさそう。< 筋め、さかいめ>関連では<折りめ>、<割れめ>がある。これはは<2)他との区別や違いが目立つ時(所)>とも言える。

<3)状況が転換する決定的な時点>にある<カネの切れめ>は、<そのものの存在が許される限界点>ともいえる。

一方<(肉、刺身、豆腐などに)切れめを入れる>とういうのがある。こちらの方は2)他との区別や違いが目立つ時(所)、がちかい。

<めいっぱい>の<め>はまさしく限界点だ。

 <文(あや)め>はよくわからないのでネットで調べてみると、

https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E6%96%87%E7%9B%AE/

織物や木目 (もくめ)などに現れた模様。いろどり。あや。

(多くはあとに「知らず」「分かず」「見えず」などの語を伴って用いる)

  1. ㋐物の区別。見分け。けじめ。

    「―も知れない闇の中から、硫黄が丘 (たけ) の山頂…空中に現われ出る」〈有島生れ出づる悩み

  2. ㋑物事の筋。道理。条理。分別。

    「何の―も知らぬ賤 (しづ) の男 (を) も」〈・胡蝶〉

とある。 これからすると<あやめ>は<そのものの存在が許される限界点>に相当するものはない。むしろ手もとの辞書の

2)他との区別や違いが目立つ時(所)

が相当する。 

<役目(やくめ)>も<そのものの存在が許される限界点>とはすぐに結びつかないので解説が必要だ。

<役め>の役は<役を務める>の<役>だ。<役を務める>とは言い換えると<役をはたらく>。<はたらく>、<仕事をする>以外に

この薬ははよく効(い)く。

と同じような意味で

 この薬ははよくはたらく。

とも言える。<効く>はこの造語法で<効きめ>がある。<役め>は<はたらきめ>に相当するといえるのではないか?では<効きめ>とはどういう意味か。手もとの辞書の4っつの定義にあてはまらない。そのためか<効きめ>は例に出てこない。参考になるのは、ネット辞書の<上がりめ>の次の解説。


物事の上がりはじめの時。また、そのような状態や兆候。<-> 下がりめ

<効きめ>は<効き(効く具合、度合)>の<はじめの時、その状態や兆候>と言えないか?そうすると、<役め>は<役の務まり(具合、度合)>の<状態や兆候>となる。

さて

3)状況が転換する決定的な時点
4)そのものの存在が許される限界点

は微分、変化率を連想しないか?

3)状況が転換する決定的な時点 - 変化率がゼロになるところ。
4)そのものの存在が許される限界点 - 限界点を極限とすると、微分は極限操作をする。

特に<変わりめ>の<め>は微分のコンセプトに近い。変化そのものではなく変化率に<目が行っていた>らすごい。

-----

追記

この<め>を調べているうちに、この<め>と<目>の混乱、あるいはオーバーラップがあるような語、言い方に遭遇した。コンピュータわワープロでは、例文、例語の<め>はほとんど<目>で出てくる。日本語のためには<め>と<目>は分けるべきだ。<目>は微分とはほとんどまったく関係がない。

<め>の解説文の中にもある。

<目立つ>

 2)他との区別や違いが目立つ時(所)

の<目立つ>。<目立つ>は<目が立つ>ではなく<目に立つ>、<目に立って見える>だろう。モノが立てば<目立つ>。だが、<め>自体に<目立つ時(所)>の意があっても、いいだろう。<目立つ時(所)>が<立つ>となってしまうが、<め>の一語、一音節ではすぐには<目立つ時(所)>は思いうかばない。

<けじめ>

 <あやめ>の解説に

㋐物の区別。見分け。けじめ。

がある。<けじめ>の語源はよくわからない。<け>+<しめ(る)>でも説明がつきそうだが、<けじめ>は<けぢめ>だろう。<動詞連用形+め>の造語法を使うと

(けつ?) ー>五段(4段)活用として<けち>+<め>で<けちめ>。これが<けぢめ>に変わった。だが<けつ>というやまとことばの動詞はすぐには思いうかばない。漢語では<決(けっ)する>の<決(けつ>がある。手もとの辞書の<め>解説に

3)状況が転換する決定的な時点

例:落ちめ、カネの切れめ、季節の変わりめ、弱りめ、死にめ

というのがある。 <決(けつ>は決定の<決>だ。<けぢめをつける>の意味と結びつく。だが<決<決(けっ)する>が<けち>となるにはかなりな飛躍だ。だが長い言葉の歴史でではまったく否定することはできない。

 -----

見ため

<見ため>は外見のことだが、<見た目>では何のことかわからない。 <動詞連用形+め>の造語法を使うと

見(み) + め   -> 見め

で<見め>は<見ため>と同じような意味になるが、現在では<見ため>に比べる使用頻度はかなり落ちる。<見る目>はまた違った意味になる。<見た>は<見る>に<過去、完了の助動詞>と言われる<た>がついたもの。<た>の連用形は<て>で<た>ではない。だが<め>を体言(名詞)とすると、<見ため>は<た>の連体形<た>に<め>がついたものと解釈できる。 

めど(目途、目処、目度)

<めどをつける>の<めど>。この<めど>も<め>は<目>でない。このポストの<め>だ。手もとの辞書の

2)他との区別や違いが目立つ時(所)
3)状況が転換する決定的な時点
4)そのものの存在が許される限界点

のいずれもが該当するスーパー<め>だ。 漢字の方は

め途(と)
め処(どころ)
め度(ど)

などがあるが<処(どころ)>はやまとことばだ。だが<ところ><どころ>が<ど>、あるいは<めどころ>が<めど>にになるだろうか? <め途(と)>、<め度(ど)>とすると、湯桶読みになり<めど>は純やまとことばでなくなる。<めど>は、おそらく、<めほど>の<ほ>が抜けたものだろう。<ほ>は気合を入れて発音しないと聞こえなくなる。

<め>+<ほど> -> めほど -> め(ほ)ど -> めど

<ほど>も重要なやまとことばで<かなり許容差のある特定の範囲>を示す。 微分とはむしろ対称的な概念で

かなり許容差のある特定の

2)他との区別や違いが目立つ時(所)
3)状況が転換する決定的な時点
4)そのものの存在が許される限界点

ということになり、<ほど>をかなり的確に説明できる。

目盛り

<目盛り>の<め>も<目>ではうまく説明がつかないが

2)他との区別や違いが目立つ時(所)

でうまく説明できる。したがって<め盛り>がいい。<めもり>だと<メモリ>と混同されるおそれがある。<め盛る>という動詞もある。<め盛りをつける>の意なので<盛(も)る>に<つける>の意があることになるが、これは変だ。ネット辞書で調べると

<盛る>には

薬を調合する。 「毒を―」

の意味があり、これで説明がつく。<五合目を越す>の<目>も<目>ではなく<め盛り>の<め>だ。<五合めを越す>だと誤解がへる。
 
目印(めじるし)
 
目印(めじるし)は<目で見る印(しるし)>なので<目印>でよさそうだが、これも<2)他との区別や違いが目立つ時(所)>の<め>での説明がしっくりいく。 
 
目安(めやす)
 
目安(めやす)は<めやすし、目やすい(易い)>が語源のようだ。これでもいいが意味からは<見(み)やすし>だ。
 
めぼし - めぼしい 
 
<めぼし>は<め+欲し(い)がかんがえられが、意味はナンセンスになる。<めぼし>は<目星>でよさそう。<目に見える星>で<めぼしをつける>はナンセンスではない。
 
曲がりかど - 曲がりめ
 
お肌の曲がりかどにxxクリーム。
 
といった宣伝文句があったような気がするが、<曲がり角>は曲がりめ>の方がよさそう。肌の老化は急に起こるわけではない。角は連続性がないので基本的に微分できない。一方<折りめ>は角(かど)があるが<折り角(かど)>とはいわない。大昔の日本人には<め>と<かど>は区別があったようだ。
 

sptt

 

<よわりめにたたりめ>と<なきめをみる>

 

<よわりめにたたりめ>は意味の推測がつき、またよく聞く。だが語源がよくわからないようだ。前半の<よわりめ>は

弱る(よわる) - よわり(連用形の体言、名詞用法) + め 

<め>はよくわからないが<目>とは関係ない。この形の造語には(少し探してみたが、多くはないようだ)

落ちる - 落ちめ (落ちがち、落ちる傾向にある。かなり落ちた状態)

勝つ - 勝ちめ  次郎との対戦では太郎に勝ちめはない。 高い勝つ可能性。ほぼ勝つ状況。<勝ちめ>はあるが<負けめ>は聞かない。この可能性は<可能な性能>ではない。

泣く - 泣きめ   泣きめを見る。 やくざは<泣きをみる>とも言うだが、<泣きめを見る>でもまちがいではない。

控える(ひかえる) - 控えめ。反対の意の動詞に<でしゃばる>があるが<でしゃばりめ>はない。<でしゃばりがち>はある。そしてこれは<どちらかというと、でしゃばりがち>でもいい。そしてまた<ひかえがち>でもいいし<ひかえめがち>でもいい。

がある。共通点が見つけにくいが、 落ちめ(かなり落ちた状態)、勝ち目(ほぼ勝つ状況)が参考になる。これを流用すると

よわりめ  -  弱りはてた状態

後半の<たたりめ>は語呂合わせだろう。<たたる>の連用形<たたり>+<め>で同じ形。しいて意味づければ<たたられた状態>だが、特別な意味は加わらない。

<泣きめを見る>の<泣きめ>は<ほぼ間違いなく泣くことになる状況>で説明がつくだろう。


sptt


 

Friday, October 2, 2020

とりあえず xx (し)ておく



<とりあえず xx (し)ておく>はかなり頻繁に使われる。漢語では応急処置がこれに似ている。英語では一語の副詞 temporarily というのがあり、これで間に合わせられるようだ。temporarily に相当する中国語は<暫時>でよく耳にするが、日本語ではまれにしか聞かない。

例文

今日はとりあえずここまでにしておきましょう。
とりあえずうまくいった(成功した)ことにしておきましょう。
とりあえず<よし>ということにしましょう。

生死にかかわるゆゆしき場面だが

とりあえず生かしておくことにしよう。

後半の< xx (し)ておく>がない場合もある。

とりあえずちょっと見に行ってきたらどうだ。
とりあえず<よし>としよう、しましょう。
とりあえず生かしておこう。

まず前半の<とりあえず>だが、ややこしい。<あえてとらず(に)>と違った否定(ず)になっているが、  <あえてとらず(に)>の意味とすると、<とりあえず>の<とる>は本来(時間があれば)すべきことの決定、そして実行することのことだろう。<あえず>なので<あえてそれを(決定)実行をしない、(時間がないので)できない>ことだ。<あえて実行はしない、できない>(が、別のことをする、しておく)、とも解釈できる。だが<あえてとらず(に)>ではなく<とりあえず>という。

かなり込み入っている。

手もとの辞書では(かっこ)内に(取るものも取らないで)とあるが、そうではない。<取るものも取らないで>は次の<とにかく>に近い。<取るべきものも取らないで>とすると<とりあえず>に近くなる。

似たようなのに<とにかく>、さらには<とにもかくにも>というのがある。これまたよく使うがいったいどういう意味か。

とにかく、すぐに見に行ってきたほうがいい。
あれこれ言わずに、とにかく、これだけはすましておいたほうがいい。 

<とにかく>は<<とりあえず>より差し迫(せま)った状況下で、本来すべきことの判断、決定、実行もふくめて、あれこれ考えずに(<xxする>)。

<とにもかくにも>は似て非なるもので<とりあえず>とは直接むすびつかない。

後半の<xx(し)ておく>は<とりあえず>以上に複雑、というかいろいろなシチュエーションが考えられる。<とりあえず>とはほぼ対称的な

万全を期してそなえておく、準備しておく。
いつ客がきてもいいように、材料だけは準備しておく
いつ敵が攻めてきてもいいように、守りを固めておく。

といった言い方でもつかわれる。準備と相性がいいようだが、

 xx (し)ておく = 準備する

でもよさそう。簡易辞書ではこのような言い換えの説明で済ましておくかもしれない。この<言い換えの説明>は次善策で最善策ではない。やまとばでは<そなえる>。蛇足ながら<そなえる>は 

古語<そなう>(自他兼用動詞) ->そなわる(自動詞)、 そなえる(他動詞)

でいい言葉だ。 漢語の準備は現代中国語でもよく使われる。

準備好。準備好不好?

準備の意味は次善策の<言い換えの説明>では<xxに準じて備(そな)える。

< xx (し)ておく>は次回のポストで再度もう少し詳しく検討。多分に法事項がらみとなるので sptt Notes on Grammar の方のポストでする予定。

さて、この複雑ともいえる言い方は広東語にある。多分普通語の北京語にもあるだろう。 <とにかく>の方はないが<xx しておく>は<住>の一語ですませる。

唔好去住。  行かないでおく。正確には<行かないでおいた方がいい。>で、本来すべきことの判断、決定、実行との比較がされている。

これは往々にして <暫時>が頭にきて

暫時、唔好去住。

暫時、hold 住。 (とりあえず、pending にしておく。)

英語をまぜてしゃべる人が多い。

 

sptt

変形の<xx じる>動詞


前回のポスト変形の<xx む>動詞で


そこそこの規則性がある。あきらかにモノの変形を表わすのは

くぼむ(昔は自他兼用動詞)(くぼまる、くぼめる、くぼます)
ちぢむ(昔は自他兼用動詞) (ちぢまる、ちぢめる、ちぢます)
ひずむ(自動詞) (ひずます) <ひずまる、ひずめる>はダメ
へこむ(自動詞) (へこます) <へこまる、へこめる>はダメ
ゆがむ (昔は自他兼用動詞) (ゆがめる、ゆがます) <ゆがまる>はダメ

と書いた。これはどこか別のところで調べて書いたような気がするが、<xx じる>も変形のを表わす動詞が多い。まずは<xx じる>を並べてみる。

いじる

かじる
くじる(くじく)
こじる

とじる

なじる
ねじる

はじる
ほじる

まじる
もじる

やじる
よじる


特に<くじる(くじく)>、<こじる>、<ねじる >、<ほじる>、<もじる>、<よじる>は大体同じような動作だ。英語では to twist が相当する。<もじる>は主に言語表現で比喩的に使われるが一種の to twist だ。<xx じる>ではないが to twist の訳語では<ひねる>がある。<まわす>や<くる>は関連動詞で

いじりまわす、いじくりまわす
かじりまわす
こじくりまわす
ねじくる、ねじくりまわす
ほじくる、ほじくりまわす
よじくる 

-----

ひねる - ひねくる - ひねくりまわす

 

その他変形動詞も代表としては

つぶす
のばす
まげる

がある。いずれにしても濁音をふくむものがきわめて多い。これは偶然の一致ではなく、濁音は<好ましくない>コト、モノを暗示させるからだろう。


sptt

Thursday, October 1, 2020

変形の<xxむ>動詞

 

前回のポスト<くろずむ、なずむ、はずむ>で変形の動詞<ひずむ>を関連動詞として簡単に取り上げたが、 (モノの)変形、(状態の)変化の動詞をしらべてみる。

かすむ (よく見えなくなる) かすます
くすむ  (よく見えなくなる) くすます
くぼむ (くぼまる、くぼめる、くぼます)
しずむ (静まる、沈める、沈ます)
すくむ (すくまる、すくめる、すくます)
すぼむ (すぼまる、すぼめる、すぼます)
染(そ)む (染まる、染める)
せばむ (せばまる、せばめる)
たたむ (<たたまる>はよさそうだが、<たためる>は可能になってしまう。。<たたます>は使役)
ちぢむ (ちぢまる、ちぢめる、ちぢます)
ぬるむ (ぬるまる、ぬるめる)
はずむ(自動詞) (はずます)
ひずむ(自動詞) (ひずます)
へこむ(自動詞) (へこます)
ゆがむ (自動詞) (ゆがます)
ゆるむ (ゆるまる、ゆるめる、ゆるます)

そこそこの規則性がある。あきらかにモノの変形を表わすのは

くぼむ(昔は自他兼用動詞)(くぼまる、くぼめる、くぼます)
ちぢむ(昔は自他兼用動詞) (ちぢまる、ちぢめる、ちぢます)
ひずむ(自動詞) (ひずます) <ひずまる、ひずめる>はダメ
へこむ(自動詞) (へこます) <へこまる、へこめる>はダメ
ゆがむ (昔は自他兼用動詞) (ゆがめる、ゆがます) <ゆがまる>はダメ

 

sptt