Thursday, October 22, 2020

時間のやまとことば-2 時の流れに身をまかせ

 前回のポスト<時間のやまとことば>で、時間のやまとことばの代表<とき>の例として<時の流れに身をまかせ>を取り上げたが、特に解説はしなかった。実際は解説を加えようとしたが、いい考えが浮かばなかったのだ。前回のポストは総論というか、かってに思いつくままを書いたような内容で<すじ>がない。いわばこれは第一段めの踏み台で、もっと<すじ>があるような内容にしないとけないと思っていたが、話が限りなく続きそうだったので、とりあえず終わりにしておいた。

さて<時間のやまとことば>の第二弾(段)として<時の流れに身をまかせ>を再度考えて見た。<時の流れに身をまかせ>は台湾の歌手(歌姫)のテレサテンの代表曲の一つの題名で、もとの中国語の題名は<我只在乎>、と思っていたが、これは間違いで日本語の<時の流れに身をまかせ>が先で<我只在乎>は台湾の中国語訳なのだ。中国語版歌詞では<任時光匆匆流去 我只在乎你>と出て来るが、なぜか歌の題名は前半の<時の流れに身をまかせ>に相当する<任時光匆匆流去>ではなく後半の< 我只在乎你>となっている。これ(我只在乎)はこの箇所の日本語にはない。英語の題名は< 我只在乎你>の訳で I only care about you. で只= only の位置も同じだ。<時の流れに身をまかせ>は音節が長すぎるので、音節合わせのために加えたのだろう。<時の流れに身をまかせ>は題名だが歌詞に中にも繰り返しでてくるので、印象に残る。歌詞を全部チェックしてみたが<時の流れに身をまかせ>は前後の歌詞内容からすると宙に浮いている、あるいは唐突な感じがする。これは、憶測になるが、作詞者は

<時の流れに身をまかせ>が気に入ったが、関連するいい文句(歌詞)がでてこなかった。しかし<時の流れに身をまかせ>をなくしてしまうのは惜しく<宙に浮いている、唐突な感じ>があるとは知りながら使った。

のではないか。しいて歌詞内容との関連を探そうとすれば歌全体に<時の流れに身をまかせる>女性象がある。歌詞内容の理解は男と女、年齢(人生経験)、信条などの違い人でさまざまだろう。

本題の<時の流れに身をまかせ>の<時(とき)>の意味だが、これは<時間>の<とき>でも<なんとなく>いいが、これからのべるように純粋な<時間>の<とき>ではつじつまがあわない。<時間(じかん)の流れに身をまかせ>では女性象が浮かんでこない。<なんとなく>と書いたのはやまとことばの<とき>には時間(じかん)以外の意味があるからだ。<時の流れに身をまかせ>の時(とき)は、時間の流れとともに変化する歌の主人公の女性(わたし)を取り巻く世界のことで、一般化すると(主人公だけでなく人一般)、時間の流れとともに変化するある特定の人を取り巻く世界、と言えそうだ。そしてこの世界は人それぞれで大いに違う。さらに大幅に一般化すると<時間とともに変化する世界>。したがって<時の流れに身をまかせ>は、歌の歌詞としてかたくなるが、<時間とともに変化する世界に身を任せ>となる。やまとことばを使えばソフトになり<ときとともに変わり続ける世に身を任せ>が意味として近いだろう。

以上が歌の<時の流れに身をまかせ>の解釈。しかし解釈するまもなく、普通の日本人であれば、この歌を聴いて歌詞を理解しようとすれば大方このように解釈するだろう。

 さて歌から離れて純粋な<時間>の<とき>をもう少し考えて見る。すなわち<時間のやまとことば>の第二弾。

<ときの流れに身をまかせ>のアナロジーとしてすぐ思い浮かぶのは<川の流れに身をまかせ>で、<川の流れに身をまかせて> 流れていく(動いていく)木(こ)の葉を自分(歌詞の主人公)にたとえることだ。しかし少しよく考えて見ると<川の流れ>と<ときの流れ>では様相がかなり違う。

1)<川の流れ>は見ることができる。第三者はもちろん、木の葉になったとして自分でも見ることができる。

2)<川の流れ>では木の葉は、水の上に浮かんで、ほぼ<川の流れ>とともに流れていく。これも第三者はもちろん、木の葉になった自分でも見ることができる。大雑把にいうと、川の水は流れて(動いて)いくが、まわり(の景色など)の大部分は動いていない。すくなくとも川の水は流れほど速くは動いていない。木の葉になった自分は<まわり>とは別の世界にいることになり<時の流れに身をまかせ>(ている女性)とは根本的にちがう。

3)<川の流れ>は大小、速さを問わず曲がりくねって進む。少なくともまっすぐには進んではない。

4)<川の流れ>は基本的に逆戻りしない。

以上<川の流れ>に対し。<ときの流れ>、<とき>はきわめて特殊なしろもので

1)<ときの流れ>は見ることができない。<ときの流れ>は感じることはできるが人それぞれに違い、他人の<ときの流れ>感じは基本的にわからない。

2)<川の流れ>の木の葉にたとえると、<ときの流れ>とともに自分が流れていくことになるが、第三者はもちろん、自分で見ること、感じることはまずできない。したがって<川の流れ>の木の葉のように、<ときの流れ>とともに自分が流れていくことはきわめて考えにくい。あるところに止まっていても(少しは動いてもいいが)<とき>は流れれていく。<とき>は目に見えないので<流れれていく>というよりは、<(どんどん)過ぎ去っていく>感じだが、これも確かではない。そしてまわりはそれこそさまざまに変化する。自分が見ている変化はほんのごく一部で、見ることができないまわりにの変化の方がはるかに多い。一方<とき>はこれらすべての変化に直接ではないが関与している。言い換えると、これすべての変化を見ている感じだ。

3)<ときの流れ>は目には見えないが、感じとしてはまっすぐ進む、あるいは過ぎ去っていく。曲がりくねって進んだり、特に曲がりくねって過ぎ去っていくとき>は想像しがたい。

4)<ときの流れ>も基本的に逆戻りしない。 (共通点はこれくらいではないか) 

<とき>は<川の流れ>のように前に流れて(進んで、動いて)いく感じはきわめて少ない。どちらかというと<後ろに過ぎ去って>いく感じだが、これも頭の中に描いたものだ。

<とき>は一種類しかないと思うが

将来(未来)のとき
現在のとき
過去のとき 

を考えて見る。

現在の<川の流れ>、<川の流れの水>

はいいが

将来(未来)の<川の流れ>、<川の流れの水>
過去の<川の流れ>、<川の流れの水>

は考えのにくい。一方<とき>は

 現在のとき

は問題ない。というか一瞬の<現在>は一瞬の<とき>ともいえる。一方<とき>には長い<とき>もあれば短い<とき>もあるが、これは少し変で

長い時間
短い時間

と<間(ま、あいだ)>がついた<とき>のほうが自然だ。だが<ときま>という日本語はない。また<だが>だが、<これは少し変で>と書いておいたが<おおいに、まったく変>というわけではない

長いときが過ぎた
長いときをへて
<長いときがたつ、たった>は少し変だ。

短いときが過ぎた
短いときをへて
<短いときがたつ、たった>は少し変だ。 

はやまとことばの包み込むような、またはアナログ的なニュアンスがある(個人差があろう)。したがって、やまとことばの<とき>は<間(ま、あいだ)>のある<とき>もふくむことになる。ここは大事なところなのだが、話は少しそれる。 <ときをへて>の<へて(へる)>は<を>があるので他動詞のように見えるが、これは<を>をとる移動の自動詞のグループだろう。

道を歩く、トンネルを過ぎる

ときが移る
ときは移って

という表現がある。またまた<だが>だが

ときを移す、ときを移して

の<移す>は<移る/移す>のペアで他動詞。ここでは詮索しないが、<ときが / は移る/移す>の<とき>は時間では無いようだ。

さて話は

将来(未来)のとき
現在のとき
過去のとき 

にもどって、<川の流れ(の水)>と違って

<将来(未来)のとき>と<過去のとき>はあるようだ。なぜなら<現在のとき>の前に<将来(未来)のとき>があり(あった)、そして<現在のとき>の後(あと)に<過去のとき>くる、と考えられるからだ。そしてこの三つの<とき><とき><とき>は切れることなく続いている、と考えられる。これはかなりの確率で正しく、物理では時間微分というのがあり、さまざまな現象の時系列の変化を数的に、したがって客観的にとらえる(ひとは数をごまかすことあるがが、数自体はうそをつかない)。時間微分が正しくできる大前提(条件)として時間(とき)が連続であること、がある。だが、またまた<だが>だが、これはひとつのかなり正しそうな見方、考え方にすぎない。 これに関しては<ラプラスの悪魔>というのがある。

Wiki


ラプラスの悪魔(ラプラスのあくま、: Laplace's demon)とは、主に近世・近代の物理学分野で、因果律に基づいて未来の決定性を論じる時に仮想された超越的存在の概念。「ある時点において作用している全ての力学的・物理的な状態を完全に把握・解析する能力を持つがゆえに、未来を含む宇宙の全運動までも確定的に知りえる」という超人間的知性のこと。

もしもある瞬間における全ての物質の力学的状態と力を知ることができ、かつもしもそれらのデータを解析できるだけの能力の知性が存在するとすれば、この知性にとっては、不確実なことは何もなくなり、その目には未来も(過去同様に)全て見えているであろう。

— 『確率の解析的理論』1812年


<力学的・物理的な状態を完全に把握・解析>するには時間微分が多用される。二番めの引用(ラプラス自身の言葉)には<未来も(過去同様に)>とあるが、これは<過去>が確定的なものという前提がある。

以上から<とき>は直線的なもの、また連続したものとなる。もう一つの大問題は<とき>が流れていいく、過ぎていく<方向>だ。これ関連したポストを以前に書いたことがある。一部を引用する。

"

"時間の方向" (sptt Notes on Grammar)

オシロスコープ (Wiki)

Basic Oscilloscope Front Panel Image.

オシロスコープに出てくる波形は時間の経過とともに右へ動いていく(ように見える)。サイン、コサインカーブだとわかりにくいが不規則な山谷グラフでは左から右への移動がよくわかる。たいていは常に動いているが、時間を止めたとして、あるいは写真をとったとすると、x= 0が現在で右側は過去の値を時間軸上に示していることになる。それではx= 0、現在(多分)の左側はなにか?奇妙といえば奇妙で、右端を現在としてその左側を過去の値を<逆の方向の時間軸>で示すようすれば、左端が一番古い値となる。過去の値は古い順に左端から消えていく。このほうが<理>にかなっている。または<直観>を裏切らない。だがオシロスコープが示すものは時間的に<前>の値が位置上、視覚上(感覚的に)<前>にあるわけで統一がとれているともいえる。無意識だが人の目は左から右へスキャンしてものを見ている。

  <川の流れは絶えずして . . . . .>というのがあるが、これだと過去(の川の水、あるいは水に浮かぶ木の葉)は前に進み見えなくなる(消えていく)のでこのオシロスコープの動きと同じになる。

<時間はどんどん去って行く>とい場合<前に去って行くのか>、はたまた<後ろへ去って行く>のか。これは後ろも前もないだろう。時間軸の方向(矢印)はかなり恣意的だ。

では過去の出来事はどんどん去って行く>とい場合<前に去って行くのか>、はたまた<後ろへ去って行く>のか

 "

歩いたり、走ったり、走っている車やバス、電車に乗ると<今見た>景色は<後ろへどんどん去って行く>。一方<これから過ぎる予定の景色は前にある>。だが景色は<とき>ではない。<今見た>景色が<とき>とともに固定されているとすると、あるいは<とき>が<今見た>景色に固定されているとすると<とき>は<後ろへどんどん去って行く>。しかし<とき>は景色に固定されていない。もし景色に感情があれば、どの景色も<とき>が進んでいく、去っていくの感じたりするだろう。<今見た>景色に固定されているのは頭のなかで、過去の出来事、<先ほど見た>出来事は頭の中で記憶にのこる。頭の中の記憶容量は限られているので記憶に残る過去の出来事はごくわずかだ。だが過去の出来事として残ることは残る。これからすると過去の<とき>は頭の中で記憶のなかに<去って行く>といえる。そして頭の中の記憶内容はかなり固定的だ。だが、これもまた一つの見方、考え方にすぎない。

 

sptt

 

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