Wednesday, January 8, 2014

<負け惜しみ>について、<嫉妬>のやまとことば

<負け惜(お)しみ>は文字通りでは<負けを惜しむ>だが、<負けを惜しむ>とはいったいどういう意味か?

<惜しむ>は大体次のように使われる。

1)力を出し惜しむ。
2)時間を惜しんで勉強する。
3)XXさんの死を惜しむ。
4)XXさんとの別れを惜しむ。
5)太郎郎は金を惜しんで(惜しんだので)花子にふられた。
6)数字一つ違いで宝くじの一等1,000万円を当てそこなった。惜しいことをした(惜しまれる)。
7)美代子は文学の才能があったが、水準の高い処女作を残して自殺してしまった。惜しまれる(惜しいことをした)。

1)力を(出し)惜しむ。

単に<力をださない>のではなく、<力が出せるのに出さない>のだ。なぜか? <力を出す>と何かが失われるような気がするからだ。

2)時間を惜しんで勉強する。

<時間がなくなる>のをおそれるように、といった意味だ。

3)XXさんの死を惜しむ。

<XXさんがなくなった>こと悲しむ、残念に思う、といった意味だ。残念はこの場合の<惜しむ>の漢語版に近い。

4)XXさんとの別れを惜しむ。

<XXさんと別れて会えなくなる>こと悲しむ、残念に思う、といった意味だ。

5)太郎は金を惜しんで(惜しんだので)花子にふられた。

<金がなくなるの>をおそれて、といった意味だ。

 6)数字一つ違いで宝くじの一等1,000万円を当てそこなった。惜しいことをした(惜しまれる)。

<手に入るところだった1,000万円が手に入らなかった>ことをいまいましく思う、といった意味だ。<惜しい>は形容詞で、この例の場合<惜しまれる>は使いそうにない。

7)美代子は文学の才能があったが、水準の高い処女作を残して自殺してしまった。惜しまれる(惜しいことをした)。

 <水準の高い作品が期待できるところ、期待できなくなった>こと悲しむ、といった意味だ。


共通している意味は<なにかがなくなる、なくなったことを>いやだと思う、おそれる、いまいましく思う、悲しむ、ということだ。 

漢語の<残念(無念)だ>、<残念(無念)に思う>が<惜しむ>の代わりに使える場合もあるが-3)、4)、6)、7)、

1)力を出し惜しむ。
2)時間を惜しんで勉強する。
5)太郎は金を惜しんで(惜しんだので)花子にふられた。

の例ではダメだ。

さて<負け惜しみ>についてだが、

<負けること、負けたこと、を悲しむ、残念に思う>という意味ではない。

<負けること、負けたこと、を恐れる>という意味もイマイチ。

<負けること、負けたこと、をいやだと思う、いまいましく思う>が一番近いようだ。 結局はある意味で<嫉妬>だ。<いまいましい>はコンピュータ辞書では<忌々しい>と出てくるが<忌む>は<嫌う>が元の意味のようだが、単なる<嫌う>でもなさそう。<いまいましい>と<嫌(きら)い>は違う。

<嫉妬>の大和言葉について考えてみる。

1)ねたむ
コンピュータワープロでは、妬む、嫉む、の漢字が当てられている。あわせれば<嫉妬>で<ねたむ>が一番<嫉妬>に近いようだ。
ときに<ねたみ、そねみ>で使われるが <そねむ>はほとんど使われない。
<ねたむ>に相当する英語は to be jealous of、 to become jealous of で jealous は形容詞。

2)うらやむ
コンピュータワープロでは、羨む、の漢字が当てられている。<うらやむ>も嫉妬に近い。他人が持っているモノ、コトが自分が持っていないことを<いやだと思う>ことだ。<なくなること、なくなったこと、をいやだと思う>のが<惜しむ>なので、<うらやむ>は<惜しむ>にやや近い。
<うらやむ>の関連語というか、もとのことばともいえるのに<うらむ>がある。
うらむ。 コンピュータワープロでは、恨む、怨む、憾む、の漢字が当てられている。<うらやむ>は自分に向かっているが、<うらむ>は他人、対象に向かっていおり、やや危険な心理状態だ。<うらやむ>から<うらむ>に発展することがあるようで、嫉妬心理の危険かつ不幸な一面を表している。ときに<うらみ、つらみ>で使われるが <つらむ>はほとんど使われないというか、無いようだ。<つれる>、<つらなる>からの連想か?<うらやむ>に相当する英語は to envy。

さらに関連語らしき言葉に<倦(う)む> (<生む>とはアクセントがことなる、東京アクセント)がある。<倦(う)む>は<飽(あ)きる>と同じような意味だが語感的には<倦(う)む>は暗く、<飽(あ)きる>は文字通り<あかるい>。

<いやみ> という言葉がある。コンピュータワープロでは、嫌味、厭味の漢字が当てられている。この言葉も相当複雑。<いやむ>という動詞ははほとんど使われないというか、ないようだ。<負け惜しみ>の解説の結論として、

<負けること、負けたこと、をいやだと思う、いまいましく思う>が一番近いようだ。

と書いたが、ここに<いや>がでてくる。<いやみ>も嫉妬がらみのようで、嫉妬の複雑さを示している。

<いやみ>に相当する英語はすぐには思い浮かばない。good will(善意) の反対の ill will (悪意)が近いようだ。ラテン語系の malevolent, malicious というのもある。

ところで<負け惜しみ>はいろいろな場面で使われるが、代表例はイソップ物語の中の<すっぱいブドウ>だろう。この話古い日本語版イソップ物語<伊曾保物語>では第一番目に出てくる。


渡邊譯:通俗伊蘇普物語
第一 狐と葡萄の話(1)
或日狐葡萄園《ぶだうばたけ》にはいり、赤く熟せし葡萄の高き棚より披鈴《すゞなり》にさがりたるを見て、 是は甘《うま》さうぢやと皷舌《したうち》して賞揚《ほめた》て、幾度となく躍《とび》上り踊上りたれどもとゞかず。 そこで狐が怒《はら》を發《たつ》て、「ヨシ、なんだこんなものを、葡萄はすツぱいぞ。」

これとにかよった<しっぽをなくしたキツネ>という話がイソップ物語のなかにある。これは伊曾保物語の中にはない。やはりキツネがでてくるが、すこし社会性をおびている。下記参照。

<しっぽをなくしたキツネ>
sptt自由訳
ある時キツネが仕掛けたわなにかかってしまったが、しっぽを切って逃げた。このキツネしっぽがない恥ずかしい思いを何とかすることが出来ないかといろいろ考えた。かくして仲間のキツネを集めて皆がしっぽを切ることを提案して言った。
<しっぽというものは、見栄(みえ)のためで、ただのおまけに過ぎず、動き回るのに重くてじゃまになるだけで、まったくいらないものだ。>
仲間のうちのあるキツネが言った。
<そうは言うが、あなた、もししっぽをなくしていなっかたら、わざわざ仲間を集めてこんな提案はしないのとちがうか?>
 しっぽをなくしたキツネは何も言わずに去って行った。
----

<すっぱいブドウ>の話の場合、上記の定義<負けること、負けたこと、をいやだと思う>の負ける、負けたわけではないが、ブドウをとることに<成功しなかった>ので、<負けた>に近い。

 <しっぽをなくしたキツネ>の話の場合はやや複雑で、
  
<しっぽがない恥ずかしい思い>はいわば劣等感で、これを<負け惜しみ>の発言で克服しようとする。しかしながら結局は<負け惜しみ>発言であることを指摘され、劣等感の克服は失敗に終わる。ところで、しっぽをなくしたキツネの発言は理論的には相当正しく、説得が成功した場合はどうだろうか?劣等感が克服できるだけでなく、提案者としての優越感が出てくるのではないか?

劣等感は英語では inferiority complex、一方優越感は superiority complex で、<complex>がつくように劣等感、優越感も相当複雑。

 劣等感、優越感のやまとことばはなにか?


sptt






Sunday, November 24, 2013

魚の目にも涙


<魚の目にも涙>はめったに使わないが、<顔に表情を表さない(とよく言われる)魚(さかな)でも(でさえ)涙を浮かべる>の意(推測)で、ケースバイケースで使われるようだ(これも推測)。<魚の目にも涙>をインタネットで調べると芭蕉の下記の俳句とその解説がある。

行く春や鳥啼き魚の目は涙

この句の解説ははぶくが、 芭蕉の句は<魚の目は涙>で<魚の目にも涙>ではない。<魚の目は涙>は俳句になる表現だが<魚の目にも涙>はことわざ、決まり文句に近い。だがこれは誤用だろう。

関連する言い方に

鬼の目にも涙
雀の涙

があるが<魚の目にも涙>とは意味が違う。 <魚の目にも涙>はこれからの連想だろう。

上記の推測解釈の<魚の目に(も)涙>が出てくる西洋の寓話を見つけた。この話は古い日本版伊曾保物語の中にある。

第五十四 釣師と小魚《こうお》の話(72)

 

或處に魚を釣《つり》て生業《なりはひ》とするものあり。 夏日《なつのひ》終日《いちにち》釣をしても所獲《えもの》なく、 夕方になりて歸らんとする時、漸く小鮮《こざかな》を一匹《ぴき》釣りあげたり。 其時小鮮《こざかな》あわれな聲を出して、「御助け下され。私はまだ小さう御座ります。 中々食料《あがりもの》にはなりませぬ。どうぞ河へ返《もど》して下さりませ。 私が大《おほき》うなりまして、丁度食《あが》れる頃になりますと、 必《きつと》此所《こゝ》へ參りまして、又御手にかゝります。」といへば、 釣師首をふつて、「否々《いや〜》吾《おれ》は今手前《てめへ》を捕へた。 もし汝《てめへ》を水の中に返《もど》したなら、其時汝《てめへ》は、 サア捕《とつ》て見サイナだらう。」

諺に、手にある鳥は、林の内の二羽にも充《むか》ふと云ふぞや。

<見サイナ>は<見ナサイナ>><見ナサイ>の間違いか?あるいは古語か?

----
上記の古い日本版伊曾保物語の中には<魚の目に涙>が出てこない。原文にも<魚の目に涙>が出てこないためと思われるが、<魚の目に涙>が出てくる話はいろいろある。

1.ラテン語版 

Aesop's Fables: Avianus

#20. de piscatore et pisce. (Perry 18)

Piscator solitus praedam suspendere saeta
exigui piscis vile trahebat onus.
sed postquam superas captum perduxit ad auras
atquc avido fixum vulnus ab ore tulit,
"parce, precor," supplex lacrimis ita dixit obortis;
"nam quanta ex nostro corpore dona feres?"
nunc me saxosis genitrix fecunda sub antris
fudit et in propriis ludere iussit aquis.
tolle minas, tenerumque tuis sine crescere mensis.
haec tibi me rursum litoris ora dabit.
protinus immensi depastus caerula ponti
pinguior ad calamum sponte recurro tuum.
ille nefas captum referens absolvere piscem,
difficiles queritur cassibus esse vices.
"nam miserum est" inquit "praesentem amittere praedam
stultius ct rursum vota futura sequi."


English Version

Perry 18

THE FISHERMAN AND THE FISH
There was a fisherman who was in the habit of catching his prey on the hook of his fishing line. One time he reeled in the trifling weight of a tiny fish which he had snagged. He lifted the fish up into the air and stabbed it with a piercing wound through its gaping mouth. The fish then burst into tears and pleaded with the man. 'Please spare me,' he said. 'After all, what sort of profit will you get from my body? My fertile mother just now spawned me down in the rocky caves, sending me to play in the waters that are the fishes' domain. Put aside this threat, and allow me my slender young body to grow fat for your table. This same strand of the shore will give me back to you again, and I will voluntarily return to your fishing rod a little while from now, fatter for having fed on the blue waters of the boundless sea.' The fisherman said that it was absolutely forbidden to let a fish go once it had been caught, and he complained that good deeds are often not rewarded when left up to chance. Finally the man concluded, 'It's bad business to ever surrender any possible gain, and even more foolish to start over again in hopes of greater profits.'


下線部が<魚の目に涙>が出てくるところだが一般的な記述で(もっとも、<魚の目に涙>自体擬人的な用法で、この子魚が水から出されてからの記述)特に<魚の目にも涙>の意味はない。ついでに<魚の目に涙>以外の伊曾保物語との違いを調べてみる。

伊曾保物語では<夏日《なつのひ》終日《いちにち》釣をしても所獲《えもの》なく、 夕方になりて歸らんとする時>という長い説明があるが、上記のAvianusのラテン語版にもラテン語版の翻訳に近い上記の英語訳版にもない。 一方ラテン語版、英語訳版には子魚の短い履歴があるが伊曾保物語にはない。もっとも<子魚の履歴>は話の筋や教訓とは関係がないようだ。だがもともとは何か関係があったと思われる。まあ、それだけこの話の元が古いということか。

さて、伊曾保物語では<小鮮《こざかな》あわれな聲を出して>とあるが、これはラテン語版、英語訳版にもなく、<涙を浮かべて(supplex lacrimis)>,<涙を流して(burst into tears)>がこれに代わっている。

なお上記の英語訳はAvianusのラテン語版にかなり近いが逐一訳ではない。この違いの理由の一つは<釣り>の仕方、道具がAvianusの時代(あるいはさらに古い時代)と英語訳版が出来た時で違ったためだろう。<saeta>は<硬い毛の集まり>の意なので<毛ばり>のようなものだろう。またのラテン語版釣り針(英語版では fook )も出てこない。


Another English version

146. THE FISHERMAN AND THE LITTLE FISH
A poor Fisherman, who lived on the fish he caught, had bad luck one day and caught nothing but a very small fry. The Fisherman was about to put it in his basket when the little Fish said:
"Please spare me, Mr. Fisherman! I am so small it is not worth while to carry me home. When I am bigger, I shall make you a much better meal."
But the Fisherman quickly put the fish into his basket.
"How foolish I should be," he said, "to throw you back. However small you may be, you are better than nothing at all."
A small gain is worth more than a large promise.
THE FISHERMAN AND THE LITTLE FISH

sptt




Wednesday, October 23, 2013

<しがない>、<仕方(しかた)がない>の語源


手元の辞書によると<しがない>は

形容詞 (<さがない>の変化という)うだつが上がらず前途に望みがない。となっている。

ところが<さがない>の項がこの辞書にはない。<うだつが上がらない>は慣用語でこれまた説明が必要だ。この辞書の<うだつが上がらない>の解説はかなり長い。

さて、<しがない>の<し>は<する>の連用形だろう。 連用形の名詞(体言)用法で<行きはよいよい帰りはこわい>の<行き>、<帰り>と同じ。名詞(体言)用法とはいって<し>は<すること>と同じではない。<行き>が<行くこと>と、<帰り>が<帰ること>と同じではないように。<しがない>は<することがない>ではない。しかしまったく違うというわけでもない。

sptt Notes on Grammar の ”日本語の<連用形の体言化>+体言” で次のように書いた。

”
一般的に言えることは、<連用形の体言化>+体言が<べき>としてつながることだ。英語でいえば、
a thing to see (take, think, do)に対応する。<ため>の場合、英語では a thing for seeing (taking, thinking, doing)となる。

”

これを応用すると<しがない>は<すべきことがない>となり、<しがない>の意味にやや近づく。<べし>は漢文の訳によくでてくるが、れっきとした大和言葉でいくつかの少し違った意味があり、<しがない>の<し>にも<べし>のいくつかの意味がありうる。


一方<仕方(しかた)がない>という表現があるが、この<し>は連用形の名詞(体言)用法がさらに進み、名詞(体言)の形容詞用法-<かた>を形容(修飾)する-と見ることが出来る。<するかたない>はほぼ同じ意味のようだがだが、<するかたない>は長いためかあまり使われない。ただし<するかたない>は<する>の連体形<する>+<かた>+<ない>で、連用形<し>+<かた>と違って<すべき>の意が薄(うす)いようだ。

<やるかたない>は<する>の意の<やる>ではなく<送る>、<送り出す>、<与える>の意に近い<遣(や)る>の連体形。

<やりかたがわからない>の<やり>は<する>の意の<やる>の連用形の名詞(体言)用法で<やるべき>方法の意だ。


sptt










Tuesday, October 15, 2013

モノの<ふるまい>の語源

<ふるまい>は漢字を使うと<振る舞い>になるが意味内容は<振る>も<舞う>も関係なさそう。<ふるまい>の語源はなにか?

以前のポストで<見舞い>の語源を書いたがこれにあまりとらわれずに、<ふるまい>について考えてみる。日本の物理の先生は<ふるまい>と大和言葉が気に入っているようでよく聞き、目にする。

無重力下でのモノの振る舞い(ふるまい)。<動き>や<場(ば)>も物理の先生が好きな大和言葉だ。これはなぜか?  物理学は中国からではなく西欧から輸入された。対応する英語は

振る舞い - behaviour (behavior)
動き         - motion、 movement
場(ば)  - field

<behaviour> は必ずしも物理用語ではないが、つきめるところ物理学は<モノの振る舞い>の原因を数式を使ってあらわす学問と言える。また振動は物理学ではモノの根源的な<振るまい>のひとつで、世界、宇宙は振動からできているとも言える。

振る舞い(behaviour)を漢語であらすと、行動、動作、行為があるがあるが、どれもイマイチで<振る舞い>にはかなわない。

さて<ふるまい>の語源について考えてみる。

<ふる>+<まい>、あるいは動詞形の<ふるまう>であれば<ふる>+<まう>と分析できるだろう。

<ふる>に大きく分けて<ふる(振る>と<ふる(降る)>がある。アクセントが違い、使い分けられている。<ふるまう>の<ふる>が<降る>の<ふる>由来である可能性は少ないが否定はできない。降りかかる雨。胡椒(コショウ)を振りかける。

<ふるまう>の特徴的なことは<ふる>の連用形<ふり>+<まう>の<ふりまう>(複合動詞)でないことだ。連用形<ふり>の複合動詞は多い。
 
振りあげる
振りあてる
振りおとす
振りかえる
振りかける  --> ふりかけ
振りかぶる
振りきる
振りこむ
振りしぼる
振りだす  --> ふりだし
振りつける  --> 振りつけ
(振りにげる)  --> 振りにげ (野球用語)
振りのける
振りはなす
振りはらう
振りほどく
振りまく
振りまわす
振りむく
振りむける
振りわける

文字通り<振って>XXするの意味が多いが、比喩的なのもある-振りあてる、振りかえる、(知恵を)振りしぼる、 (笑顔を)振りまく、振りわける。
また、<振る>は振動の表現でいく度も<行ったり来たり><する>、<させる>反復動作を示すようだが、振りあげる、振りあてる、振りかえる、振りかぶる、振りこむ、振りむく、振りむける、は反復ではなく<行ったきり>の動作で<振る>の漢字は必ずしも適切でないようだ。<ふる>のワープロ辞書は<振る>と<降る>だけだが 、<降る>は別として<ふる>には<振る>以外の意味があることになる。

振動の表現の大和言葉には<ゆれる、ゆする>があるがこちらのほう往復専用で<行ったきり>の動作は示さないようだ。右に振れる(O).右にゆれる(ゆする))(X)。

<ふる>が後ろにくる複合動詞はあまりない-わり振る。

いづれにしても<ふりまう>でなく<ふるまう>は特徴的なことで、語源を考える上で参考にした方がよささう。辞書によると<フルチン>は<振りチン>のなまりで、<ふるまう>も<ふりまう>のなまりの可能性がある。

<ふるまう>にはモノの<ふるまい>のほかにモノを<ふるまう>(与える)の意があり、<オオバン振る舞い>という言い方がある。<オオバン>の方は<大盤>のようだが、これだと与えるモノは食べ物だろう。<大判>だと金銭になるが、はした金ではない。<ふるまい>は文字通り<振り播く、振り撒く>の動作が想像され、これが語源だろう。モノの<ふるまい>の語源を考える上で参考にした方がよささう。また触れる(古語は<触る>か?)も関連があろう。


結局今回の調査では残念ながら語源がわからなかった。継続調査予定。



sptt

Friday, September 27, 2013

<たら、れば>について


一昔まえ、<たら、れば、じゃ話にならん> という言い方があった。つまり、仮定の話ばかりで現実的でないということだ。<にら、レバ>というご飯のおかずにかけた言い方だったと思う。

<たら>は仮定をあらわすとして、<れば>は何かというと、これも<xx(す)れば>で仮定をあらわすが、この<れ>はなにか?

行けば (五段)
立てば (五段)
座れば  (五段)
見れば (上一段)
起きれば (上一段)
寝れば (下一段)
捨てれば (下一段)

仮定形は上一段、下一段は<れ>がつくが五段は必ずしも<れ>がつかない。五段活用の場合、<仮定形 + る>は可能を示す。

読める
書ける
行ける
言える

この可能の意を維持したまま仮定形(れ)にすると

読めれば
書ければ
行ければ
言えれば

となる。

また<<たら>は仮定をあらわすとして>と書いたが、これも<た>は過去(完了)の助動詞であり、仮定といっても単なる仮定ではなく現実に反する仮定、いわば強い仮定だ。したがって、<たら、れば>は強い仮定の<たら>と可能の仮定<れば>で<まったく現実離れした話>ということになる。


(sptt Notes on Grammar <日本語文法とロジック - 4, 接続助詞>の一部コピー)


sptt

Wednesday, September 18, 2013

<おぼえる>の語源

<考える>の語源に続いて<おぼえる>の語源について考えてみ る。<おぼえる>は漢字でかくと<覚える>で少なくとも二つの意味がある。
1)記憶する
2)やや古くさい言い方だが<寒さを覚える>、<痛みを覚える>などの使い方で、現代風には<感じる>とほぼ同じ。
推論-1
前に<える>関連の別ポストで次のように書いて検討課題として残した。

”
思う(古くは、おぼゆ、おもほゆ) - おぼえる(覚える、と漢字を使うと見えなくなる)
思う - 思いえる --> 思える (可能)
<思う>は五段活用だが<おぼゆ>、<おもほゆ> 何活用か?<おぼわず>、<おもほわず>だと五段活用、<おぼえず>、<おもほえず>とも言いそうで、下一段活用になる。思える (可能)、<思わせる>は使役になる。
おぼえる -  思(ひ)える、思って得る (?)

(別途検討)

”
<おぼえる>と関連がありそうなのは<思える (可能)>。<おもえる>、<おぼえる>で一語の違い。あるいは<m>と<b>の違いだ。発音の転移が起こってもおかしくない(*)。しかし<思える (可能)>と<記憶する>や<感じる>との意味の転移はどうか?
(*) さみしい - さびしい、せまい - せばめる、せばまる
<おぼえる>を可能の<思える>ではなく、<思(ひ)える(思って得る) <-- <おぼい(ひ)える>の変化とすると、これは<記憶する>や<感じる>に通じる。前者は大和言葉、後者は漢語由来だ。<感じる>は<感ずる>、<感>+<する>。
おぼい(ひ)える --> おぼえる、変化は容易だ。
推論-2
<帯(お)びる>という言葉がある。古語は<帯(お)ぶ>。意味は<何かを持つ、何かの特徴を持つ>で、あまり使わないが、<おびる>自体すでに<持つ>という意味があり、重要語だ。古いが<剣を帯びる(佩びる)>、<赤みを帯びる(佩びる)>というい方もある。
おぶ --> おびえる --> おぼえる、と変化。<おぶ>はモノだけでなく抽象的なコトも<おびえる>(持てる)。<おびえる>には別の意味(<あびやかす>のグループ)が、混乱を避けて<おぼえる>となった。
sptt



Saturday, August 3, 2013

<考える>の語源


<考える>の語源について時々考える(思いをめぐらす)が結論は出ない。このポストは中間報告。

<かんがえる>の<える>は大和言葉だが<かんが>がよくわからない。文語だが<かんがみる(鑑みる)>という言葉がある。<かんが>+<みる>だ。<みる>は大和言葉の<見る>だろう。 <かんがみる>も<かんがえる>の意味に近いが<見る>があるので、<見る>感じがある。
<かんがえる>は現代語で、昔は<かんがう(ふ)>。 <かんが>+<みる>は<鑑みる>と書いてしまうと見えなくなるが、<かんがう(ふ)>の連用形<かんがい(ひ)>+<みる>だろう。だがこの<かんが>がよくわからない。<える(うる)>は可能の意か、または<得る>(手に入れる)の意だろう。


推定 1)

<かんが>の<かん>は大和言葉ではなく漢語の可能性が高い。大和言葉の<xxん>は限られているが、<xxん>の漢語は多い。また昔の日本人は耳がよく<xxn>と<xxng>を明確に区別してたので、<かん>すなわち<kan>だ。<kang >は<かう>になる。

中文のコンピュータワープロの(http://dict.cn/en/search/)<kan>は

看,砍,堪,刊,坎,槛,勘,阚,侃,瞰,龛,戡,莰,凵

もっともそれらしいのは<看>(見る)。<看>は現代北京語で、昔は<見(現代北京語 jian)>。
<勘>も候補でコンピュータワープロの解説(現代中国語)は

Define 勘:
1. to investigate
2. to survey
3. to collate


<カンがいい>、<カンを働かす>の<カン>はこの<勘>だ。但し<第六カン>の<カン>は<第六感>で、<カンがいい>、<カンを働かす>は<感がいい>、<感を働かす>が間違いとは言い切れない。また<かんじん>は<肝心>。漢語由来の<カン>が多いので日本人の頭の中で<カン>は明確に区別されていないだろう。

<kang >は<かう>だが<かんが(ga)>となっているので<kang>を一応調べてみる。

抗,炕,扛,抗 .... まだあるがそれらしいのはない。これはむしろ<gang>だろう。

刚,钢,纲,港,刚... まだあるがそれらしいのはない。念のため<gan>を調べてみる。

干,赶,感,敢,竿,甘,肝,干 ... まだあるが、関連ありそうなのは<感>と<敢>。

さらに<kuan><kunag><guan><guang>も調べてみる。現代日本語ではこれらもすべて<カン>となる。いつごろからこうなったのかは重要だ。

kuan - 款,宽,髋

kunag - 矿,筐,狂,框,况,旷 .... まだあるがそれらしいのはない。

guan -  关,管,官,观,馆,惯,罐,冠 ... まだあるがそれらしいのはない。

关(関),管,观(観)は関連ありそう。 しかも<g>のない<guan>だ。現代日本人で关(関),管,观(観)を<クワン>と発音するひとはなくすべて<カン>が。中国語では<kuan><guan>の区別(k と g)以上に<クワン>と<カン>の区別は重要でまったく違う発音。

guang - 光,广,逛,犷.... まだあるがそれらしいのはない。

一方現代中国語の<考(発音は kao 四声無視)>は依然として<考える>の意味はあるが、日本語の<考える>とは違う。よく耳にするのは<考虑>(考慮)と<考试>(試験)。<kao>は<かん>の<kan>、<かんが>の<kang>と発音上関係がないとはいいきれない。昔の日本人の耳には<kang>、<gang>は<かう(kau)> と聞きえたのだ。ちなみに現代広東語の<考>は<hau>と発音。

<かん>は漢語として問題は<かんがう(ふ)>の<かん>の次の<がう(ふ)>だ。 (現代語でいえば<かんがえる>の<かんが>の<が>だ)。

<かう(ふ)>は<交(まじ)わる>の意がある。行きかう、飛びかう。他動詞は<かわす>。言いかわす、取りかわす。

<かん>を<かう(ふ)>で<かんかう(ふ)>。濁音便で--> 濁音便で<かんがう(ふ)>となる

<かう(ふ)>にふさわしい<かん>を探すと<勘>になる。上で述べたが、<カンを働かす>のカンはこの<勘>だ。 <勘>はこの場合動詞ではなく名詞。中国は動詞も名詞も基本的に発音も同じ。だが逆に<勘を働かす>という表現と<勘がえる>はどうも結びつけにくい。

感(gan)、関(guan)、観(guan)も候補。


結論としては

<かんがえる>の方も<かん(勘、漢語名詞>+<かう>の連用形<かい(がい)>+<える> --> かんがえる

意味としては<調べを交わして得る>。<える>は可能ともなるが、この場合は<得(え)る>だろう。


 推定 2)

かんがえる

<かん> +<かう>の使役<かえる>(交(まじ)える) - (濁音便 )-><がえる>。

 意味としては<調べを交(まじ)える>。

かんがみる

<かんがえ>+<みる> -> かんがみる

かんがえ(調べを(まじ)え)見る


 推定 3)

<かん>が漢語の<勘>でない場合。 

感(guan)がえる - 感を交(まじ)えて得る、感を交(まじ)える
観(guan)がえる - 観を交(まじ)えて得る、観を交(まじ)える


 推定 4)  

<がえる(かえる)>は<加(くわ)える>

勘(を)くわえる
感(を)くわえる
观(観)(を)くわえる


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