Wednesday, February 15, 2017

<慙愧に堪えない>のやまとことば


<慙愧に堪えない>は政治家や著名人や大会社の社長などがあやまちを認め公的に謝るときに好んで使われるようだ。一般社会では少し大げさすぎる。<慚愧>はもちろんやまとことばではない。どういうわけか昔の中国ではほとんど異なった二つの意味があったようだ。いま<水滸伝-1(手へんの漢字について)>というブログを書いているが、出だしで次のような文章に出くわした。
  
xxx 母親說道:『天可憐見 !慚愧了我母子兩個脫了這天羅地網之厄!此去延安府不遠了,高太尉便要差我也拿不著了!』母子二人歡喜 xxx


<我ら母子二人はxxxxx厄から脱した>ので<慙愧する>では何のことだかわからない。調べた結果は次の通り。


<慚愧>は曲者で日本語の<慙愧に堪(た)えない>の慙愧とはずれがある。本家の慙愧はかなり複雑。


<慚愧>
反義詞: 驕傲
近義詞: 內疚,汗下,羞慚,羞赧,羞愧
基本釋義:
1. [be shamed]∶ 因有缺點或錯誤而感到不安;不安
2. [lucky]∶ 幸運,僥幸


という簡単な解説があるが、1.と 2.はほとんど関係がない。上記の引用の場合、発話内容から <2. [lucky]∶幸運,僥幸>だ。

1. be shamed]∶  因有缺點或錯誤而感到不安;羞愧>


不安>と<羞愧関係が薄いが一行の解説で並んでいる近義詞の<內疚>は<はじ>、<はずかしい>とは違って個人的な、内的な<良心の呵責>に近い(と思っていた)。<汗下> は出くわしたことがないが<(はずかしくて)汗を垂らす>だろう。<赧颜汗下>という四字成語があり、<赧>の字は見たことがないがこれも想像がつく。続く<羞慚,羞赧,羞愧>は個人的、社会的(世間体)の程度に違いがあろうが<恥>と言える。これらが、これまた<內疚>を含めて一行の内に並んでいるのだ。ちなみに手元の日本語辞書では<慙愧:悔いかつ恥じること>とあるので、<內疚>かつ<汗下,羞慚,羞赧,羞愧>ということか?これは意外と重要なポイントだ。
ここで問題は<慚愧>の反義詞が<驕傲(おごり)>となっていることだ。まあ、<はずかしげもなくxxする>のが<驕傲(おごり)>とはいえるが、<恥>と<おごり>は結びつきにくい。だがこれが中国人の発想ともいえるので軽視できない。日本人の発想からは<おごり>の反対は<遠慮>、<謙虚>、<つつしみ>だろう。恥に関係なく<遠慮、謙虚さ、つつしみのない言動>が<驕傲(おごり)>と考える。大体西洋人にとっては<遠慮>、<謙虚>、<つつしみ>は必ずしも徳、ほめられたことではない。この辺は中国人は日本人よりも西洋人に近いようだ。したがって<慚愧>の反義詞が<驕傲(おごり)>見るのだろう。もっとも反義詞というよりは<慚愧ない言動>が<驕傲(おごり)>ということなのだろう。<遠慮>、<謙虚>、<つつしみ>はあまり関与しない。これは日本人にとってわかりにくいが重要なポイントだ。


さらに調べてみると、慙愧はもともと仏教用語のようだ。下記の解説参照。


http://ddmtv.ddm.org.tw/Upload/UserFilesPath/file/201401/20140105.pdf



知慚愧才能更上進 -聖嚴法師
「慚愧」是佛教的專有名詞,在佛教傳入中國之前,並沒有「慚」、「愧」二字連稱的詞彙,而這兩個字都是一種修行的方法與觀念。其中「慚」指的是對不起自己,也就是「自慚形穢」;「愧」指的是對不起他人,所以說「愧對於人」。其實一個對不起他人的人,往往也會對不起自己,譬如做錯事傷害到別人時,至少對自己的品德就已經造成損害,所以也是對不起自己。
而當我們對不起自己的時候,往往也就減少了對人能夠更好一些的機會,所以對不起自己通常也就對不起他人。譬如父母都希望兒女能為家族爭光,兒女如果沒有做到,那是對不起自己,也對不起父母,讓他們失望了。
雖然並沒有做壞事,但是因為不夠用心努力,浪費了時間、生命,辜負了家人、家族的期待。因此,慚、愧二字連起來用,就有對不起自己又對不起他人的意思了。
所以,我們對於老師、朋友,乃至於全體眾生,都應該經常懷著慚愧心,這也是印光大師自號為「常慚愧僧」的原因。一位人人都認為缺點很少,足以為模範的高僧,仍然覺得自己經常犯錯而感到慚愧,這不僅是謙虛的一種品德,而且是比謙虛更進一步的修行。
謙虛是自知有所不能、有所欠缺,所以對人很謙虛。可是慚愧是非常積極的,自己知道錯了應該改過、自己知道不行應該努力,自己知道做得已經不錯,但是還不夠好,應該更努力改進,這就是常常有慚愧心、菩提心的人。我們學佛就是要學習有智慧、有慈悲,自利利人的菩提心、菩薩心,並且要一直到成佛才算圓滿;在尚未成佛以前,都應該隨時提起慚、愧這兩字。
如果能夠常把「慚愧」兩個字放在心頭,則會有三大好處:第一是不敢懈怠,會非常精進、努力。第二則是非常謙虛,不但見到任何人都會尊敬,並且會無條件地幫助人。第三是能夠忍辱負重,因為懂得慚愧,所以難行能行、難忍能忍、難捨能捨,這就是菩薩精神。
因此我們不要誤會,認為有慚愧心就表示是有缺點,承認有缺點就表示做人很差勁,事實上是恰好相反的。因為知慚愧,所以才能缺點很少,常常改進;因為知慚愧,所以保持努力,精進不懈。
本文摘錄自法鼓文化出版《放下的幸福》



冒頭の<「慚」指的是對不起自己,也就是「自慚形穢」;「愧」指的是對不起他人,所以說「愧對於人」。>は「慚」は自分に対する<對不起>、「愧」は他人に対する<對不起>と明確だ。
<慚>は<內疚>に近い。<愧>は <汗下、羞慚、羞赧、羞愧>に近い。<慙愧:悔いかつ恥じること>に相応する。だが他人に対する<對不起>はかならずしも<恥>ではない。<恥>はいろいろ論議があるが<他人の目>、世間、社会がからみ、これらと自分との関係を考えた相当複雑な<對不起>だ。


上記の仏教的解説はなぜ2. [lucky]∶幸運,僥幸の意味が発生、派生してきたかも説明しているようだ。つまり、かなり高度の宗教的解脱みたいなもの、あるいは根拠のないこじつけになるが、<慙愧>を継続的、習慣的にすることにより、あるいは<慙愧に堪えれば>幸運、僥幸というか幸福が得られる、ということか?


さて日本語で<くいる>という言葉がある。 漢字で書くと<悔いる>


<慙愧>の発音は<can kui>(四声無視)で<愧>は< kui>。<悔>の発音は<hui>(四声無視)。<hui>は昔、どこかの地域では<くkui>であった可能性がある。<kui>+動詞語尾<る>で<くいる>になる。一方<慙>は発音(can、つぁん)対応する日本語が見つからない。<悔いる>は社会性が薄く、自分に対する<對不起>、<內疚>に近い。したがって<慙愧>の<慙>が<悔いる>だ。一方<愧>は他人に対する<對不起>、<汗下,羞慚,羞赧,羞愧>で<はじ>、<はず(古語)>、<はじる>。つまりは、すこし時間を費やしたが、<慙愧>のやまとことばは日本語辞書の<慙愧:悔いかつ恥じること>に落ち着くことになる。あとの<堪えない>を加えると<悔いかつ恥じることに堪えない>となるが、語呂が悪いし意味も通じにくい。名詞(体言)形にして<悔いと恥じに堪えない>も語呂はよくないが、この方がよさそう。だが、問題はまだ残っている。問題は<悔いと恥じ>が同時になされることで、<悔い>も<恥じ>も深度、真摯さが薄れるような感じがする。この辺が、言い古されていること慙愧>がやまとことばでないことに加え、政治家や著名人や大会社の社長の<慙愧に堪えない>という発話がほとんど聞く人の心を打たない理由ではないか。


sptt

Wednesday, November 16, 2016

回転のやまとことば -2 (回転、Curl)


だいぶ前のポスト ”回転のやまとことば” の初めに

"

回転のやまとことばを調べてみる。

まわる - まわす   to rotate, to revolve, to spin(以上主に自転),
                                    to circulate, to orbit は通常一回転以上。
             to turn around は半回転か多くとも一回転。

<ひねる(ひねり)>も回転がらみだが、<ひずむ(ひずみ)>、<ひがむ(ひがみ)>など<ひ>がらみ言葉が多いので別途検討予定。

"
と書いたが、別の角度から<回転のやまとことば>第二弾を試みる。

数学、物理用語に Curl というのがあり、日本語では普通回転と訳される。Wiki-Japan の回転(数学)の解説のなかにつぎのような箇所があった。ただしこれは2010年頃のもので、現在(2016年)のWiki-Japan の回転(数学)はほぼ英語版の訳のようで、独自性がなくなっている。


前略

xxxx (難しい数式)

の力のずれが生じており、これが軸に対して左ねじ(反時計回り、すなわち負)の回転力として働く。 (*) 後略

下線はspttがつけたもの。

さすがに Curl(回転)の解説だけに回転がらみの言葉が多いが、やまとことが多く使われている。英語の直訳ではこうはいかないだろう。

ずれ>は確かに<ずれ>でもいいのだが、<ねじり>でもよさそう。あとに ” x軸に対して左ねじ(反時計回り、すなわち負)の回転力 ” とあるので、むしろ<ねじり>がよさそう。

しかし、前略の部分と難しい数式を抜かしているのでわからないが、難しい数式はy-zの平面上(2D)のことを言っているので<ねじり>はふさわしくないからかもしれない。<ねじり>は2Dでもいいのだがふつうは3Dの動作、(ねじられた)状態だ。それでは ”Curl” は3Dの分析なのでやまとことばは<ねじり>がいいかというと、いまいちなのだ。<ねじる>は確かに主に3Dの動作だが、特定方向なのだ。一方 ”Curl” は場(ば)のあらゆる点(箇所)での四方八方の(あらゆる方向)の ”回転” 具合を数式、図であらわすことなので、<ねじりまわり(まわし)>、<こねまわり(まわし)>が適当のようだ。<ひねり>をくわえれば<ひねりまわり(まわし)>。

個人的には<こねまわし>がいいと思うが、”Curl” は対象の<こねまわり>状態(具合)の分析だ。だが、見方をかえて自然が対象を<こねまわし>ていると考えればいい。


(*)
xxxx (難しい数式)

の力のずれが生じており、これが軸に対して左ねじ(反時計回り、すなわち負)の回転力として働く。 

これは何を言っているのかというと、 ”Curl” の解説の一部で、回転には必ず軸があり、この回転軸が 対象(対象はベクトルで方向がある、この場合方向はy-zの平面上にある)に ”Curl”をほどこした後のベクトルの方向(y-zの平面上にはなく、x軸)ということで、大事なコンセプト。一方 ”Curl” 後のベクトルの大きさは<ずれ>の大きさ。これを3Dにすると、<こねまわし>の大きさとなる。 ”Curl” の話はとかくややこしい。



sptt

Sunday, November 13, 2016

<たくさん>の語源 - 2


前に書いた ”<たくさん>の語源” はやまとことばに捕らえられていため、かなりの無理、こじつけがあった。<たくさん>は漢語由来だろう。

前半の<たく>は贅沢(ぜいたく)、潤沢 (潤沢)の<沢(たく)>だろう。

贅沢、潤沢は前半の漢字< 贅>、<潤>に<たくさん>の意味がある。<贅>は見慣れない漢字で、書けない人が多いだろうが<贅(ぜい)をつくす>の<贅>だ。<潤>はやまとことば読みにすると<潤(うるお)う>だ。一方後半の<沢(たく)>はさんずいがありやまとことば読みは<沢(さわ)>で、<水がある所>の意か。<水がかれている>ところは<さわ>とは言わないだろう。以上の漢語から、連想がはたらくと<たく>に<たくさん>の意があることになる。

では<たくさん>の後半<さん>はなにか。

関西方言と思われるのに<ぎょうさん>という言い方があり、よく聞く。漢字は<仰山>だが、<仰ぎ見る山のように>で<たくさん>の感じはあり、まったくの当て字ともいえないようだ。<仰々しい>は<おおげさ>、<やりすぎ>の意で<贅沢>と通じるところがあるる。

問題は<さん>だが、<山(やま)>ではなく接尾辞の<様(さま)>由来の<さん>だろう。<様(さま)>は人につく敬語(敬称)だが<様子(ようす)>でもある。

以上でだいたい<つじつま>があう。

ところで<たくさんある>の<たくさん>と<もうたくさんだ>の<たくさん>は標準語(東京方言)ではイントネーションが違う。 これは耳が相当よくないと聞き分けらない。

sptt









Tuesday, November 1, 2016

モノをいう


<xxがモノをいう>という言い方がある。他動詞では<xxにモノをいわせる>となる。以前に<いう>については書いた。sptt Notes on Grammar "<言う>のマイナスイメージ". ではこの<モノ>は何か?




実社会では実力、行動力がモノをいう。

政界では金脈がモノをいう。

金にモノを言わせてxxを買いまくる。


<xxがモノをいう>は言い換えると<xx が力(効果)を発する>、<xx がよく働く>が考えられるが、意外さや比較の意が含まれているようで、<ふつう考えられているyyよりも>の意が隠されているようだ。

実社会では(学歴よりも)実力、行動力がモノをいう。

政界では(人脈よりも)金脈がモノをいう。

<モノ>の方は<力>や<働き>をあらわすようだ。<力>や<働き>はモノとして目には見えないがコトでもない。

<いう>は単に<しゃべる>、<話す>、<言葉で表現する>ではなく、<主張>や<言い分(ぶん)>が含まれている。sptt Notes on Grammar "<言う>のマイナスイメージ" 参照。

<もの言い>は<文句をつけること>だが、これも<主張>や<言い分(ぶん)>を伝えることだ。


sptt

Sunday, July 31, 2016

付く、着く、離れる


<Sunday, November 4, 2012>に書いたようなのだが、なくなっているので再度取り上げる。一部修正。


<離れる>は<着く、付く>の反対語だが、<着く、付く>が一般化しているのに反して<離れる>関連の動詞はそれこそ山のようにある。

ある場所から離れるのを、去る、とも言う。<立ち去る>の<立つ>(<発つ>とも書かれる)も<東京をたつ>というから<さる>の意に近い。反対語は<着く>。<xx を去る>は他動詞、<xx から去る>は自動詞なのだが、<去る>の感覚的には自動詞だ。一方<取り去る>の<去る>は感覚的に他動詞。<去る>はかなり一般化(高度化)した動詞だ。

的(まと)から離れてしまうのを、それる、はずれる、たがう(当たらない)、とも言う。反対語は<近づく>、<当たる>。自動詞。

的(まと)から離れようとするのを、避ける、逃(のが)れる、とも言う。反対語は<近づける>。他動詞。

付着していたものが離れるのを、抜ける、脱げる、とれる、落ちる、はずれる、はげる、はがれる、とも言う。反対語は<付く>。自動詞。

付着していたものを離すのを、抜く、脱ぐ、取る、落とす、はずす、はぐ、はがす、そぐ、もぐ、剃(そ)る、刈る、除(のぞ)く、ぬぐう、掃(は)く、払う、のける、とも言う。反対語はおおむね<付ける>。他動詞。

ひとつの物を二つ以上に離すのを、切る、断(た)つ、裂(さ)く、割(さ)く 、割(わ)る、やぶる、分ける、散らす、削(けず)る、とも言う。これらも反対語はおおむね<付ける>でいいが、<寄せる>、<合わせる>もある。他動詞。

<近づく>の反対語は<離れる>でもよいが、近(ちか)+付く(着く)とすると、<離れる>よりも<遠のく>、<遠ざかる>がいい。自動詞。

のく - 関連語:のける、のがれる
さかる - 関連語:避(さ)ける、裂(さ)く

調べていないが<かる>と言う古語は<離れる>の意があったようで、そうすると<さ>は接頭語でいいだろう。

sptt

Thursday, July 14, 2016

<たのむ>、<たよる>について


<たのむ>はよく使うやまとことばだ。コンピュータワープロでは<頼む>が一番目に出てくるが<頼む>だけではまに合わない場合がある。

1)花子に来てくれるように頼む(頼んだ、頼もう)。

2)花子、頼むから来てくれ。

1)は<頼む>でよさそうだが、2)の<頼む>はややおかしい。文字にするとこの違いが出てくるが、言ったり、聞いたりする場合は<たのむ>だ。1)はあまり感情がはいっていない。2)は感情がはいっているだけでなく、<頭を下げている>様子が想像され、さらに<頼む>と言う漢字はそぐわないような気がする。

名詞(体言)の<頼み(たのみ)>はどうか?

1)頼みがある。
2)頼みの綱

これまた1)は<頼み>でいいが、2)は<頼み>という漢字はそぐわないような気がする。また、これまた文字にするとこの違いが出てくるが、言ったり、聞いたりする場合は<たのむ>だ。


コンピュータワープロでは二番目に<恃む(たのむ>が出てくるが、使う人はごく少ないだろう。侍(さむらい)と勘違いしそうだ。こちらの方は、漢語を使うことになるが、<依頼する>というよりは<依存する>。<依存する>は<よりかかる>といううやまとことばがある。<たのもしい>という形容詞は<よりかかれる>といった意味だ。さらには<よりかかる>は<よる>+<かかる>だが、<よる>関連では<たよる>というこれまたよく使うやまとことばがある。<たのもしい>は<たよれる>でもある。

たのむ
たよる

と二つならべて、さらに

た のむ
た よる

としてみる。

<た よる>は接頭辞<た>+よりかかるの<よる>で語源が説明できそう。一方これを<た のむ>に応用すると接頭辞<た>+ 飲むの<のむ>になる。<のむ>には<うけいれる>と言った意味もある。こじつけのようだが、これが<たのむ>の語源ではないか?

<頼みの綱>は慣用化されているが、<たよりの綱>と言ったら、笑われるか?


はじめの方で<花子、頼むから来てくれ>は<頭を下げている>様子が想像され、と書いたが、これはイタリア語勉強中 supplicare と言う動詞に遭遇して書いたもの。supplicare は<たのむ>に似た意味がある。辞書をしらべると英語にも、聞いたこと、見たことはないが、to supplicate という動詞がある。supplicare はラテン語分析すると、sub + plico で、sub は<下へ(に)>(subway, submarine)、 plico は<折る、曲げる>だ。連想がよくはたらく人は英語の to complicate が思い浮かぶのではないか。<下へ(に)><折る、曲げる>は<頭を下げている>様子が想像される。

英語には to beg という動詞がある。I beg your pardon. は聞き返すときの常套句になってしまっているが、少しゆっくり、感情をいれて言えば、頭を下げて許しを請うときにもつかえる。

ところで、中国語はどうか?<依頼>という漢語があるので、<たのむ>に相当する動詞がありそうだが、日常の口語では<助ける>に相当する<帮(手)>がきわめてよく使われるが、頭を下げるほどではない。頭を下げる方は<救>で<救救你>という。これは<あなたを助ける>ではなく、<あなた様、お助けください>といった意味だ。<救你>だと<あなたを助ける>の意になるようだ。

<たのむ>は手元の辞書の第一義は


相手を信用して、力を貸してくれる(自分のかわりに何かをしてくれる)ように申し入れる。

となっており、けっこう複雑な内容。<たのまれる>ということは信用されているということだ。ひとは<たのまれているうちが花>と言えそう。


sptt









Monday, May 16, 2016

<濡れ衣>、<濡れ場>の語源


このポストとは、<濡れ衣を着せられる>というタイトルで書いている(長くなりつつある)別のポストを書いているうちに、たまたま<濡れ衣>、<濡れ場>の語源らしきものに出くわしたので、独立させて書いたもの。<抜き書き>なので内容はほぼ同じ。
中国(語)に<多露之嫌>という四字成語がある。日本ではなじみがないが、中国語のインターネット辞書では

多露之嫌】:露:露水;嫌:厌恶。想早晚行走,又怕露水沾湿衣裳。后用以指男女私会。也比喻行为不检点,受人指责。

という解釈がある。日本語の解説は次のとおり。

厌恶: 厭惡(けんお)

想早晚行走,又怕露水沾湿衣裳。>は<服が露(つゆ)に濡れないよう、夜は早めに出かけたい>という意味だろうが、ここで<濡れ衣(ぎぬ)>が出てくる。後半の説明からするとこれが<濡れ衣>の語源のようだが、<服が露に濡れないよう、夜は早めに出かけたい>と<無実の罪をかぶせられる>は結びつかない。後半の説明を調べてみる。
男女私会>は<デート>のことだろうが、日本語では<濡れ場>とういう言い方があり、夜に<おりる>露と関連がなくもない。これが<濡れ場>の語源かもしれない。

比喻行为不检点,受人指责。>は<点検しないで、人の指责(非難)を受ける>の意なのでこれが<無実の罪を着せられる>と結びつく。しかし<多露之嫌>から点検しないで、人の指责(非難)を受ける>への意味の変化は大きな飛躍だ。

多露>だけでも比喩的な意味がある。

多露 : 1.谓露水多。 2.比喻受霜露之苦。 3.比喻遭人议论猜疑。

<受霜露之苦>は文字通りの意。だが<霜露>をいやなものとして考え、頼みもしないのに、知らずうちに<おりて来て>身や服を濡らす、と考えると<遭人议论(議論猜疑)(ひとの議論や猜疑に遭遇する)>と結びつく。

日本語では<夜露に濡れる>、<雨露にぬれる>という言い方はあるが、<少し嫌(いや)だ、少し迷惑だ>ぐらいの意味で、ここでとどまっているようだ。こう考えるのは私だけか?

さて<多露之嫌>から<無実の罪をかぶせられる>の意の<濡れ衣を着せられる>への発展であるが、もう少し説明が必要だろう。上で ” <霜露>を嫌(いや)なものとして考え、頼みもしないのに、知らずうちに<おりて来て>身や服を濡らす、と考えると ” と書いたが、<頼みもしないのに、知らずうちに<おりて来て>服を濡らす>は迷惑、被害意識が強いと、自分はなにも悪いことはしていないのに、いやな、いまいましい(忌々しい)霜露をふらした<天>を怨(うら)む、に発展する。

以上が大体<濡れ衣>の語源と考えられるが、多分に中国由来だ。繰り返しになるが、言い換えると、

霜露が、自分はなにも悪いことはしていないのに、また頼みもしないのに、夜の間に、知らずうちにおりて来て服を濡らして困らせる(難儀する)ように、自分はなにも悪いことはしていないのに<悪いことをした>と人に言われて迷惑だ、困っている、難儀している。

ということになる。


sptt