Wednesday, May 26, 2021

見るま、またたくま

 

<見るまに>は短い時間と思うが<またたくまに>はもっと短い時間のことだ。

見る間にあたりが暗くなってきた。

<またたくま>にあたりが暗くなってきた。 

はダメだろう。<見るまに>は<みるみる>でもよさそうで

みるみるあたりが暗くなってきた。  

<みるみる>はおもしろい言い方で、<みるみる>に<見る>の意識はほとんどないが、<みるみる>は<見て、またすぐ見る>の意だろう。<見て、またすぐ見る>は<またたく>をゆっくりするようなことだ。

さて、このような重箱の隅をつつくような話をしているかというと、イタリア語の dal vedere al non vedere という言い方に出くわしたからだ。どこで出くわしたかというと、イタリア語の童話<ピノキオ(の冒険)>だ。その英訳は意外というか、苦心の作でおもしろい。イタリア語と英語を並べると、

http://ercoleguidi.altervista.org/pinocchio/

第5章

Ma l'appetito nei ragazzi cammina presto, e di fatti, dopo pochi minuti, l'appetito diventò fame, e la fame, dal vedere al non vedere, si convertì in una fame da lupi, in una fame da tagliarsi col coltello.

But appetite with boys walks fast, and in fact, after a few minutes, the appetite became hunger, and the hunger, in a twinkling, became ravenous; a hunger one could slice with a knife.

dal vedere al non vedere は直訳すれば<見るから見ないへ(の間に)>で<またたく(まぶたをたたく)>に近い。一方英語が in a twinkling で twinkling はtwinkle twinkle little star という歌があるので、星がチラチラするの<チラするあいだ>で、これもきわめて短い時間で、これも<またたく>に近い。そのほかにも英訳は苦心のあとがみられ、

si convertì in una fame da lupi 

 が

became ravenous

 になっている。 <オオカミのように腹をへらして>という表現は英語にないのだろう。最後の

una fame da tagliarsi col coltello.

a hunger one could slice with a knife.

は多分<ナイフで切られるようなひどい<腹のへり方>という意味だろう。

ところで、英語の hunger とイタリア語の fame は名詞で日本語では<腹がへっていること>、<おなかがすいていること>の意味だが長すぎて、一語表現の簡潔さからはほど遠い。<飢(う)え>という言葉があるが、日本語の<飢え>は文章語で、口語ではいわば<腹へり>だが使うことはない。おそらくこれは<飢(う)え>が中国語の<餓(現代北京語ではあいまい母音の e (エではなく u ウに近い)>由来で、やまとことばではないためだろう。


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Tuesday, May 25, 2021

見とれる、みせられる、見入る

 

<見とれる>を<見取れる>と書くのはまちがい。 <見とれる>は<見て><取れる>ではない。問題は<とれる>で、これが何だかよくわからない。調べてみると、複雑で<見とれる>は<見とろける>という意味なのだ。意味が先にくれば<美人に見とれる>がなるほど、とわかる。

<とろける>は<とける>の関連語だが、砂糖が水(お湯)にとけてもすぐにな<とろけ>ない。<水あめ>をどういうふうにつくるのか知らないが、<水あめ>はねばねばしていて、とろけた状態とは言い難い。<水あめ>をお湯で適当にとけば<とろけた>状態になりそうだ。 

一般には<かたいモノ>が<とける>と<とろけた>状態 になる。かたいといっても石のようなものはダメだ。肉を煮ると柔らかくなるが、<とろ>火で煮るのがよさそうだ。かたい鉄も高熱でとろけた状態になる。石も超高熱でとろけた状態になるか。石はくだきつぶす、またはすりつぶせそうで、粉にしてから水かお湯でかきまぜればとろけた状態になるか。鉄や石はとろけた状態にしても食べられないが、かたい穀物は熱でとろけた状態にしてから食ることが少なくない。

<とろける>は自動詞で、他動詞は<とろかす>、<とろけさす>。 <見とれる>のもと<見とろける>は<見て、かたい自分がやわらかくなるような、とけていくような>様子の形容だ。とろけると外部からの力で変形し、固定した形がなくなる。つまりは、固定した形の自分がなくなるのだ。

似たようで、ややこしい言葉に

みいる: 見入る - 魅入る
みせられる: 見せられる - 魅せられる

がある。これも調べてみたら、もとは、ほとんど使わない<みする>。<み>はやまとことばではなく、魅力の<魅(み)>で、この<魅(み)>に<する>がついた<魅(み)する>。<魅(み)する>の受身形が<魅せられる>。

<魅(み)する>は漢字に意味を借用した外国語の翻訳だろう。というのは他動詞だからだ。英語で言えば

to charm
to enchant

でこれを受身形にすると

to  be charmed
to be enchanted

となる。to  be charmed はあまり聞かない、見ないが、形容詞の charming は日本語にもなっており、これが<魅(み)する>に関連しているか。だが to enchant = 魅(み)する、がぴったりだ。

さて、このような重箱の隅をつつくような話をしているかというと、英語の entranced という語に出くわしたからだ。どこで出くわしたかというと、イタリア語の童話<ピノキオ(の冒険)>の英訳だ。イタリア語と英語を並べると、

http://ercoleguidi.altervista.org/pinocchio/

第3章

"Piglialo! piglialo!" urlava Geppetto; ma la gente che era per la via, vedendo questo burattino di legno, che correva come un barbero, si fermava incantata a guardarlo, e rideva, rideva e rideva, da non poterselo figurare.

"Catch him! Catch him!" shouted Geppetto; but the people in the street, seeing this wooden marionette running like a barbero, stood entranced to stare, and laughed, laughed and laughed as no one could ever imagine.

第4章

Il povero burattino rimase lì, come incantato, cogli occhi fissi, colla bocca aperta e coi gusci dell'uovo in mano.

The poor marionette stood there, as if entranced, his eyes fixed, his mouth agape and the egg-shell in his hand

原文のイタリア語の方は動詞 incantare の過去分詞 incantato で、これなら英語の方も enchanted でよさそうだが、なぜか entranced が使われている。

これは名詞の<入り口>の entrance と少しは関係があるかもしれないが、動詞 to entrance の過去分詞形だ。動詞 to entrance の意味は大体 to enchant と同じだが、 entranced だと

みいる: 見入る - 魅入る

と関係が出てくりかもしれない。前後の状況から、entranced の状況では少しの間だが動きがとまっている。このあたりにわざわざentranced という語を使った理由があるのか知れない。

日本語の方も<魅入る>はほとんど聞かず使わずで、使われるのは受け身形の<魅入られる>、<魅入られて>だ。また意味からすると<見入る>、<見入られる>でいい、というか本来これだろう。


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Monday, May 24, 2021

でんぐりがえる


<でんぐりがえる>を言葉で説明するのは簡単ではないが、子供も大人も<でんぐりがえり>、<でんぐりがえし>(手もとの辞書ではこれが見出し語になっている)は知っている。

英語ではどういうかというと somersault が名詞形で、<でんぐりがえる>という動作を言う場合は

to turn a somersault

とか

to make a  somersault

というようだが、わたしは聞いたことも使ったこともない。発音はサマーソルトで通じるだろう。言葉で通じなければ身をもって示せばいい。somersault の語源は dictionary.com では

1520–30; <Middle French sombresaut, alteration of sobresault; compare Old Provençal sobre over (<Latin super), saut a leap (<Latin saltus)

とあり、フランス語由来のようで,頭のsome は英語の some ではない。

さて<でんぐりがえる>はスポーツをのぞけば子供の遊びと言える。地上で<でんぐりがえる>のは、少し練習すれば、さほど難しくはない。これを空中でやるのは<とんぼがえり>と言うようで、これは練習と勇気がいるが、身軽という条件で、これまたさほど難しいことではない。<トンボを切る>という言い方がある。テレビなどでは忍者がこれをする。

ところでなぜ<でんぐりがえる>を取り上げたかというと、イタリアの子供向け童話に<ピノキオ(の冒険>>というのがあり、実際にフルで読んだ人は多くはないと思うが、始めの部分(第2章)にピノキオがダンスやフェンシングとともに<でんぐりがえり>ができるようにする、という話がある。イタリア語で<でんぐりがえる>、正確には<<でんぐりがえりをする>だが、これを

fare i salti mortali 

と言っている。何度もできるように複数になっている。salto (単数)は英語の sault と同根で、jump (名詞形)。上の語源説明で<saut a leap (<Latin saltus)>とある。イタリア語では似たような語に salute というのがあり、こちらは<健康>というい意味だ。問題は形容詞の mortale (単数名詞につく場合)で<死の>という意味だ。始めは何のことだかわからなかったが、<死ぬほどのジャンプ>、<決死のジャンプ>で意味がとおる。

<でんぐりがえる>にもどると、

世の中をひっくりかえす

は場合によっては革命のことと言えるが

世の中をでんぐりがえす(でんぐりがえさす)

では大きな騒ぎはおこるが、元に戻ってしまう。

関連の言葉に<ころがる>がある。純やまとことばで<ころがり>は物理用語か工学用語でよく使われる。体を横にしてころがるのは<でんぐりがえる>ではなく<ころがる>で、<ころがる>は基本動詞。<ころがる>は<転がる>と書くが<でんぐりがえる>も回転運動だ。<寝ころがる>、は正確には回転運動ではなさそうだが<ごろごろする>は回転運動気味だ。

<ころげまわる>は<ころがり>ながら<まわる>でかなり複雑な動きだ。

<くるくるまわる> 、<ぐるぐるまわる>、<くる<、<ぐる>が擬態語だ。<でんぐりがえる>の<でんぐり>は<でんぐる>の連用形だと思うが、<ぐる>は擬態語に近い。<でん>は<でんでんむし>の<でん>と関係がありそうだ。<でんでんむし>は<出む出む、虫>が語源らしく、<でんぐる>は<出てぐるりとまわる>、<頭を前に出してぐるりとまわる>動作に近い。

 

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Definition of salto mortale

deadly jump : full somersault : fateful or dangerous decision

somersault

Origin of somersaultde

1520–30; <Middle French sombresaut, alteration of sobresault; compare Old Provençal sobre over (<Latin super), saut a leap (<Latin saltus)

 

Wednesday, May 12, 2021

そんじょそこいら、案の定

 

<そんじょそこいら>と<案の定>(<案の上>ではない)は何の関係もなさそうだ。<そんじょそこいら>はおそらく東京下町方言で歯切れがいい。使うのは死語のなりつつありヤグシ(香具師)だ。一方<案の定>は<やはり>の意味に近く、むしろ語源がよくわからない<やはり>の理解に役立ちそう。

さて<そんじょそこいら>と<案の定>の関係だが、<案の定>を平仮名で書いて並べると

そんじょそこいら
あんのじょう

これでもまだよくわからない。<そんじょそこいら>を手もとの辞書で調べてみると

そんじょそこいら <- そんじょうそこいら <- そのじょうそこいら

<そこいら>は<そこら> で<そんじょうそこら>とも言う。<そこら>は<ここら><そこら>の組がある。<あこら><どこら>は聞かないので<こそあど>にならない。相当するには<あちら>、<どこいら>だろう。<どこら>はほとんど聞かないが、<どこいら>は聞くし使う。

ここら(ここいら)、そこら(そこいら)、あちら、どこいら(どこら)

で不完全だが<こそあど>になる。

さて辞書の解説は<そのじょう>は<その定(じょう)>由来と書いてある。しかし<その定(じょう)そこいら>がどうして<そんじょそこいら>になるかだ。これは辞書の解説にない。ここで<案の定>が少し助けになる。

<案の定><やはり>の意味は

いろいろあったが、結局のところ予想、考えていた(こと)、<xxのはず>どおりになった

ような場合を示す(暗示する)ときに使われる副詞(句)といえる。正しかった予想、考えていた(こと)、<xxのはず>がある種の定(さだめ)、そうなること(そういう結果になること)が決まっていた、と考える考え方がある。運命説か。

<その定(じょう)>にこれをあてはめると、<そのように定められている>、<おきまりの>で、さらに<普通の>、<どこにでもあるような>となり<その定(じょう)そこいら>で意味が通じる。

 

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Thursday, April 29, 2021

<しかし>の語源

 

<しかし>は逆説の接続詞の代表。手もとの辞書(三省堂新明解)で調べてみたら、<しかしながら>の解説が

<しかし>の強調 

となっている。語源からすると本末転倒だろう。

<しかし>の<しか>は、<然(しか)り>の<しか>で

しからば (しかあらば) 順接
しかして (そうして)  順接
しかも  順接、追加

と活躍する。 <しかし>は<しかしながら>の短縮形だろう。

しか+しながら

<しながら>は

せまいながらも楽しい我が家 (貧しいながらも楽しい我が家、でもいいだろう)

これは <も>がない

せまいながら楽しい我が家

でもいい。

<しながら>の<し>は<する>の連用形の<し>。<xx ながら>同時進行の<食べながら歩く>という言い方もあるが

どぎまぎしながら(も)なんとか答えた

四苦八苦しながら(も)完成させた(生活した)

で逆接、さらには譲歩の意味がある副助詞。したがって

しか+しながら (しかしながら)

は

しか<する>だが(にもかかわらず)

で

すうするが、そうするのではあるが ‐> そうではあるが、そうであるにもかかわらず

のような意味になる。


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Tuesday, April 20, 2021

なしくずし

 <なしくずし>はよくわからない言葉だ。意味がわからないので使ったことはないが、聞いたことはある、だが、残念ながらどういう状況で使われたのかは記憶にない。おそらく意味がわからないので記憶に残らないのだろう。ネット調べてみたが、誤用が優勢になっているようだ。

https://japanknowledge.com/articles/blognihongo/entry.html?entryid=409

のサイトに詳しく丁寧な解説がある。これでわかったような気がするが実際自分で使うとすれば優勢になっている誤用の方だろう。勢いにはさからえないのだ。これは<なしくずし>の結果だろう。また<なしくずし>の威力ともいえる。

<なしくずし>は、手もとの辞書の簡単な解説によると<既成事実をつくること>と書いてあるが、大体はあるよからぬ、けしからぬ意図をもって既成事実をつくること、だ。これはよく目にする。けしからぬ意図がみえみえのこともあり、これは意味がさらに少しズレくるようだ。

 

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Saturday, April 17, 2021

<ことわり(理)>と<お断り>

 

<理>の一字で<ことわり>と読める人、読む人はごくまれだろう。<これ、ものごとの理なり>と書いてあれば、<これ、ものごとのリなり>でもいいが<これ、ものごとのことわりなり>のほうが語呂がいい。

やまとことばの大きな特徴のことばに<わかる>がある。<わかる>は<分ける>の関連語。<わかる>は<ものごとを分けて考えれば分かる>で、<ものごとを分けて考えること>、分析的な考え方の重要性を言葉が示している。

一方<理、ことわり>は<こと割>、<ことを割る>そして<ことを割って考える>に通じそうだが、そうはならず<断(ことわ)る>に通じていまう。<断(ことわ)る>には関連はあるが違った主に二つの意味がある。

1)(多くは相手に都合の悪いと思われること )を前もって伝えるておくこと。
2)申し入れ、願いごとを拒絶すること。

<断る>と書いてしまうとわからなくなるが、<ことを割る>がこのような二つの意味を持つようになったのは謎だ。また1)と2)どちらが元(もと)で、どちらが派生か?も謎だ。

ネットの語源関連辞典 (由来・語源辞典 http://yain.jp/i/%E6%96%AD%E3%82%8B ほか)では

”

断るの語源・名前の由来について、語源は「こと(事)」+「わる(割る)」で、物事の是非・優劣などを分けて判断する、きちんと説明する意味で使われていた。

それがあらかじめ理とつくして相手に知らせておく意や、事情を話して辞退する意になった。

”

となっているが、納得できる、あるいは<目からうろこ>の説明ではない。 <理とつくして>は<理をつくして>だろう。だがこれからすると<「こと(事)」+「わる(割る)」で、物事の是非・優劣などを分けて判断する、きちんと説明する>がなぜかよくわからないが <あらかじめ理をつくして相手に知らせておく意や、事情を話して辞退する意になった>とあるので<ことわる(理)>と<断(ことわ)る>は関連があることになるが、疑問が残る。<語源は「こと(事)」+「わる(割る)」で、物事の是非・優劣などを分けて判断する、きちんと説明する意味で使われていた。>は本当だろうか。これまた疑問だ。

”

「こと(事)」+「わる(割る)」で、物事の是非・優劣などを分けて判断する、きちんと説明する意味

 ”

は<分けて>で<割って>ではない。<分ける>と<割る>は同じではない。<モノ>を<割る>と壊れる。モノを<割って、壊して>見ると中身を調べることができる。これは<分ける>でもいいが、<割る>の場合は破壊がともない元にもどらないのが基本だ。<分ける>は<分けて>見て、調べたあと、もとに戻すことができる可能性がある。あるいはもとに戻すことを前提として<わける>と考えることもでききる。

また<もの割る>ではなく<こと割る>だ。 <分ける>の方はことさら<もの分ける>でも<こと分ける>でもないが<割る>のほうはことさら<こと割る>だ。<もの割る>ではなく<こと割る>はかなり高度化、抽象化されたモノゴトの見方、表現で、むかしの日本人がやまとことばで考えていた時代に<ことを割る>ような高度化、抽象化されたモノゴトの見方をしていただろうか。おそらく漢語が入ってきてからの<やまとことば>だろう。

漢語の<理>は理由の理だが、理の一語では理由にならないだろう。<理屈>は漢語のようだが、日本版の漢語だ。これは下記の中国人向け日本語学習ネットの<理屈>の説明を見ればわかる。

”

https://www.hujiang.com/jpciku/je79086e5b188/
 
理屈是什么意思及读法
【名】
(1)理论lǐlùn。道理dàoli。理lǐ。理由lǐyóu。(物事のすじみち。道理。ことわり。)
理屈に合っている。/合乎道理。
双方ともに理屈がある。/双方都有理。
あの男に理屈を言って聞かせても無駄だ。/向他讲道理也白搭báidā。
理屈は結構だが実行はむずかしい。/理论满好,实行困难。
そんな理屈はない。/没有那种道理;岂有此理qǐ yǒu cǐ lǐ。
物事は理屈どおりにはいかない。/事物不能总照理走。
(2)歪理wāilǐ。诡辩。借口jièkǒu。(捏造niēzào的)理由lǐyóu。(こじつけの理由。現実を無視した条理。また、それを言い張ること。)
彼は何とか理屈をつけては学校を休もうとする。/他千方百计qiān fāng bǎi jì地找借口想不上学。
理屈をこねまわして自分の主張を通す。/捏造种种理由坚持自己主张。
理屈を言えばきりがない。/歪理说起来没有完。
そりゃ何とでも理屈はつくさ。/要找借口有的是!
理屈と膏薬はどこへでも付く。/借口随时都可找,膏药到处都可贴

 ”

この説明はたいへん参考になる。

(1)理论lǐlùn。道理dàoli。理lǐ。理由lǐyóu。(物事のすじみち。道理。ことわり。)

ここにやまとことばの<すじみち>、<ことわり>がでてくる。 道理は純漢語で日本版漢語ではない。道理は現代中国でもよく使わてるが(よく聞くのは<有道理>)、意味に日本語の道理とは少しズレがあるが、<ものごとの道理>はほぼ同じような意味だ。日本語では

道理で(おかしいと思った)

という慣用的な言い方がある。(1)のなかに<理由>があるのに注目したい。これは日本版漢語<理屈>の説明だが、<理论lǐlùn。道理dàoli。理lǐ。理由lǐyóu>なので、中国語では<理lǐ = 理由lǐyóu>としても大きな間違いではないだろう。ややこしいがここで<理lǐ>は<理lǐ =理论lǐlùn。道理dàoli>。さらにこれを日本語に流用すると、<ことわり>は<理由>、そしてやまとことばの<わけ>になる。<わけ>は<分ける>で、これがややこしい話をますますややこしくする。

日本版漢語<理屈>の説明で大いに参考になるのは(2)だ。

(2)歪理wāilǐ。诡辩。借口jièkǒu。(捏造niēzào的)理由lǐyóu。(こじつけの理由。現実を無視した条理。また、それを言い張ること。)

なぜかここでまた<理由>がでてくる。 (2)の解説は日本版漢語<理屈>の否定的な面の意味だ。いわば<へ理屈>の解説だ。私の見たところでは中国ではこの種の言葉が発達している。

繰り返しになるが、強調したいのは

<ことわり>は<理由>、<ことわり>は<わけ>になる。<わけ>は<分ける>で、これがややこしい話をますますややこくする。

の箇所。算数も<割り算>は<分け算>ともいえる。10を2で割ると5になる。言いかえると10個のモノを2個のグループで(2個ごとに)分けると5個の2個のグループになる。(末尾参照)

念のため手もとの辞書にあったてみたところ、<ことわり>の解説は

”

是非を判断する意の雅語の動詞<ことわる>の名詞形。ことわり(事分)の意。

”

とある。これでは<事割り>とは<ことわり(事分)>のこととなり、わけがよくわからない。話はやはりややこしいのだ。文献をたどれば<是非を判断する意の雅語の動詞<ことわる>>があるのだろうが、<ことわる>はやまとことばだが意味内容<是非を判断する意>は純やまとことばとは思えない。これは中国文化の影響がある。話はやはりややこしいのだ。この説明よりは、上記の中国語版日本語学習ネットの<理屈>の説明の1)、繰り返しになるが

(1)理论lǐlùn。道理dàoli。理lǐ。理由lǐyóu。(物事のすじみち。道理。ことわり。)

が大いに参考になる。これからすると

ことわり = 物事のすじみち、道理

となる。 道理はやまとことばの<わけ>に通じる。<わけ>は使い込まれた語でいろいろな慣用句がある。

わけがわからない  <理由、物事のすじみち>がわからない。
わけない   むずかしいことはない。むずかしいわけ(理由)はない。簡単だ。
わけあり   目に見えない、かくされた理由(事情)がある。

そんなことするわけない。  そんなことする(理由、道理、すじ、いわれ、はず)はない。

いいわけ   口実(こうじつ)。これは中国語での言い換えのようだが、本場の中国語は上にある<借口jièkǒu>だろう。<いいわけ>は順序を入れ替えたやまとことばの<わけ<理由>を言う>がもとになっている。これからすると、<わけいい>だ。<わけをいってみろ>という言い方がある。答えは口実、借口の<いいわけ>とは限らない。

わけがわからない  <理由、物事のすじみち>がわからない。

そんなこと、いいわけないだろう。  この<いいわけ>は上の<いいわけ(口実)>ではなく<よいわけ>で(イントネーションが違う)、<よい道理><よいみちすじ>の意。

以上は基本的には<理由>だが<物事のすじみち>とオーバーラップしているのがある。<理由>と<物事のすじみち>は不可分のところがあるようだ。


しない(行かない)というわけ(意味)ではない。 するのか、しないのか / 行くのか、行かないのか? かなり持って回った言い方だ。
xx というわけではない。   xx ということ(内容)ではない
これはあれとわけ(内容)が違う。
これはそこいらの安物とはわけ(内容)が違う。

以上は<理由、みちすじ>から意味がズレている。<わけ=意味、内容>というのは手もとの辞書にある<わけ>の意味の解説のひとつだが、<わけ=意味>はなんとか理解できるが、<わけ=内容>は相当の飛躍だ。

聞きわけがない  聞く耳をもたない、言ったことに従わない。<聞き分ける>由来だろうが、<聞き分からない>由来とも考えられる。   

話がだいぶ横道にそれているので、始めの話にもどる。繰り返しになるが

”

<断(ことわ)る>には関連はあるが違った主に二つの意味がある。

1)(多くは相手に都合の悪いと思われること )を前もって伝えるておくこと。
2)申し入れ、願いごとを拒絶すること。

<断る>と書いてしまうとわからなくなるが、<ことを割る>がこのような二つの意味を持つようになったのは謎だ。また1)と2)どちらが元(もと)で、どちらが派生か?も謎だ。

”

どちらが先か?はおそらく1)が先で、2)は相当込み入った1)の派生と考えらる。 

1)(多くは相手に都合の悪いと思われること )を前もって伝えるておくこと。

は<ことを割る>というよりは<ことを分ける>、<ことわけ>、<コトのわけ(理由、事情)を説明する>に近い。

2)申し入れ、願いごとを拒絶すること。

は<一般的な申し入れ、願いごと>を拒絶する、ではなく、1)の事前の了解を得る、得ておく<申し入れ、願いごと>あるいは<ことわけ>、これを受け入れないこと、受け入れないことの表明ではないだろか。こうすると、1)と2)の関連ができる。さらに、ここで<割る>がでてくるが(使われるようになった)、これは<こわす>(拒絶)の意がある。つまりは2)の<ことわる>は、<物事の是非・優劣などを分けて判断する>や<是非を判断する意の雅語の動詞<ことわる>なんかではなく、<ことわけ>を<こわす>ことの意からでてきた表現ではないか。

これが結論。


末尾

かなり前に<加減乗除のやまとことば >というポストを書いたことがある。その中で

”
<割る>は<分ける>でもあるが、正しくは<等しく分ける(等分)>だ。<割る>と余りが出たり、分数になったりする。一方分数を掛けることは<割る>ことになるので<掛ける>が常に<増える>ことではない。これは負数(マイナス)を足すと<引く>になるのに似ているが、<負数(マイナス)を足す>はかなり高度な数学的な技(わざ)だ。<掛ける>も見方を変えれば<同じモノ(数字)を何度も<足して>いくことなので、少なくとも<足す、引く、掛ける>は<足す>でまに合うことになる。

”

と書いている。 


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