Thursday, October 24, 2019

傷だらけの人生


<傷だらけの人生>は俳優兼歌手の鶴田浩二が1970年にヒットさせた歌(演歌か)の題名。私は当時歌謡曲に興味がなかったせいか記憶にない。今ビデオで見る限り、鶴田浩二が歌わないと<サマ>にならないようだ(*)。タイトルは<傷だらけの人生>だが歌詞内容は表面的には<傷だらけの人生>を歌っているわけではない。ただ背景に<傷だらけの人生>を匂わせているのだろう。この歌では<傷だらけの人生>は<失敗続きの人生>、<間違いだらけの人生>ではない。セリフと歌詞は次の通り。


作詞:藤田まさと
作曲:吉田正

セリフ 「古い奴だとお思いでしょうが、古い奴こそ
新しいものを欲しがるもんでございます。
どこに新しいものがございましょう。
生まれた土地は荒れ放題、今の世の中、
右も左も真っ暗闇じゃござんせんか。」

何から何まで 真っ暗闇よ
すじの通らぬ ことばかり
右を向いても 左を見ても
ばかと阿呆の からみあい
どこに男の 夢がある

セリフ 「好いた惚れたとけだものごっこが
まかり通る世の中でございます。
好いた惚れたは、もともと心が決めるもの…
こんなことを申し上げる私も
やっぱり古い人間でござんしょうかね。」

ひとつの心に 重なる心
それが恋なら それもよし
しょせんこの世は 男と女
意地に裂かれる 恋もあり
夢に消される 意地もある

セリフ 「なんだかんだとお説教じみたことを申して参りましたが
そういう私も日陰育ちのひねくれ者、
お天道様に背中を向けて歩く…馬鹿な人間でございます。」

真っ平ご免と 大手を振って
歩きたいけど 歩けない
嫌だ嫌です お天道様よ
日陰育ちの 泣きどころ
明るすぎます 俺らには



1番

セリフの中で続く歌の歌詞、さらにはこの歌全体に関連のあるのは最後の<今の世の中、右も左も真っ暗闇じゃござんせんか>だけ。このセリフのイントロ<古い奴だとお思いでしょうが . . . . .>以下はいわば枕コトバだ。歌詞の部分を見てみる。

何から何まで 真っ暗闇よ
すじの通らぬ ことばかり
右を向いても 左を見ても
ばかと阿呆の からみあい
どこに男の 夢がある

<何から何まで 真っ暗闇よ>が冒頭にあり、その前のセリフの最後<今の世の中、右も左も真っ暗闇じゃござんせんか>に呼応してすぐに出てくるのでかなりなインパクトで歌全体にぺシミスチックな印象を与えている。あとから出てくるそのわけを先に出せばそうでもない。

(とかくこの世は)すじの通らぬ ことばかり
右を向いても 左を見ても
ばかと阿呆の からみあい
何から何まで 真っ暗闇よ
(どこに男の 夢がある)

<すじの通らぬ ことばかり>の<すじ>は、別のところでかいたが、やまとことばの中では効果的な言葉で、英語で言えば justice (正義)ではなく righteousness(本源的な正しさ)。

<ばかと阿呆の からみあい>は<ばかと阿呆の だましあい、ばかしあい>のほうが具体的に世の中を反映していると思うが、<ばかも阿呆>もとくに悪意のあるひとたちではない。<キツネとタヌキのばかしあい>という言い方があるような気がするが、使いふるされているので歌詞としてはよくない。もちろん語呂(音節数)が歌に合わない。<ばかと阿呆の せめぎあい>でもよさそう。ところで<せめぎあい>とは言うが動詞の<せめぐ>はほとんど聞かない。<いがみあい>の<いがむ>もそうだ。

<右を向いても 左を見ても>が歌の歌詞らしいところで、<右を向いても 左を向いても>でも<右を見ても 左を見ても>ではない。これは中国語の修辞法のひとつで<右を向いて見ても、左を向いて見ても>の意で一種の掛詞(かけことば)だ。

<どこにの 夢がある>はやや唐突だ。この歌は特に表立って男をうたったものではない。<どこに人(ひと)の 夢がある>だと字足らずになる。個人を出して<どこにわたしの 夢がある>、複数にして<どこにわれらの 夢がある>だと男でも女でもいいことになるが、どうもダメだ。<どこにおいらの 夢がある>ならいいが、これだとこれまた男に限定されてしまう。ただし3番の最後、つまりはこの歌の最後に<. . . .  おいらには>と男がでてくる。

<夢も希望もない>というのがはっやたことがある。希望はもじって<夢もチボウもない>というのもあった。この歌の当時かもしれない。一方1957年にヒットしたコロンビア ローズの<東京のバスガール>は対照的で<若い希望も夢もある>というのが冒頭に出てくる。時代背景が大きく変わっているのだ。

<ばかと阿呆>が純やまとことばではないようだが、大和言葉の歌(演歌)として違和感はない。

2番

ひとつの心に 重なる心
それが恋なら それもよし
しょせんこの世は 男と女
意地に裂かれる 恋もあり
夢に消される 意地もある

2番の歌詞が一番いい。
セリフの「好いた惚れたは、もともと心が決めるもの…」とも呼応している。2番 だけならNHKの紅白出場に問題はなかっただろう。<しょせん>が<所詮>で漢語、<意地>も漢語だが、かなりやまとことば化している。<いじ>と<すじ>は離れているが韻を踏んでいる。<所詮>と<意地>以外はすべてやまとことば。いいやまとことばだ。特に出だしの<ひとつの心に 重なる心>がいい。<ひとつの心>の<ひとつ>は三音節だが、やまとこばの不定冠詞といえる。<だれの心>でもいいのだ。

最後の<夢に消される 意地もある>でまた夢がでてくる。だがこの意味がよくわからない。<男の夢>とすると<傷だらけの人生>に合わない。字ずらからは<夢が意地を消す>となるが、どういう意味か? 文脈からは、この夢は<恋の夢>だろうが、<意地が(恋の)夢の中に消えていく>、<恋は意地より強し>ということか?だがこれでは首尾一貫しないような気がする。

3番

真っ平ご免と 大手を振って
歩きたいけど 歩けない
嫌だ嫌です お天道様よ
日陰育ちの 泣きどころ
明るすぎます 俺らには

ひとにより好き嫌いもあるが、3番の歌詞は<真っ平ご免>、<大手を振って歩く>など常套句が多い。題名<傷だらけの人生>との関連度合が一番ある。<日陰育ち>も常套句だが、一般には漱石の<坊ちゃん>に出てくる<うらなり(君)>だ。ここはこの歌詞に出てくるような意味だろう。<大手を振って(歩きたいけど) 歩けない>とすると犯罪者、前科者が想像されるが、連想されるのは<やむに已まれず>妻を殺してしまって逃亡し<大手を 歩けない>水滸伝の主人公<宋江>だ。だが宋江と<傷だらけの人生>を歌う鶴田浩二とはかけ離れている。(注:<坊ちゃん>も水滸伝も私の愛読書でこのような連想になる。)


(*)
http://kayokyokuplus.blogspot.com/2017/02/koji-tsuruta-kizu-darake-no-jinsei.html

このサイトでビデオが見られる。鶴田浩二以外に五木ひろし、藤圭子が歌っているが<ら>の発音が巻き舌気味になっていてわたしの耳には聞きづらい。これ演歌の<ら>か?一方鶴田浩二の<ら>はしっとりしていている。それぞれの歌手により全体的な雰意気が大いにちがうが、この<ら>の違いが気になる。
鶴田浩二は淡々とそして丁寧に歌っている。鶴田浩二その人の存在が中心にあって独特の雰意気を醸し出している。また上に書いたように、歌詞は(意図的にか)首尾一貫していないところがあり、この歌の内容の反社会(権威)性、虚無性、自暴自棄性の度合は聞く(見る)人によるだろう。私には鶴田浩二の存在感と歌いぶりがまず先にくる。いい歌だと思う。

文法的には<も>の多用がめだつ。

こんなことを申し上げる私やっぱり古い人間でござんしょうかね。

それが恋なら それよし
意地に裂かれる 恋あり
夢に消される 意地ある

そういう私日陰育ちのひねくれ者、

以上の<も>は<は>または<が>で置き換えできる。置き換えたほうが意味がはっきりするが、はっきりし過ぎるのであえて<も>を使ったのか?


 sptt



Thursday, October 10, 2019

くせ、くそ、くさい


<くせ(ku-se)>も<くそ(ke-so)>もいい言葉ではないがよく使われ必要のようだ。ちなみに<くさ>、<くし>、<くす>はどうか?

くさ(ku-sa) - 草、くさい(臭い)、くさる(腐る)
くし(ku-shi)- 櫛、串
くす(ku-su)- くすぐる、くすねる、くすぶる、くすむ、くすめる、くず(ku-zu)、ぐず(gu-zu)

どうもいい言葉ではないのが多い。やまとことばのおもしろいところだが、ここでは<くせ>をとりあげて、少し調べてみる。

<くせになる>という言い方がある。似たような表現に<やみつき>になるがある。<やみつき>は<病み付き>で、一種の<やまい(病気)>だ。英語では addiction というのがある。中国語では中毒。一方<毎朝欠かさずに半時間ほど運動をする>には意思が必要のようで、<いいくせ>があってもよさそうだが、<くせになる>ではないようだ。<くせ>にはこの<xx しようとする>意思は要らないようで、むしろ<くせ>をやめるのに意思が必要のようだ。中国語、漢語では<習慣>というのがあるが、どちらかというと中立だ。英語では habit というのがあり、bad habits が多いようだが、good habits もあり、中立のようだ。

<毎朝欠かさずに半時間ほど運動をする>習慣がある、は問題ない。また
<毎日ひと箱ほどタバコを吸う>習慣がある、もそれほどおかしくはないが、中立的で非難口調はない。
<毎日ひと箱ほどタバコを吸う>くせがある、もおかしくないが非難口調になる。


<くそ>の方は、本来の意のほかに

くそばばあ、くそじじい
くそ暑い
くそくらえ

といった悪態語がある。 日本語は<悪態語(ののしりことば)>が少ないのが特長のようだが、この<くそくらえ>は悪くない。

<くさい>も 悪態語として使われる。

めんどうくさい(めんどくさい)
ばばくさい(じじくさい)
おほくさい(関西方言、標準語は<ばからしい>か)
<うさんくさい>。だが<うさんな>という言い方はない。



sptt




Thursday, September 12, 2019

<to give up> と<あきらめる>-3 cedere


しつこいようだがまた<to give up> と<あきらめる>。というのはさらにある発見をしたからだ。イタリア語の動詞に cedere という動詞がある。関連の英語では

to concede, concession
to proceed, process, procession
to succeed, success

と接頭語がついた <-cede>の語がよく使われている。to concede は<ゆずる>が主な意味だが、<ゆずる>は<あきらめる>に深く関係している。イタリア語の動詞 cedere を調べて見ると多義語だ。

Collins Italian  <-> English
" 
transitive verb
  1. (concedere)
    cedere qc (a qn) to give sth up (to sb) (eredità, diritto) to transfer sth (to sb), make sth over (to sb)
    cedere il posto a qn (in autobus) to give sb one's seat
    le ho ceduto il posto I gave her my seat
    cedere il passo (a qn) to let (sb) pass in front
    cedere il passo a qc (figurative) to give way to sth
    cedere la parola (a qn) to hand over (to sb)
  2. (business, vendere) to sell
    "cedo" or "cedesi" "for sale"
Intransitive verb
  1. (crollare)
    1. (persona) to give in
    2. (terreno) to give way, subside
    3. (muro) to collapse, fall down
    la sedia a sdraio ha ceduto sotto il suo peso the deckchair collapsed under his weight
    il suo cuore ha ceduto his heart couldn't take the strain
    ha insistito tanto che alla fine ho ceduto she was so insistent that in the end I gave in
  2. (soccombere)
    cedere a to give way to, to surrender to, yield to, give in to
  3. (deformarsi, tessuto, scarpe) to give
"

他動詞
1. (concedere)の初めに出てくる<to give up>は<あきらめる>ではなく<ゆずる>の意に近いが<あきらめる>の意は否定できない。つまりは<ゆずる>と<あきらめる>は関係が深いのだ。

自動詞
1. (crollare)は<引き下がる>、<身を引く>。

(muro) to collapse, fall down

 muro は壁で、<壁がくずれ落ちる>の意。<あきらめる>はこの<落ちる>でもいいが<折れる>がよさそう。<ここはひとつ折れて>で<ここは一歩ゆずって>の意になる。

2.(scombere) は<xxに屈する>の意で、対象があるが

英語の説明で to give in の熟語で to give がでてくる。

3. (deformarsi, tessuto, scarpe) "to give"

deformarsi (自分自身を)変形する(デフォルメする)だが、自動詞的な意味で<変形する><形が変わる>。
tessuto  "material" ,"fabric"
scarpe "shoes"

これが英語の to give に相当する、ということなのだ。 dictionary.com のgive の解説には簡単だが

"
verb (used without object),
gave, giv·en, giv·ing.

to make a gift a or gifts; contribute: to give to the United Way.
to yield somewhat, as to influence or force; compromise: 

"
という下線部の意味ありげな意味がある。 つまりは to give だけで to give up の意味があるのだ。これは新発見だ。

追加

smettere

Collins Italian  <-> English

"
transitive verb
    1. (gen) to stop
    2. (studi) to give up
    3. (vestiti) to stop wearing
    smettila! stop it!
    smettila di urlare! stop shouting!
intransitive verb 

 (interrompersi) to stop, cease
smettere di fare qc to stop doing sth
quando sono entrato hanno smesso di parlare when I came in they stopped talking
smettere di fumare to stop o give up smoking


<やめる>はこれまた<あきらめる>に深く関係している。<あきらめる>は<(xxすることを)やめる>の意ともいえるが、上記例のようにタバコ、おしゃべりなど<やめる>にもいろいろある。<タバコ、おしゃべり>をあきらめる、とはあまり言わない。だが続けたいタバコ、おしゃべり>をあきらめる、ならいいだろう。続けたい>の<たい>(願望)が<あきらめる>に関係しているようだ。言い換えるとタバコ、おしゃべり>を続けたいのだが><やめる>ということだ。もっと一般的には<xx(し)たいのだが><やめる>、漢語を使えば<願望の停止>ということになる。

<やめる>は<xxをやめる>で他動詞、自動詞は<やむ>(<やまる>ともいうか)。雨がやむ、(雨がやまる)。

英文法で

to stop to talk 
to stop talking 

の違いを学んだ記憶があるが、イタリア語との比較では

to stop to talk

to stop は自動詞だが、イタリア語の再帰動詞風には<(自分の身を)止める>の意になる。

to stop talking 

to stop は目的語 talking (動名詞)をとるので他動詞だが、イタリア語では自動詞 smettere +di +不定詞(英語の原形)となっている。

sptt

Friday, July 12, 2019

植物(学)用語のやまとことば - はなぶさ


前回のポスト<蓼食う虫も好き好き>に関連して植物(学)用語の花序のやまとことばについて調べてみた。

花序は<かじょ>と読み、耳で聞いただけでは何のことだかわからない。関連語と思われるやまとととばの<はなぶさ>をネットで調べてみると


大辞林 第三版の解説

はなぶさ【花房・英】

花が房状に群がり咲いているもの。また、その花。
花の萼がく。 〔和名抄〕


はな‐ぶさ【花房・英】

〘名〙
植物(がく)
書紀720)皇極三年六月(岩崎本訓)「劔の池の蓮の中に一の茎に二の萼(ハナフサ)ある者有り」
ふさのようになって咲く花。また、単に花。《季・春》
枕(10C終)八八「色あひふかく、花ぶさ長く咲きたる藤の花の」
植物「すずしろそう(蘿蔔草)」の異名。



となっている。昔は(がく)のことであったこともあるようようだが(注)、今日では<はなぶさ>は

花が房状に群がり咲いているもの。また、その花。  
房状>は<ふさ状>と読みまたその意味だろう。)
-----
ふさのようになって咲く花。また、単に花。《季・春》
枕(10C終)八八「色あひふかく、花ぶさ長く咲きたる藤の花の」

の意が普通だろう。つまりは<はなのふさ>というよりは<ふさ(のように)なっている花>ということだろう。<ふさ>は漢字では<房>に字があてられているが、少し調べた限りでは<房>は<部屋>の意味で<ふさ>の意味がない。一方<総>は多義語だが<ふさ>の意味があるようだ。さてこの<はなぶさ>だが、植物(学)用語では広い意味で花序になる。逆に<はなぶさ>は花序のやまとことば候補だ。一方花序>をこれまたネットで調べて見ると、多くは図が出てくる、簡単なのもあればやや詳しいのもある。やや詳しいのをコピー(ペイスト)すると、

http://suzuka.la.coocan.jp/flowerphoto/kajo.JPG

花序 総状、穂状、散房、(散形)複散形、単2出集散、複2出集散、円錐、肉穂、
頭状、かま形、扇形、巻散、互散



以上は総状花序、穂状花序、散房花序、散形花序、 集散花序、. . . .

となる。いずれにしても漢字の羅列で、<かま形(がた)>を除くと、耳で聞いただけでは何のことだかわからない。扇形も<おうぎがた花序>ならいいが<せんけいかじょ>だと何のことだかわからない。

もう一つ


https://yumesaibito.at.webry.info/200703/article_84.html

植物 樹木 ■花のつき方:花序

複数の花が集まってまとまりのある形をつくっているとき、その配列様式を花序という。

画像



花のつき方:花序

複数の花が集まってまとまりのある形をつくっているとき、その配列様式を花序という。


という簡潔な解説があり、<花序:花のつき方>、つまりは花序のやまとことばは<花のつき方>なのだ。だがこの<花のつき方>の図もやはり漢字の羅列だ。つまり総状花序、集散花序、穂状花序、散房花序、散形花序、. . . . だ。総を<ふさ>、穂を(穂状は<すいじょう>と読むようだが<水上>がまず頭に浮かんでだろう)を<すい>ではなく<ほ>とよめば何とかなりそうだが、集散花序、散房花序、散形花序は<しゅうさんかじょ>、<さんぼうかじょ>、<さんけいかじょ>は耳で聞いてはもちろん読んでも何のことだかわからない。集散は<集まって散る>だが上記の集散花序の図に見られる配列はどう見れば<集まって散る>になるのか。何のことだかわからない名前の原因は<漢字制限>にあるようだ。上記の花序の名前は中国由来のようで、中国の花序名を調べて見ると

http://tc.wangchao.net.cn/baike/detail_61788.html


無限花序

図はなぜか簡体字になっているが、解説は繁体字だ。ふつうは二次元図だが、この
図は三次元のイラストで立体的だ。傘房花序や傘形花序や頭狀花序は三次元イラストのほうが誤解をまねかない。



簡單花序

1、總狀花序(raceme)
  花軸單一,較長,自下而上依次著生有柄的花朵,各花的花柄大致長短相等,開花順序由下而上,如紫藤、荠菜、油菜的花序。

2、穗狀花序(spike)
  花軸特別肥大,凹陷呈囊狀,僅在上端有1小孔與外界相通,很多無柄小花著生在凹陷的腔壁上,小花單性,雄花分布在內壁的上部,雌花分布在內壁的下部,從外面看,所有的花幾乎隱沒不見,故得名,如無花果的花序。如禾本科、莎草科、苋科和蓼種中許多植物都具有穗狀花序。

3、柔荑花序(catkin)
  花軸較軟,其上著生多數無柄或具短柄的單性花(雄花或雌花),花無花被或有花被,花序柔韌,下垂或直立,開花後常整個花序一起脫落。如楊、柳的花序;栎、榛等的雄花序。

4、傘房花序(corymb)
  或稱平頂總狀花序,是變形的總狀花序,不同于總狀花序之處在于花序上各花花柄的長短不一,下部花花柄最長,愈近花軸上部的花花柄愈短,結果使得整個花序上的花幾乎排列在一個平面上。花有梗,排列在花序軸的近頂部,下邊的花梗較長,向上漸短,花位于一近似平面上,如麻葉繡球、山楂等。如幾個傘房花序排列在花序總軸的近頂部者稱複傘房花序,如繡線菊。一種變形的總狀花序。開花順序由外向裏。如梨、蘋果、櫻花等的花序。
  
5、頭狀花序(capitulum)
  花軸極度縮短而膨大,扁形,鋪展,各苞片葉常集成總苞,花無梗,多數花集生于一花托上,形成狀如頭的花序。如菊、蒲公英、向日葵等。

6、隱頭花序(hypanthodium)
  花序軸特別膨大而內陷成中空頭狀,許多無柄小花隱生于凹陷空腔的腔壁上,幾乎全部隱沒不見,整個花序僅留頂端一小孔與外方相通,爲昆蟲進出腔內傳布花粉的通道。小花多單性,雄花分布內壁上部,雌花分布在下部,如無花果、薜荔等。

7、傘形花序(umbel)
  花軸縮短,大多數花著生在花軸的頂端。每朵花有近于等長的花柄,從一個花序梗頂部伸出多個花梗近等長的花,整個花序形如傘,稱傘形花序。每一小花梗稱爲傘梗。如報春、點地梅、人參、五加、常春藤等。

8、肉穗花序(spadix)
  基本結構和穗狀花序相同,所不同的是花軸粗短,肥厚而肉質化,上生多數單性無柄的小花,如玉米、香蒲的雌花序、有的肉穗花序外面還包有一片大型苞葉,稱佛焰苞(spathe),因而這類花序又稱佛焰花序,如半夏、天南星、芋等。
  以上所列各種花序的花軸都不分枝,所以是簡單花序。另有一些無限花序的花軸具分枝,每一分枝上又呈現上述的一種花序,這類花序稱複合花序。常見的有一下幾種:

複合花序

1、圓椎花序(panicle)
  又稱複總狀花序。長花軸上分生許多小枝,每個分枝又自成一總狀花序,如南天竺、稻、燕麥、絲蘭等。
  2、複傘形花序(compound umbel)
  花軸頂端叢生若幹長短相等的分枝,各分枝又成爲一個傘形花序,一分枝又自成一傘房花序,如胡蘿蔔、前胡、小茴香等。
  3、複傘房花序(compound corymb)
  花序軸的分枝成傘房狀排列,每一分枝又自成一傘房花序,如花楸屬。
  4、複穗狀花序(compound spike)
  花序軸有1或2次穗狀分枝,每一分枝自成一穗狀花序,也即小穗,如小麥、馬唐等。
  5、複頭狀花序(compound capitulum)
  單頭狀花序上具分枝,各分枝又自成一頭狀花序,如合頭菊。

(もっと詳しく知りたければ https://slidesplayer.com/slide/11304517/)


集散花序、散房花序、散形花序は元来(多分)中国では

集散花序 -> 衆傘花序、衆撒花序 (撒=傘) (これは上に中国語版にはない)

(集散花序[cyme]。もっと詳しく知りたければ https://ww1.fukuoka-edu.ac.jp/~fukuhara/keitai/kajo_junjo.html)

散房花序 -> 傘房花序

散形花序 -> 傘形花序

集は衆でともに<集まり>の意があるが、散に傘の意味はない。傘の意味があるのは<撒>でこれが繁体字では出てくる。

總狀花序(raceme)  - racemus
穗狀花序(spike) - spike
傘房花序(corymb) - corymbus
傘形花序(umbel)  - umbel (umbrella の関連語)
圓椎花序(panicle) - panicle

中国名は英語(西洋語)の影響をうけていると考えられる。ちなみに

racemus (ラテン語) racēmus m (genitive racēmi); second declension cluster or bunch of grapes, berries or similar fruits quotations
spike -  とげ
corymbus (ラテン語)corymbus m (genitive corymbī); second declension

cluster of fruit or flowers
umbel - umbrella
panicle (英語)-  Borrowed from Latin pānicula, diminutive of pānus (ear of millet, literally 'thread wound on a bobbin'), from Ancient Greek πῆνος (pênos, web), πηνίον (pēníon, bobbin).
panicle (plural panicles) (botany) A compound raceme. 
Hyponyms tassel (ふさ(飾り))

しつこいようだがまだ続く。<はなぶさ>は響きのいいやまとことばだが、花序のやまとことばとしては<はなぶさ>よりも<花の付き方>の方がいい。

花の付き方; 複数の花が集まってまとまりのある形をつくっているとき、その配列様式(並び方の姿)を花序という。

でいいと思うが<序>は<序列(配列)>以外に<順序>の<序>の意がある。英語では<花の付き方>に相当する学術用語inflorescence というのがある。florescence だと<花の(集まりの)配列)>だがあたまに in がついたinflorescence と時間的に見た花の咲き方、咲く順序だろうから漢語だが<花序>がふさわしい。一方やまとことばの<花の付き方>は配列(の様式)のみならず時間の差による花の付き方を含む<花の付き方>とも言えるので一般的だ。


集散花序[cyme]  は上に述べたように上に中国語版にはない。下記の英語版の資料のよれば、

集散花序[cyme] は傘房花序(corymb)ににているが、花の付き方の時間的順序が違うようだ。

https://www2.palomar.edu/users/warmstrong/terminf1.htm


3. Inflorescence Types






具体的な<花の付き方>のやまとことば候補

總狀花序(raceme)  - racemus 子総(こふさ)形
穗狀花序(spike) - spike    稲穂(いなほ)形  上の中国語の解説に ”禾本科、莎草科、苋科和蓼種中許多植物都具有穗狀花序” というのがある。<禾本科>は<イネ科>。
傘房花序(corymb) - corymbus   これは難しい。傘房が何だかわかないのだ。図は二次元だが実際は三次元で、<じょうご>のような形だ。また頭(上部)が平らに近い<子総(こふさ)形>だ。<じょうご>は純やまとことばではなさそうだが<じょうご形>としておく。
傘形花序(umbel)  - umbel (umbrella の関連語) -  傘(かさ)形
圓椎花序(panicle) - panicle -大総(おおふさ)形

集散花序[cyme]  <じょうご形>だが、傘房花序(corymb)との区別が必要だ。


(注)
(がく)は北京語では<è>(曖昧母音の<エ>)だが広東語では<ngok>でこれは<ゴク>に近い、さらには<ガク>に近い。したがって、ほぼ間違いなく、(がく)は漢語由来でやまとことばではない。<(がく)は>の意の<はなぶさ>は漢語の<がく(萼)に>に取って代わられ、意味が<はなぶさ>に移っていったのだろう。

似かよった字の<鰐(わに)>も
と発音する。

この<はなぶさ>の意味の移転はおもしろい。(がく)の意味での<はなぶさ>の<ふさ>は<ふさぐ>に関連があるのではないか?昔(いにしえ)の人々の自然の観察力は、テレビやスマホに目も頭も奪われていてはこの自然の観察力は育たない。(がく)は大体葉お同じ緑色で花のもと(下、元、基)で花を<ふさぐ>ように支えている。<花ざさえ>ともいえる。

sptt







蓼(たで)食う虫も好き好き


<蓼(たで)食う虫も好き好き>はよく聞くし私も使ったことがある。意味は間違いないと思うが

一般には好きになれないヒト、モノを好く人がいる。好みはさまざまで、人によりけり。

といった意味だろう。

物理的な世界は物理や化学の法則で成り立っていると思うが、<好み>は人の世(社会)を作り上げる重要な要因でバカににできない。

さて<蓼食う虫も好き好き>の<好き好き>は<すきき>と読む、というか実際の発話は<すきき>で<すきき>ではない。<好き好き(すきすき)>だと<たいへん好き>になるだろう。<すきき>の意味は<好ききらい>あるいは<好き、好きでない(好きじゃない)>だろうが、この意味では<好き好かず>のはずだが、なぜか<すきずき>。<すきずき>の<ず>には否定の意味がふくまれているのか?


ところで、 <蓼食う虫も好き好き>を口にする人のうち実際に蓼(たで)を食べた人は幾人いるだろうか?漢字の蓼は中国語では<寂寥(せきりょう)>の寥(りょう)と同じよみ<りょう>で<たで>とはまったく関係がない。<たで>は生粋のやまとことばだ。<田(た)に出(で)てくる(草)>が語源か?


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Monday, April 29, 2019

愛(情)と友情のやまとことば

L'amore e l'amicizia sbocciano dove le persone sono oneste.

はイタリア語のアフォリズムだが、日本語に訳すと

愛と友情は正直者に芽生(ば)え、花開く。

英語では
Love and friendship grow (exist) where people are honest.

といったところか。 sbocciano は sbocciare は<開く>という(原形)動詞(の三人称複数現在形)だが (un) boccio は<花のつぼみ>のことなので sbocciare は<開く>とは言っても<芽が吹き(花が咲く)>の意味がある。<正直>は漢語なので言いかえて

愛と友情はいつわりなき者に芽生え、花開く。 

これだと単なるステートメントの感じでインパクトがないので

まとことの愛と友情はいつわりなき者に芽生え、花開く。 

としておく。少しくだけて

まとことの愛と友情にゴマカシの入(はい)る場はない。(<余地はない>がいいが<余地>は漢語だ)

こうすると後半はやまとことばとなっていいが、前半の<愛>、<友情>は漢語だ。

<愛>と<友情>のやまとことばは何か?<友情>はくだけて<友達づきあい>とすると

まことの愛と友達づきあいはいつわりなき者の間に芽生え、花開く。(<つきあい>を考慮して<に>を<の間に>変えてある。)

愛は恋(こい)というやまとことばがあるので、これを使うと

まことの恋(こい)と友達づきあいはいつわりなき者の間に芽生え、花開く。

となるが、アフォリズムの訳語としてはまだかなりのイマイチ。また<恋と友達づきあい>はゴロが悪い。いったい<愛>と<恋>は違うようだ。<愛し合う>とは言うが<恋しあう>とはあまり言わない。これからすると<恋>はどうも個人的で一方的な感情、そして多くは<片思い>のようだ。人類愛、隣人愛、世界愛とはいえるが人類恋、隣人恋、世界恋は聞かない。<愛>と<恋>は違うのだ。友情、<友達づきあい>に関連させると<恋愛(れんあい)>あるいは<恋愛関係>がよさそうで

恋愛(関係)と友達づきあいはいつわりなき者の間に芽生え、花開く。

となり、よさそうだが恋愛(関係)は残念ながら漢語だ。いろいろ考えたがいいやまとことばが出てこない。

(中断)

さらにいろいろ考えた。恋愛関係は<恋人同士の関係>ともいえるが、<同士>は漢語だ。そこで思い切って<恋人たち>とする。そうすると<友達づきあい>は<友だち>でいい。<関係>は文字ずらからはなくなるので<者の間>はおかしくなる。そうすると

まことの恋人たちと友だちにはウソやゴマカシの入(はい)る場はない。

となる。まだまだイマイチだが、すこしアフォリズムらしくなり、そしてすべてやまとことばになる。

-----

よく、または少し考えると 日本語では(日本人は)<愛>と<恋(こい)>は無意識的につかい分けている。しかし、基本的には、英語国民は love、イタリア語国民は amore、中国語国民は<愛>の一語で<愛>と<恋(こい)>に対応させていることになる。


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<愛と友情>のやまとことばは何か?



Friday, February 15, 2019

<甘える>と<甘んじる>-似て非なるもの - 結論編


かなり前のポスト<<甘える>と<甘んじる>-似て非なるもの>の始めと終わりに次のように書いておいた。


<あまえる>、<あまんじる>は漢字で書くと<甘える>、<甘んじる>で関連がありそうに見える。しかし、よく調べてみると<甘える>と<甘んじる>は似て非なるもののようだ(何か関連がありそうでもある)。

大幅中略

 <甘(ama)い>と<余(ama)り>は関係がありそうだが別の機会に検討予定。



前のポストではもっともらしいことを書いたが、これは行き過ぎ、こじつけ過ぎで、結局のところ<甘んじる>の方は

xxxxを甘んじて受ける

の意で、これは漢語の<甘受xxxx>由来で十分説明できる。<甘受xxxx>は原文で三国演義を読んでいるときに<輒>という見慣れない字を辞書で調べているときに出くわした。辞書では例文として

甘受專輒之罪

をあげている。<輒>は前の字<專>(専断、専制の<専>)と同じような意味。

<xxxx>のところは<受けたくない>内容がくる。 <受けたくない内容だが、よろこんで受ける>と言う意味なのだ。これで

現状に甘んじる
批判に甘んじる
屈辱に甘んじる

はいずれも説明できる。 <甘い>と<よろこんで>はすぐには結びつかないが、<苦(にが)く受ける>の逆を想像すればいい。

<甘んじる>は上記とはズレがあるが<満足する>の意があり<今回の勝利に甘んじることなく、精進(しょうじん)する>といったスポーツ選手の言い方がある。日本語らしくはないが、これは<今回の勝利に己(おのれ)を満足させることなく>とすると積極性がでる。さらには、もとへもどって<今回の勝利に己(おのれ)を甘えさせることなく>となる。したがって<あまえる>、<あまんじる>は関連があるというか、同根なのだ。


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Monday, January 21, 2019

<あなどる>の語源


<あなどる>は漢字で書くと<侮る>で侮辱の侮(ぶ)だ。<侮る>の意味は侮辱ほどのことはなく<軽く見る>というのが辞書にある。<甘く見る>、<バカにする>やいかにもやまとことばらしい<見くびる>もこれに近い。なぜか否定用法が多い。

そうあなどりなさんな。
これを軽く見てはいけない。
そう甘く見ない方がいい。
バカにしないで。そうバカにしたものでもない。

否定でない例

あなどると、軽くみると、甘くみると、バカにすると、みくびると、ひどい目にあうぞ。

 さて<あなどる>の語源だが、いろいろ考えてみたが、説得力のある説明がみつからない。

<穴を取る>では何のことだかわからない。頭の<あ>は接辞だろう。そうすると<などる>となるが、これまた何のことだかわからない。<などる>の古形は<なづ>だろう。語呂からだけでは<なでる>があり、これも古形は<なづ>だろう。<なでる>が標準語だろうが<なぜる>と言うのもある。<頭をなでる>は子供をかわいがったり、ほめたりするときに付随する動作だが、少し飛躍すれば<軽く対応する>(なでておく程度に扱う)の意になる。

<なでる>の<な>を接辞とすると、原形は<づる>、<ずる>だろう。 <づる>、<ずる>はさらに<擦(す)る>由来だろう。<擦(す)る>は超一般動詞の<する>とイントネーションが違う。<擦(す)る>は派生語がけっこうある。

擦る
こする
さする
なする (なすりつける)
ゆする

ずる
(いざる、いざり寄る)
けずる
めずる (虫めずる姫君)これはまちがい。<めづる>が正解。<めでたい>は関連語だろう。
ゆずる

ずれる
はずれる
ずり落ちる
ずるける

ずる休み
ずるをする  

<擦(す)る 、こする、さする 、なする>は同じような動作だ。<けずる>もこの仲間といえる。

<見くびる>は<くびる>が<くびれる>で、これは<筒状のもの一部がへこんで細くなる>ようなことで、蜂の胴体はくびれている、などと言う。この<くびれる>を連想すれば<みくびる>の意は出てきそう。<見くだす>、<見さげる>は<見くびる>とは違う。

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Friday, January 18, 2019

<いのり>、<のろい>、<なのり>


<いのり(祈り)>と<のろい(呪い)>は古語の<のる>関連語だ。

いのり <- いのる
のろい <- のろう

<のる>は今は使わないが

<なのる(名+のる)>で今も使われている。<なのり>は<なのる>の連用形の名詞(体言)用法。<名を名のれ>はおかしいが使われるのは<なのる>の元の意味が薄れてしまったためか、語呂がいいためからだろう。その他では

のりと (祝詞)
みことのり <み+ことのり>の<ことのり>の<のり>
<のたまわく>(<- のりたまわく) の<の(り)>

にからくも残っている。

<のる>は単なる<言う、語る>ではなく神がかった><言う、語る>と言える。

漢字の話になってしまうが、<呪う>は違うが

祈り

社(やしろ)
祭り
祟る(たたる)
祠(ほこら、と読む)
禰宜(ねぎ、と読む)

はいずれも<示>がつく。さらには

祝う


禍い(わざわい)
禁じる (北京の紫禁城)

は<示>がつく。

いまは名刺交換などで簡単にすませているが、<名のり>は一種の儀式で昔はく神がかった>ものだったろう。<問われて名のるもおこがましいが>と言う決まり文句がある。日本のむかしの戦記物での<名のり>は勇ましく、自慢げなのが多い。水滸伝では<名のり>の場面が随所にでてくるが、<問われて名のるもおこがましいが>と同じくへりくだった言い方が多い。とくに主人公の宋江の場合がそうだ。水滸伝の時代背景は宋の時代だが、水滸伝が書かれたのは明の時代。中国、日本で謙譲の美徳が出てきたのはいつごろからか?


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Wednesday, January 16, 2019

<かわいい>の語源と派生語


<かわいい>は<可愛>の中国語発音がなまったものと長らく思っていたが、<いじらしい>、<にくらしい>、<いやらしい>、<いやががらせ>などを調べているうちに、たまたま手もとの三省堂辞書で<かわいい>を引いてみたら、<可愛>はわたしのカン違い、先入観で、<かわいい>はれっきとした大和言葉なのだ。もともとは<かははゆし>でこれが(<かはゆし>)<かわゆい>、<かわいい>に変わっていった、とある。<かははゆし>の項目はこの現代語の三省堂辞書にはないので、Wiki-Japanにあったてみた。

Wiki-Japan<かわいい> の一部


語源とその変遷
「かほはゆし(顔映ゆし)」が短縮された形で「かはゆし」の語が成立し、口語では「かわゆい」となり、「かわゆい」がさらに「かわいい」に変化した。
「かほはゆし」「かはゆし」は元来、「相手がまばゆいほどに(地位などで)優れていて、向けしにくい」という感覚で「気恥ずかしい」の意であり、それが転じて、「かはゆし」の「正視しにくいが放置しておけない」の感覚から、先述の「いたわしい」「気の毒だ」の意に転じ、不憫な相手を気遣っていたわる感覚から、さらに「かはゆし」(「かわゆい」「かわいい」)は、現代日本語で一般的な「愛らしい」の意に転じた。
「かわいい」の漢字送り仮名による表記の「可愛い」は、当て字との説もあるが、中国から伝来した文学等の文書に見られる、「愛らしい」の意の語「可愛可爱)」に由来するとも思われる[要出典]。この語は現代中国語で「カアイ」という音形を持つため、かわいいの語幹と音も近似する。現代中国語でも「愛らしい」の意では一般に使用される。
形容詞に「〜そう」をつけることで、推定を表す単語にすることが可能だが、「かわいい」の場合、「かわいそう」となり「哀れみ」などの意味にもとれることになり、話者の意図に合わない。そこで、最近では、「かわいい」の語源である「かわゆい」に「〜そう」をつけた形である「かわゆそう」という表現が適切だという見解もみられる。


(注:現代中国語で「カアイ」という音形、は<クアイ、ke-ai、だが<e>は<エ>ではなく、いわゆる曖昧母音の<e>
<形容詞に「〜そう」をつけることで、推定を表す単語にすることが可能だが、「かわいい」の場合、「かわいそう」となり「哀れみ」などの意味にもとれることになり、話者の意図に合わない。>のところは、その前にある<先述の「いたわしい」「気の毒だ」の意に転じ、不憫な相手を気遣っていたわる感覚から>という解説からすれば意図に合わないことはない。)

前半の<かほはゆし>が<かわいい>に変わっていく過程の説明は想像を絶するものがある。いいくら想像をたくましくしても<かほはゆし>は<かわいい>にならない。木の枝分かれは、よく見ると、これに似たところがある。何らかの原因、複雑に絡み合ったもろもろの原因がなせるわざだろう。生物(動物、植物)の進化も想像を絶するものがある。この想像を絶する変化、派生は限りなくおもしろい。

これである程度了解したが、後半の解説は私の疑問と同じようなところがある。<かわいい>はほぼ完璧(かんぺき)な派生語をつくる。

かわいがる
かわいそう
かわいらしい

ところが以上は<がる>、<そう>、<らしい>の一般的な解説では説明がつかないのだ。

<がる>(<がる>シリーズのポスト参照)

第一義は

いかにも<いやだ>という状況にあるという印象を与えるような言動をする。

第二義は

いかにも<いやで>あるかのようにふるまう。

<かわいがる>はこのような定義では説明がつかない。

<そう> 

これはまだ調べていないが<そう(だ)>は<よう(だ)>に似たところもあるが(<行きそうだ>)、<行くそうだ>は伝聞の助動詞。

<かわいそう>はこれだと説明がつかない。

これはWikiの解説で説明がつく。

<らしい>

推定: <来るのはどうやら花子らしい>、<行くらしい>
xx にふさわしい、につかわしい    男らしい決断、女らしいしぐさ

詳しくは ”大和言葉<xxx らしい>と漢語<xxx (の)よう(様)だ>の対決” 参照。

<かわいらしい>はこれでは説明がつかない。

いま調べている<いじらしい>も同じようなところがあり<いじ>と<いじらしい>が結びつかないのだ。もっとも<いじ>が何だかよくわからない。

<いじらしい>は上のWiki解説のなかにある<先述の「いたわしい」「気の毒だ」の意に転じ、不憫な相手を気遣っていたわる感覚>に通じるものがあるが<いじ>との関連がよくわからない。

似たようなよくわからないのに

うるさい
うるわしい
うれい
うれしい 

がある。別途チェック、検討予定。

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Sunday, January 6, 2019

感謝のやまとことば


<同情のやまとことば>、<謝罪のやまとことば>に続いて<感謝のやまとことば>を調べてみる。


ありがとうございます。 ありがとう。 ありがたい。
かたじけない。 (男性用語)
いたみいる。 (ほとんど聞かないので、ほぼ死語か) <いたみいる>は元来<謝罪のことば>だろう。

-----

もうしわけない。

これはふつうは<謝罪のことば>だが、何かをしてもらったった場合には使えて<感謝のことば>になる。

私が住む香港の広東語(広東省の広東語も同じ)では感謝の言葉の表現に二つの違った言い方がある。例外はあるが、基本的には

1) 何かをもらったっ場合

多謝 (発音もソフトな<トチェ>とハードな<トツェ>の二つがある。かなり前のポスト ” 灣仔(湾仔)の軟音、硬音、メチャクチャな<たちつてと>” 参照)

2)何かをしてもらった場合 (サービスを受けた場合)

唔該 (ムンコイ発音する)

北京語はこの区別がなく<謝謝(シェ-シェ)>の一つですむ。もっとも北京語でも<謝謝>と言われた場合に<应该(応該)的(インカイダ)>(<すべきことです>が直訳だが、<どういたしまして、とんでもない>相当か)というのがある。

例外1
店や食堂の店員は客に対して<多謝>という。


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謝罪のやまとことば


<同情のやまとことば>につづいて<謝罪のやまとことば>に挑戦。謝罪は<あやまること>、動詞とみれば<あやまる>だ。(中国語では基本的に名詞と動詞の区別がない。)<わたしはあやまります>でよさそうだが、ほとんど聞かない。ダメではないが、場合にによりけり。これは助詞の<は>のなせるわざで、場面は違うが<わたしがあやまります>はそのままで問題ない。この違いは最後にとりあげる。<わたしは(が)あやまります>は謝罪のやまとことばそのものではない。謝罪の言葉は

すみません。 すまない。
もしわけありません。 もうしわけない。
ごめんなさい。 ごめん。
あしからず。
おわびします。 おわびもうしあげます。
いたみいる。 (ほとんど聞かないので、ほぼ死語か。手もと辞書では感謝のことばでもある。)

<おわびします>を除くと、いずれも、もってまっわた言い方で、たとえば英語に直訳した場合には何んことだかわからないだろう。

もう少しシリアスになると

(わたしが)わるうございました。
(わたしが)あやまちをおかしました。
(わたしが)まちがいました。
とんでもないことをいたしました。
いたらぬことをいたしました。


すみません。 すまない。

これは<あやまって済むものではないことはわかっていますが . . . .>

の略だ。


もしわけありません。 もうしわけない。

これは<(誤(あやま)りの)申し訳、申しひらき、(いいわけ、説明)はありません>。

の略だ。<誤(あやま)り><誤り>と謝罪(あやまること)の<謝(あやま)る>、その連用形の体言(名詞)用法の<謝(あやま)り>は関連があろう。一方中国語辞典にあたると、謝罪(say sorry)と謝礼(thank you)の両方に<謝>の字がある。

英語では Excuse me. と言う表現がある。I am sorry. ほどではないが、場合によっては軽い謝罪の言葉になる。<軽い>のはたぶん an excuse に<いいわけ>の意があるためだろう。Excuse me. は<いいわけがない>ではなく<いいわけさせてくれ>に近い。一方。I am sorry. のほうはもとの意味は<わたしはかなしい、残念だ>。人が亡くなったときにはI am sorry. と言う。もちろんあやまっているわけではなく、<わたしはかなしい、残念だ>の意だ。


ごめんなさい。 ごめん。

<ごめん>は御免で、この御免の<免>は<免(めん)じる=免ずる、免+する>で<許すこと>だ。<ごめん>だけなら<御免(をおねがいします)>、<お許(ゆる)し願います>で意味が通じる。<御免なさい>の<なさい>は<xx しなさい>とすると<御免しなさい>でおかしなことになる。江戸弁では<御免なっすて>といっていたようなので、これだと<<御免なさってください>となるようなので、これがなまったものだろう。御免はやっかいで、

それでは、これで御免。
それは御免こうむる。

という言い方がある。派生用法だろう。ここでは詮索しない。


あしからず。

これは古語の形容詞<悪(あ)し>(現代語では<悪(わる)い>)の未然形<あしから>+ ず(否定)だろう。<ず>は未然形につく。

あしからば 未然形 - もし(具合が)悪ければ
あしかれば 已然形 - (具合が)悪いので

<あしからず>は文字通りでは<わるくない>、<わるくはない>で、これではあやまりの言葉にならない。<悪く思わないでくれ>、<悪くとらないでくれ>といった意味か?


おわびします。 

<わびる>は現代語では<あやまる>の意になっているが、もと(古語)は<わぶ>>この<わぶ>は<わびしい>と関連があろう。<わびしい>と<わびる>はどういう関係か?<わび、さび>というのもある。<わびしい>は<さびしい>(これまた<さび>のもとだ)にちかい。心理的には、意図はないが悪いことをしてしまったり、まちがったりして人に迷惑をかけた場合、特に相手が好意的である場合<心がさびしくなる、わびしくなる、すさぶ>。

<わびる>、<あやまる>は謝罪を示す言葉ではなく<謝罪する>そのものの意味のやまとことばだ。

<わたしはあやまります>でよさそうだが、ほとんど聞かない。報告調で誠意が伝わらない気(け)がある。これは助詞の<は>のなせるわざ。場面は違うが<わたしあやまります>は問題ない。これも<が>のなせるわざで、第三者的、客観的な報告調の<は>と違って<が>は当事者の直接的な発話者の発話なのだ。これは<わたしはおわびします>、<わたしおわびします>とほぼ同じだ。だが問題はそう簡単ではない。<は>と<が>の違いがここにある。<あやまる>を例にとってもう少し調べてみる。

君があやまらないが、私があやまる。 (ダメ)
君があやまらないが、私はあやまる。 (ダメ)
君はあやまらないが、私があやまる。 (ダメ)
君はあやまらないが、私はあやまる。 (OK)

君があやまらいなら、私があやまる。 (OK)
君があやまらいなら、私はあやまる。(ダメ)
君はあやまらいなら、私があやまる。 (ダメ)
君はあやまらいなら、私はあやまる。 (ダメ)

君があやまらいので(から)、私があやまる。 (OK)
君があやまらいので(から)、私はあやまる。(ダメ)
君はあやまらいので(から)、私はあやまる。 (ダメ)
君はあやまらいので(から)、私はあやまる。 (ダメ)

君があやまらなくても、私があやまる。 (ダメ)
君があやまらなくても、私はあやまる。(OK)
君はあやまらなくても、私があやまる。 (OK)
君はあやまらなくても、私はあやまる。 (OK)

君があやまらない。私があやまる。 (ダメ)君があやまらない。私はあやまる。(ダメ)
君はあやまらない。私があやまる。 (ほぼOK)
君はあやまらない。私はあやまる。 (OK)

場合によりけり、人によりけりだが、一般的にはこのようだろう。

<は>と<が>の論議はゴマンとあるが、この比較をやっているうちにある発見をしたので、別の機会に別のポストを書く予定。


いたみいる。

手もと辞書では謝罪のことば、でもあり感謝のことばでもある。  もちろん<(心が)痛む>がもとだ。この<心が痛む>は、<詫びる>に似て

心理的には、意図はないが悪いことをしてしまったり、まちがったりして人に迷惑をかけた場合、特に相手が好意的である場合<心が痛む>(苦痛)となり、この<心の痛み、苦痛>があることを言葉で伝えることによる謝罪の意だ。感謝の意はどこからくるのか?


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Saturday, January 5, 2019

同情のやまとことば


同情のやまとことばを調べてみた。私から見た使用頻度順に書き出すと

かわいそう(だ)
気の毒(だ)  毒(どく)は漢語だが、この表現は日本語として無視できない。
いたましい <- (こころが)いたむ
あわれ(だ) <-あわれ、  <もののあわれ>というのが日本人の(美学)コンセプトとして古文学習ででてくる。
 いじらしい

同情からは少しずれるようだが

いとおしい <- いとおしむ  <- おしむ
おもいやり <-おもいやる 
こころくばり
気にかける

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かわいそう(だ)
気の毒(だ)
いたましい
あわれ(だ)
 いじらしい

以上は形容詞、形容動詞で対象が主語になり、対象の様子をあらわすが、それにとどまらず発話者の感情(気持ち、こころ)に働きかけているとかんがえられる。言い換えると

わたしは<xx を>かわいそうに思う(感じる)。
わたしは<xx を>気の毒に思う(感じる)。
わたしは<xx を>いたましく思う(感じる)。
わたしは<xx を>あわれに思う(感じる)。
わたしは<xx を> いじらしく思う(感じる)。

となる。他人の感情(気持ち、こころのうち)は実際わからないので

花子は<xx を>かわいそうに思う(感じる)。
(以下同じ)

は日本語では変な感じがある。だが英語や中国語では、この辺はいい加減で

花子は<xx を>かわいそうに思う(感じる)。

ですませているようだ。(例文はあるが、ここでは省略)

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最近調べているが

かわいそう(だ)
気の毒(だ)
いじらしい

はやまとことばのミステリーといえるほど分析が難しい。

<かわいい>は同情とほとんど関連がない。
<気の毒>とは何か?
<いじらしい>の<いじ>は<意地っ張り>の<意地>か?そうすると<いじらしい>がなぜ同情をあらわすのか?

あわれ(だ)

<あわれ、あわれむ>は<もののあわれ>というのが日本人の(美学)コンセプトとして古文学習ででてくる。これも意味の派生がある。だがこれはミステリーというほどではない。

いとおしい <- いとおしむ  <-おしむ

<それは惜(お)しいことをした。>は同情表現だろう。 <惜しむ>は<xx を惜しむ>で他動詞。<惜しい>は形容詞だ。

わたしは<xx を>いとおしく思う(感じる)。

はいいが

わたしは<xx を>おしく思う(感じる)。

はダメだ。これは<わたしは<xx を>残念に思う> の意になる。

<おもいやり>は<思いを遣(や)る>でいい言葉だと思うが、使われすぎているためか、あるいは日本人の美点にされているためか、<しいられた思いやり>もあるようだ。<思いやりの心をもて>とか、一歩譲って<少しは思いやりの心をもったら(どうか、どうなんだ)>というのはよく聞く。


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Friday, January 4, 2019

<欲>と<理>のやまとことば


<欲>も<理>も漢語だ。二語であらわせば<欲望>と<理性>。<欲望>と<理性>の対比や関係は、少し突き詰めて考えると哲学や心理学となり、分析はそれこそゴマンとある。欲と理の大和言葉は何か。日本は哲学や心理学を西洋や中国のように目に見えて発展はさせなかったが、<欲>も<理>に対する考え方は言葉、特に大和言葉に反映されているはずだ。

4,5年前のポスト<よこしまな、筋を通す>というのを書いた。 <すじ、筋>、<筋を通す>は理に近い。<欲>の方を考えてみる。<欲>はやまとことば読みでは<欲(ほっ)す(る)>、<欲し(い)>、<欲しがる>。<いかまほし>が<行きたい>となるようで<まほし>(<し>は古語の形容詞語尾)というのもある。<ほし>、<ほしい>は形容詞だが、動詞の<欲(ほっ)す(る)>より格段頻繁に使われる。<たい>(古語は<たし>)は<欲>をあらわす助動詞といえる。<よく、欲>は<欲張(よくば)り>ではと<よく>がやまとことばのように聞こえる、見えるが、これは

漢語の<欲、北京語<yu>、広東語<yuk (*)> + はる(張る)

(*)広東語は古い時代のある地域の発音を残しているといわれる。

で漢日の混成語だ。<欲張り>に似た構成で<意地(いじ)っ張り>というのがある。別のところで書いているが、この<意地>は漢語かやまとことばか決めかねるところがある。(sptt Notes on Grammar  ”<いじめ>と<いじ>について - 文法解析 ”)。<き、気>が漢語かやまとことばかよくわからいのに似ている(sptt Notes on Grammar <気は心>)。

拡大解釈すると

欲張り = 意地っ張り

になる。<いじ>(以下あえてできるだけ漢字を使わないで進める)には

いじっ張り

以外に

いじが悪(わる)い、いじわる
いじがきたない

が日常よく使われる。 一方

いじは悪(わる)い。
いじはきたない。

いじがいい(よい)。
いじはきれい、清(きよ)い。

いじはいい(よい)。
いじはきれい、清(きよ)い。

とは言わない。これからすると<いじ>自体は中立ではなく、少しばかり悪い、否定的な意味を背負っているようだ。<欲>の方は、<欲>自体に基本的に倫理的に悪い、否定的な意味がある。

欲が悪(わる)い。
欲がきたない。

とはいわないが(あたりまえのことで、変な重複表現になる)

欲は悪(わる)い。
欲はきたない。

なら意味が通る。<欲>は<悪く、きたない>のだ。

欲が多い(大きい)、欲が少ない(小さい)

は意味があるが

いじが多い(大きい)、いじが少ない(小さい)

は聞かない。したがって<いじ>は計(はか)れないしろものなのか?

以上から<いじ=欲>でないことは明らかだ。似て非なるものでもないといえる。<いじ>はいったい何か? <いじを張る>はあるが<いじを通す>は<すじを通す>ほどは聞かないし<すじを通す>ほどいい意味はない。

<すじ>は<理>と言え、<すじを通す>には<無理がない>。一方<いじを張る>はもちろん<いじを通す>も無理が感じられる。これは<いじ>と<すじ>の大きな違いだ。


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